高知で指された昨日の第7期女流王座戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王座が9勝,加藤桃子女王が4勝。
高知市長による振駒で里見王座の先手となり,5筋位取り中飛車。加藤女王は左美濃で応戦。先手から仕掛ける形で大激戦でした。分岐になった局面がいくつかあったと思いますが,最大のポイントは第1図だったようです。
先手が飛車を成って後手が受けた局面。この受けはあまりよくなく,☖4二飛と受けるべきだったようです。
先手はここで☗5一龍☖同金☗7三角の両取りを掛けるのが有力だったようです。☖5二飛と受けられるので駒得になるわけではありませんが☗5三歩☖同飛☗6四角成で飛車取りとして,飛車は成られますが自陣に追い返して攻撃目標にするか押さえ込むことができました。しかし実戦は☗4五歩。
これは☖同金なら前述の手順にしたときにさらに得になっていそうですが当然ながら☖同馬。以下☗3六銀☖8一馬としてから☗2六桂と打ったのですが☖5二歩☗5六龍と逆に追い返されました。
これで先手は攻めるのが大変になり,苦戦を招きました。第2図以下,後手もかなりもたついたので手数は長くなったのですが,先手が挽回するには至りませんでした。
加藤女王が先勝。第二局は来月11日です。
スピノザは自身の哲学が内在論であることについて旗幟鮮明にしています。それが第一部定理一八です。その証明Demonstratioから分かるように,スピノザはそこで第一部定理一五と第一部定理一四に依拠し,神Deusはそのうちにあるものすべての原因であり,かつ神の外に自立するいかなるものも存在し得ないといっているからです。
一方,この定理Propositioでスピノザが神は内在的原因であるといった後で,超越的原因ではないといっているのは,内在論に対立する論理が超越論であるからです。そして,神学的観点に立つ者は,何ほどか超越論を肯定しなければならないというのが僕の考え方なのです。したがって,そういう立場の人びとが,スピノザがあらゆるものの内在的原因であると主張しているものは自然にほかならないのであって,神はその自然の外に超越的に存在する何ものかであるという主張をするのは,理由があることなのだと僕は考えます。ですから神学的観点からスピノザを批判することは,それが正当な批判であるかどうかということと別に,理由がないことではないと僕は考えるのです。
たとえば『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,聖書に散見される奇蹟miraculumと称される出来事が,内在的な立場から説明されます。これは自然法則によって説明されるというのと同じです。なぜならスピノザの哲学では,自然法則というのは神の本性naturaの必然性necessitasと同じ意味なのであって,神が原因となっている出来事はその神の本性の必然性すなわち自然法則によって説明されなければならないからです。しかし神学的観点に立つ場合は,内在的な自然法則はあくまでも自然法則であるとみなし,奇蹟と称されるような事象は神が超越的な立場から引き起こすものであるというのに,理由がないとはいえないでしょう。
また,ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは,スピノザの哲学は論理的には完全なものであると考えていました。そのために論理的にスピノザの哲学を否定することはできないのであり,それは超論理によって否定されなければならないと主張したのです。奇蹟の事例とは異なりますが,これもまた一種の超越論といえるでしょう。神学とスピノザ哲学の争いは,超越論と内在論の争いとみることができるのです。
高知市長による振駒で里見王座の先手となり,5筋位取り中飛車。加藤女王は左美濃で応戦。先手から仕掛ける形で大激戦でした。分岐になった局面がいくつかあったと思いますが,最大のポイントは第1図だったようです。
先手が飛車を成って後手が受けた局面。この受けはあまりよくなく,☖4二飛と受けるべきだったようです。
先手はここで☗5一龍☖同金☗7三角の両取りを掛けるのが有力だったようです。☖5二飛と受けられるので駒得になるわけではありませんが☗5三歩☖同飛☗6四角成で飛車取りとして,飛車は成られますが自陣に追い返して攻撃目標にするか押さえ込むことができました。しかし実戦は☗4五歩。
これは☖同金なら前述の手順にしたときにさらに得になっていそうですが当然ながら☖同馬。以下☗3六銀☖8一馬としてから☗2六桂と打ったのですが☖5二歩☗5六龍と逆に追い返されました。
これで先手は攻めるのが大変になり,苦戦を招きました。第2図以下,後手もかなりもたついたので手数は長くなったのですが,先手が挽回するには至りませんでした。
加藤女王が先勝。第二局は来月11日です。
スピノザは自身の哲学が内在論であることについて旗幟鮮明にしています。それが第一部定理一八です。その証明Demonstratioから分かるように,スピノザはそこで第一部定理一五と第一部定理一四に依拠し,神Deusはそのうちにあるものすべての原因であり,かつ神の外に自立するいかなるものも存在し得ないといっているからです。
一方,この定理Propositioでスピノザが神は内在的原因であるといった後で,超越的原因ではないといっているのは,内在論に対立する論理が超越論であるからです。そして,神学的観点に立つ者は,何ほどか超越論を肯定しなければならないというのが僕の考え方なのです。したがって,そういう立場の人びとが,スピノザがあらゆるものの内在的原因であると主張しているものは自然にほかならないのであって,神はその自然の外に超越的に存在する何ものかであるという主張をするのは,理由があることなのだと僕は考えます。ですから神学的観点からスピノザを批判することは,それが正当な批判であるかどうかということと別に,理由がないことではないと僕は考えるのです。
たとえば『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,聖書に散見される奇蹟miraculumと称される出来事が,内在的な立場から説明されます。これは自然法則によって説明されるというのと同じです。なぜならスピノザの哲学では,自然法則というのは神の本性naturaの必然性necessitasと同じ意味なのであって,神が原因となっている出来事はその神の本性の必然性すなわち自然法則によって説明されなければならないからです。しかし神学的観点に立つ場合は,内在的な自然法則はあくまでも自然法則であるとみなし,奇蹟と称されるような事象は神が超越的な立場から引き起こすものであるというのに,理由がないとはいえないでしょう。
また,ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは,スピノザの哲学は論理的には完全なものであると考えていました。そのために論理的にスピノザの哲学を否定することはできないのであり,それは超論理によって否定されなければならないと主張したのです。奇蹟の事例とは異なりますが,これもまた一種の超越論といえるでしょう。神学とスピノザ哲学の争いは,超越論と内在論の争いとみることができるのです。