スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

神の似姿&杉田

2012-08-04 18:33:58 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』のイワンの場合は,神が存在すると信じたいのだけれども不在なのではないかという疑問が拭えないという逡巡が描かれています。このとき,イワンが神の存在に対する疑問を抱く理由は,あまりに恵まれない子どもが現実に存在するという点でした。しかし,なぜそのことがイワンにそうした懐疑を生じさせるのかということは,問うてみる価値があるのではないかと僕には思えます。そして僕は,おそらく子どもというのが,神の似姿のひとつであるからではないかと思うのです。そしてこれは,イワンの逡巡というのが,実はドストエフスキー自身の逡巡なのではないかと思われるのと同様に,単に『カラマーゾフの兄弟』の数多くの登場人物のひとりであるイワンが抱いている神についてのイメージであるというよりは,ドストエフスキー自身がもっていた神のイメージなのではないかと僕には思えるのです。
                         
 ドストエフスキーは,好んで子どもが虐待されるシーンを書いているかのように僕には感じられます。そしてそれは,実は単に子どもが虐げられるということを意図して書かれていたのではなく,実はそういったシーンを通して,神への虐待ということをドストエフスキーは重ね合わせていたのではないでしょうか。
 そしてもうひとつ,ドストエフスキーが明らかにイメージとして神と重ね合わせているのが,癲癇の発作です。実はドストエフスキー自身が癲癇もちであったらしく,小説の中でこの発作のシーンというのは数多く登場します。そして,それは自身が実際に体験していることだからということもあるでしょうが,非常に仔細に描写されているのです。そしてそのとき,必ずといっていいほど何らかの形で神を感じさせるような筆致が現れています。癲癇というのは特別な病と考えられていて,これを神のイメージと重ね合わせるということは,必ずしもドストエフスキーにのみ特徴づけられることではないようなのですが,少なくともドストエフスキーの小説において,癲癇の発作が子どもと同じように神のイメージと重ねられているということは,そのように理解して間違いのないところであるといっていいと思えます。

 その2日後,日付でいえば7月7日の土曜日が,妹のこの月の土曜出勤の日でした。この日は妹が好きなボーリングが予定されていましたので,前々から本人も楽しみにしていました。
 土曜出勤の場合は,作業所へ送っていくのではなく,この作業所を運営している福祉法人の施設へ送っていくことになります。現在はが送っているわけで,僕に直接的に関係するわけではありませんが,施設は作業所よりも先にありますので,作業所に送っていくのに比べますとやや大変になります。ただしこの日は母はその施設へではなく,ボーリング場の方へ直接送っていきました。
 これには理由があります。
 東日本大震災の当日,僕は横浜駅の状況をみて,徒歩で帰ることを決意しました。ところがその途中で,運よく京浜急行のバスに乗ることができ,わりとスムーズに帰宅することができました。このバスは杉田行きのバスだったのですが,妹の作業所でレクリエーションとしてボーリングをする場合,会場は必ずその杉田にあるボーリング場だったのです。
 僕の家からみますと,杉田と作業所や福祉法人がある施設というのは,まるで正反対の方角です。したがってこのボーリング場に行くために,まず施設へ行って,そこからボーリング場へ向うとすれば,単純に移動ということだけを考えればあまりにばからしいのです。さらにいえば,ボーリング場へ僕の家から直接的に向うとすれば,施設を経由していくよりも出掛ける時刻を遅らせることが可能です。つまり妹からしてみれば,それだけ起きるのが遅くなっても大丈夫なわけです。なので土曜出勤がボーリングという場合には,母はこれまでも決まってボーリング場の方へ妹を送り届けていました。小脳出血で入院する前は,自動車で送っていたわけで,現在は状況は異なりますが,この日もそれまでと同じようにしたということです。
 なお,土曜出勤は必ず昼食込み。つまりボーリングを終えた後,どこかで食事をして,それから施設の方へ全員で戻って解散ということになります。施設はバス停でいえば4つほど作業所よりも先なのですが,ここからでも妹はひとりでバスで帰ってくることはできますので,迎えに行くという必要はありません。
コメント
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