スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

周防国府杯争奪戦&援用の理由

2012-09-25 18:42:29 | 競輪
 GⅠから中3日での開幕ということで,選手の疲労も心配された防府記念の決勝。並びは新田-伏見の福島,浅井-柴崎の三重,浜田ー小倉の四国,松川ー井上の九州で三宅は単騎。
 スタートを取ったのは浅井でそのまま前受け。3番手に新田,5番手に浜田,三宅を挟んで8番手に松川という周回。残り3周のホームから松川が上昇すると浜田がこれに合わせ,バックでは浅井を叩いた浜田が先頭に。ホームに戻って松川が改めて発進し,浜田を叩きましたが今度は新田が動いて先頭に出たところで打鐘。ここから今度は浅井が動き,新田と浅井の先行争いになりました。これを制したのは浅井。このもがき合いを直後で見ていた三宅がバックから発進。しかし直線の手前で柴崎の牽制を受け失速。この牽制で開いたところを伏見が突き,直線で浅井を追いました。しかしバック7番手から自力に転じた井上が大外を豪快に伸び,内の両者を差し切って優勝。浅井はかなり強い内容の2着。伏見が3着。
 優勝した長崎の井上昌己選手は昨年暮れの佐世保記念以来となる記念競輪通算6勝目。当地は一昨年に制していて2勝目。浅井が新田と先行争いを繰り広げたため,末はどうしても欠くことになりますから,少し恵まれた面はありました。ただ任せた松川が不発とみるや自力に転じ,そこからの強さは特筆ものであったと思います。グランプリで優勝した頃の力を取り戻しているとみていいかもしれません。

 スピノザが第二部定理一二を証明する論証の過程において,第二部定理一一系の援用を行っていることは事実ですから,それでもなおかつ僕が第二部定理一二を,十全な観念としてだけ理解することの根拠を,このこととの関連で説明しておく必要はあるといえるでしょう。
 まず第一に,これは大前提ですが,第二部定理一一系の意味のうちには,十全な観念は含まれていないというわけではなく,混乱した観念と十全な観念の両方が含まれているのです。ですから,第二部定理一二について,それを十全な認識と理解することについては,何の問題もない筈です。
 これを前提として,スピノザが第二部定理一二の証明で第二部定理一一系に言及するとき,僕はこれを,ある人間の精神の本性を構成している限りで神のうちにある観念があるということは,そのような仕方で神によって本性を構成されている人間の精神のうちに,そのある観念があるという意味であるということを示す目的であるというように理解します。つまりこのことが,この部分におけるスピノザによる第二部定理一一系の援用の理由のすべてであるというように僕は解するのです。
 しかるに第二部定理一一系でスピノザ自身が説明しているように,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念があるというのは,端的にその人間の精神のうちにその十全な観念があるという意味なのです。確かに当該の部分においてスピノザは,これを,人間の精神があることを知覚するとだけいっていて,この知覚,これは知覚と概念とを分節した意味での知覚ではなく,もっと広く認識するという意味でなければなりませんが,そうした知覚が十全であるか混乱しているかについては言及していません。言及してはいないのですが,それに続く人間の精神のうちに何らかの混乱した観念があるという場合の神との関連付け方の説明と比較するならば,この部分は人間の精神による十全な認識についての言及であると理解しなければならないと僕は思います。
 そしてこの説明の仕方を,スピノザは第二部定理一二の証明の過程で援用しているというのが僕の理解です。よって第二部定理一二は,人間の精神による十全な認識についての言及であると理解するのです。
コメント
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