スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&上野修の解釈

2012-09-05 22:31:34 | 将棋
 僕の地元である横浜での対局となった第60期王座戦五番勝負第二局。
 渡辺明王座の先手で羽生善治二冠の角交換四間飛車。先手が矢倉から穴熊,後手が美濃から銀冠という持久戦になりましたが,後手は手損ばかりを繰り返す展開となり,戦いが始まる前の段階でつまらない将棋にしてしまった感はあります。その後,先手から仕掛け,後手も端から反撃。ただ,これも仕方がないといった側面があり,厳密にいえば無理攻めだったのではないかと思います。その意味では受けに回った先手の判断も正しかったように感じます。
                         
 △2五歩と打たれ,2六にいた飛車が逃げたところ。ここで△4四銀は思い浮かばない手でこの一局で最も印象的でした。手番を得た先手は▲9四歩と伸ばしました。次の△3ニ飛は△4四銀と関連した手で,飛車が直通しています。先手は▲3三歩△同飛とひとつ上ずらせてから▲3八歩と受けました。△9四銀と払ったのに対し,▲5一角と打ち込んだのですが,△6二金引の受けに▲8九王と逃げました。後手は△3ニ飛。
                         
 そんなに働いているとはいえない後手の飛車ですから,わざわざ角を打って交換する価値はなかったということなのでしょうが,それならなぜ角を打ったのかという疑問もあるわけで,ここでは先手が楽観できるような局面ではなくなっているように思いました。指し手だけ進めますが▲5四歩△9六桂▲7七銀△8八桂成▲同王。この手順は玉を寄った手が一手パスのようになっていますが,ひどく損をしたというほどではないのでしょう。後手は△5四角と払いました。先手は▲9三歩。次の△3六歩はかなり驚いた手。先手は▲2五飛と走りました。△3七歩成の継続手。▲9二歩成に△7三玉と逃げました。先手は▲9三と。
                         
 ここで少し時間を使って△9五銀と出ましたが,逃げただけでなく先手玉への手掛かりになっていて,もはや後手の方が勝ちやすくなっているように思えました。▲8五桂は王手というより,相手の打ちたいところに打てといった感じの手。△6三王に▲7三香。ここは後手玉がすぐに詰む形ではないので攻めの手を考えていましたが,△6一金でした。角は逃げられないので▲7二香成△5一金は必然で8五は開いてしまいますが▲7三桂成も普通でしょう。△5二玉もこの一手。そこで▲4六桂と打ったのは凄い手でまたびっくり。ただ△8六歩が詰めろ。先手は王手ラッシュで迫りましたが後手が正確に受けきって勝ちました。さすがに逆転だったと思うのですが,どこでどうなったのか分からない熱戦でした。
 羽生二冠が返して1勝1敗。第三局は19日です。

 僕が理解する第二部定理一二の意味はこのようなものですが,この定理をこのようには理解しない識者というのもいます。ここではその代表として,上野修の解釈を紹介しておきます。
 上野は「われらに似たるもの」という論文の中でこの部分に触れていますが,そこで,人間の精神が認識する自分の身体の中に起こることの観念については,少なくともそれを混乱した観念であると解釈して構わないとしか読解できない記述をしています。実際にはこの論文というのは,第二部定理一二を射程に入れたものでなく,どちらかといえば認識論とか感情の模倣とかいった事柄を中心に構成されたものです。したがって,上野は第二部定理一二をこのように理解する根拠というものを,詳細に説明しているというわけではありません。また,この論文は『デカルト、ホッブズ、スピノザ』という著書に収められていますから,わりと手軽に読むことができる筈で,詳しいことについてはそちらをお読みいただきたいのですが,そもそも上野はこの主張を展開するときに,第二部定理一二を援用することすらしていないのです。
 しかし,僕はこの論文を読んでひとつ気付いたのですが,確かに『エチカ』を理解しようという場合に,第二部定理一二というのをこのように解釈することには,一理あるのです。僕はあくまでも第二部定理一二は第二部定理九系からの直接的な帰結であるという立場を採用しますから,これを混乱した観念としては理解しませんけれども,いかなる意味においてそのように理解することに一理あるといえるのかということについて考えてみることは,僕自身のこの考察にとっても非常に有益なことであると思われますので,まずこの点を検証していくことにします。
 この場合に非常に重要な点は,実は第二部定理一二というのは,少なくともそれ自体で読む限りでは,ある実在的なことについて言及しているというわけではなく,むしろある種の仮定の話をしているのであるという点です。すなわちこの定理は,人間の精神が自分の身体の中に起こることを認識するといっているのではありません。この場合の認識は,それを十全な認識としても混乱した認識としても同じです。
コメント
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