スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

初夢賞&悪の対象

2008-01-06 18:47:28 | 競輪
 新年最初の記念競輪は立川記念。今日はその2日目優秀(動画)の初夢賞が争われました。
 並びですが,西田は九州を選択。海野が中部近畿につけての3分戦。
 前受けは荒井選手。残り2周のバックで村上選手が上昇し,打鐘でこのラインが出きりました。同時に武田選手が外から発進。村上選手と武田選手で先行争いに。両選手とも力のある選手で,なかなか決着がつきませんでしたが,バックに入ったところで武田選手が力尽き,村上選手の先行に。しかしこの争いで消耗してしまったので,ここからの荒井選手の捲りには抵抗できず,このラインがあっさりと捲りきって直線勝負。番手の紫原選手が抜け出して1着。3番手の西田選手も2着に届き,荒井選手は3着まで。
 かなり激しい先行争いになりましたので,荒井選手には願ってもない展開になりました。むしろ3着まで差し込まれてしまったのは不満。今回の立川は,自力選手がやや苦戦しているような印象があります。
 なぜ武田選手と村上選手がああまでむきになってやり合ったのかは分かりませんが,共にかなり脚を使ったのは間違いなく,このあたりは明日の準決勝以降にやや影響してくるかもしれません。

 第四部定理五〇部分的証明である,憐憫という感情がそれ自体で悪であるという点に関しては,以下のような補足的説明を与えておきます。
 憐憫がそれ自体で悪であるのは,憐憫が悲しみの一種であって,したがってたとえばXに対してAが憐憫という感情を抱くとき,Aは大なる完全性から小なる完全性へと移行しているのであって,これがAにとっての悪であるからです。これはスピノザの哲学においていわば絶対的な事柄であって,妥協の余地はないと思います。
 しかし,僕たちが現実的に悪を認識するという場合には,普通はある対象を悪と認識するのであって,こうした憐憫をはじめとする悲しみそれ自体を悪とはあまり認識しません。というのは,僕たちは大抵の場合は自分の悲しみを意識するときに,同時にその悲しみの原因というものも知覚するからであって,それが真の原因であるかどうかはまた別のことですが,そのように知覚した原因のことを悪と認識するからです。
 AのXに対する憐憫という感情についてこれを考えてみれば,この感情はXの悲しみをAが表象することにより,感情の模倣によってAも悲しみを感じます。この場合,普通はAはこの感情をそれ自体で悪とは認識しませんし,また自分に感情の模倣を生じさせた直接的原因ともいえるXを悪であるとも認識しないでしょう。しかしもしもAがこのとき,Xの悲しみの原因としてYを同時に認識するなら,AはそのYを悪と判断するのではないかと思います。
 憐憫という感情がそれ自体で悪であるということは,何か突拍子もないことをいっているかのように感じられるかもしれませんが,もしも悪の対象というのをこのように考えるならば,これは僕たちが経験的に認識するような悪と,さほどの相違はないと考えることもできるのではないかと思います。
コメント
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