スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&第四部定理三〇

2008-01-18 19:38:40 | 将棋
 王将戦七番勝負第一局2日目。先手の久保利明八段の封じ手は☗4六歩。これは実戦のようにほぼ一方的に攻められるので意外な手といえるでしょう。羽生善治王将も少し驚いたのではないかと思いますが,☖2六歩以下の攻めを決行しました。
 48手目に☖2四飛と走った局面は駒割りだけでいえば金と角桂の交換で,後手が駒損していますが,攻めは通っているようです。この後,2筋を巡る折衝で角は取り返し桂損に。先手もこの桂馬を73手目に☗3八桂とここに打つようでは辛い気がします。
 ここから後手は角を成り込んで88手目の☖8九馬で駒損も解消。こうなると後手は馬ができていて,玉も先手より固く,先手は飛車が遊んでいる上に金銀も分裂していて後手の必勝型。以下,はっきりとした終盤にも至らない局面で先手の投了となっています。
 結果的にいえば封じ手の☗4六歩が,先手の攻めを呼び込む危険な一手であったかもしれません。ここはたとえば☗9六歩のような手で様子を見ておけば,また違った展開になっていたでしょう。また,1日目に後手が18手目に☖7二金としたのは少し変わった手に思えるのですが,ここから囲った形は横からの攻めには弱いけれども上からの攻めには強い感じで,この囲い方もこの将棋では結果的に生きたという気がします。
 羽生王将が先勝。第二局は24日と25日に指されます。

 第四部定理四系により,人間が常に理性的であるということはできないということ,したがって,少なくとも憐憫commiseratioという感情affectusを抱く場合があるということは明らかとなりました。そこで今度は,人間が受動的である場合に,それ自体では悪malumであるこの憐憫という感情が,いかなる意味で有用であるといい得るのかということを探求していくことにします。そのためにまず,第四部定理三〇をみてみることにします。
 「いかなる物も,それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り,その限りにおいてそれは我々と対立的である」。
 この定理Propositioの意味は問題ないと思います。もしあるものAがあって,そのものの本性naturaにある人間の本性と共通であるXがあるとします。するとAがこのXによってこの人間にとって悪であるということ,あるいは第四部定理八によりこの人間の悲しみtristitiaの原因であることはありません。もしもAがこの人間にとっての悪であるならば,これはAのうちにあるこの人間の本性と共通であるようなXから生じるのではなく,Aの本性には属するけれどもこの人間の本性には属さないようなYによって悪であるということになります。そしてあるものAないしYがこの人間にとって対立的であるということの意味は,この場合に限られることになります。したがってこれを逆からいい換えれば,もしもあるものXがあって,このXがある人間と対立的であるならば,Xは必然的にnecessarioこの人間にとっての悪であるということになり,かつこのXはこの人間の本性のうちには含まれないということになります。

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