スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

有馬記念&第三部定理三証明

2007-12-23 19:34:59 | 中央競馬
 中央競馬の一年の締めくくり,有馬記念。今年はこのレースの結果如何によって年度代表馬の行方も左右されると思われる大きなレースでした。
 好発はダイワスカーレット。一旦はそのまま逃げの態勢に入りましたが,外からチョウサンが追いかけてくると競り合いを避け,2番手に控えました。インの3番手にマツリダゴッホ。有力各馬は思ったより後方の位置取り。2500メートルなので現時点では最初の1000メートルの正式な通過ラップが分かりませんが,100メートル地点からのラップで考えれば平均ペースだと思います。
 ポップロック,ウオッカ,メイショウサムソンは,3コーナー過ぎからそれぞれ前を追い掛けていきましたが,見せ場を作るというところまでいかず。直線でダイワスカーレットが少し外に出してチョウサンを交わしていったので,ぽっかりと開いた内目をそのままマツリダゴッホが突き抜けて優勝。ダイワスカーレットは同様にインを上がってきたダイワメジャーに迫られましたが,突き放し,最後はまたマツリダゴッホに詰め寄ったものの2着。逆にダイワメジャーの方がロックドゥカンブに迫られましたが3着を確保しています。
 優勝したマツリダゴッホは9月のオールカマー以来の勝利で,大レースは初制覇。春にアメリカジョッキークラブカップを快勝したものの日経賞は3着に負け,ここは距離が案じられましたが,蛯名正義騎手がロスなく内を回ってきました。その蛯名騎手は昨年12月の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース優勝。美浦の国枝栄調教師は5月のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。中山コースをとくに得意としている馬で,勝っても不思議ではない能力の持ち主。少なくとも単勝で50倍というのは人気がなさすぎました。
 ダイワスカーレットは3歳の牝馬がこのメンバー相手の競馬ということを考えれば立派。この馬もこの距離は長いと思いますが,かなりの目途を立てたといえそうです。
 ダイワメジャーも距離が長く,うまく内を回ってきましたが,最後は止まってしまいました。しかし健闘したとはいえるでしょう。
 有力馬の敗因として考えられるのは2点。まず,上位の入着馬がある程度先行して内を回ってきたのに対し,外を回らざるを得なくなってしまった点。もうひとつは,上位に入った馬はジャパンカップに出ていなかった馬ばかりで,それだけジャパンカップは消耗の激しいレースで,体力が十分に回復できていなかったのかもしれません。
 もう一点,よそで書き込んだのでここでも追記しておきます。このレースには6歳1000万の条件馬が出走し,メイショウサムソンやウオッカに先着する7着と健闘しています。上々の結果で,ここを使った陣営の慧眼というべきかもしれません。しかし,個人的にはこうした馬の出走は,レースの格式を貶めかねないようにも思います。フルゲートに満たない場合でも,こうした馬の出走を制限する措置が,現状の日本の競馬体系においては講じられてもいいのではないかという気がします。

 明日は名古屋グランプリ。ここはフィールドルージュ◎,ロングプライド○,ボンネビルレコード▲の3頭の力が上と思われます。地方馬ではチャンストウライ△とビッグドン△。

 久留米記念は決勝。並びは武田ー太田ー広川の関東,三宅ー富の中国,九州は分かれて,中川には森内で,紫原は残った栗田に。このメンバーではさすがに武田選手でしょう。

 それでは第三部定理三を証明します。これは十全な観念に関係する定理ですから,例によって神との関係において証明されることになります。
 まず,第三部定義二により,精神の能動とは,その精神が結果に対して十全な原因の場合のことであり,逆に精神の受動とは,その精神が結果に対して部分的原因である場合のことを意味します。そこでこのことを前提に,結果として生じる観念をXと仮定して検証してみます。
 まず精神の能動の場合。これはある人間の精神がXに対して十全な原因であることを意味しています。したがってこれをXの方から考えれば,第一部公理四により,Xという観念がそのある人間の精神のうちにあるということを意味します。これを神と関係付けるならば,Xはこの人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにあることになります。すなわちXはこの人間の精神のうちで十全な観念です。
 次に精神の受動の場合。この場合はXに対してある人間の精神が部分的原因です。よって同じ第一部公理四により,Xの観念はただこの人間精神のうちにあるのではなく,この人間精神とともにXの部分的原因となっているほかのものの観念のうちにもあることになります。これを神と関係させれば,Xはある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにあることになります。よってこの場合のXは,この人間の精神のうちでは混乱した観念です。
 これらのことを合わせれば,精神の能動は十全な観念から生じ,精神の受動が混乱した観念から生じることが明らかだといえます。
 なお,この定理は本来はスピノザがそうしているように,第三部定理一に依拠して証明されるべきものです。ただし,ここではこの定理の意味を逆方向から考えていますので,証明も逆方向から行いました。
 
コメント
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