来年の家康公の没後400年に合わせて発行される、「るるぶ家康(仮称)」の取材で静岡市に行ってきました。
徳川時代には静岡は駿府と呼ばれ、今川氏の人質として幼少時代を過ごし、生涯最後の10年間を過ごした家康ゆかりの地であります。
家康マニアの担当者と一緒に新幹線で、9日朝10時に静岡駅到着。
台風が近づいている中ですが、 てくてくと約8時間。
小梳神社、宝台院、県庁前、金座町、上魚町、浅間通りを通って、浅間稲荷神社、臨済寺、駿府城公園、華陽院と、主要なところをほぼ回ってきました。
静岡の町を回って驚いたのは、伝馬町、金座町、両替町など、東京にありそうな町名がひしめいていること。
何と言っても江戸の礎を築いたのは家康公ですから、 当たり前といえば当たり前なのですが、駿府城跡にしても、その周りの道などは皇居近くそっくりな景色があるのにびっくりです。
風水をよく考えて作った町であることは間違いなく、静岡駅をスタートして、きれいに出発地点に戻って来れる作りは、いかにも気の抜け道が良い、地脈が良いということ実感させませした。
金座町というだけあって、この周辺には地元の銀行がひしめいているのですが、静岡銀行という名を見て、あることを思い出しました。
バブルの時代、土地を担保に他の銀行がじゃぶじゃぶお金を貸し、ことごとく焦げ付いていたのを尻目に、静岡銀行だけは余計なお金を貸さずにいたのです。
当時、海外からの評価もAAA(だったかな?)
地元ではケチん坊で有名な銀行だったそうですが、これはきっと慎重きわまりなかった家康公の気質は金座町とこの周辺にその教えが行きていたのですね。
さすがは徳川家康。
後年のバブルにも家康の教えが活かされていたというわけでしょうか。
続きはまた明日以降、UPすることにして、地図作りをはじめないとね
昨日は、アートでも食材でも「してほしいこと」をした方が良いという話をいたしましたが、今日はその真逆・・・「結果ありき」の話をいたしましょう。
物理学や数学の証明では、「結果がたぶんこうだろう」ということで、公式や論理を導いていくことがあります。
こういう場合の「結果ありき」は、その結果が真実ならOK。
真実でないならNG。
実に潔いというか、シンプルです。
シンプルでないのが、政治や思想などの「結果ありき」でしょう。
政治や思想において、真実はひとつでありません。というか要素が複合的なので、すべての人間を満足させることはできません。
世に言う憲法第9条至高主義の方がたというのは、この「結果ありき」という典型的な人たちでしょう。
仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に
『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれれば
それはそれでいいんじゃないかと
本人がそう思うのは自由ですが、他の日本人は「いなくなってもいい」と思っているわけではありません。それを強要することこそ、立派なファシズムなのですが、憲法第9条至高主義の方々はそう考えていないようです。
自衛する権利まで放棄せよという、いったいどこの国のための憲法なのか。
加えて言うと、集団的自衛権容認の報道。
メディアは反対派ばかりを取り上げ、賛成派は取り上げていないという意見もあります。
自衛隊が出てくるだけで「戦争をしたがっている」という報道は、最近でこそ少なくはなりましたが、そういう声は未だに少なくありません。
実際には、軍人ほど戦争をしたがらないものですが(そりゃそうです。戦争があれば、手塩をかけた部下たちだってタダでは済まないし、自分にだって家族がいます)、戦時中には、死ぬのが怖いことを恥とする無謀な考えも流布しました。
そのアレルギーが未だ残っていることと、戦後教育の影響もあるでしょう。
さて、そろそろ千葉・流山に行かないといけないので、続きは次回ということで。
朝ドラ「花子とアン」ですが、ハナと村岡のもったりした恋愛展開にイラついてる人も少なくないようです。↓ で、たとえば、こんなツイが。
私は蓮さまの離婚劇が早く見たいです。
ハナの中学生みたいな恋愛ゴッコは不要です。
そうそう。
蓮さまの男も私は友だちにはしたくない社会主義男ですが、もうなんのバリアーもない村岡とハナの恋愛ごっこよりは面白いです。
私も思わず、こんなツイをしたら、あ@花さんとこんなやりとりになりました。
村岡は別に悪くないわな
なんでこの人を好きになったのか、必然性を感じない脚本なんだ。
結果ありきの脚本ね
史実だからしょうがないよね
そうそう。そもそも村岡って名前が出て来た段階で、この人と結婚するってわかってる史実ですから、そこのところは変えようがありません。
だから、2人をくっつける話も、どうしても強引になるんでしょうね。
まあ、その点は蓮さまも一緒ですが、話としては奥さんの死別よりは、堂々と不倫の方が脚本家も書きやすいんでしょう。
・・・と、ここまで書いていて、世の中の多くの事柄は「結論ありき」では、ムリが出て来るものが多いなと思いました。
やりたいもの、なりたいもの、こうしたい、勝ちたい、優勝したい。
それらを念じて、目標に向かっていくことは大切ですが、時には成り行き任せ、他力本願で行った方がうまくいくことが多い気がします。
もちろん夢を抱くなとか、目標を持つなって意味じゃありません。
ただ、他力によって花開くものだって多いわけで、魁皇や千代の富士みたいに成り行きでお相撲さんになって、あそこまで行く人もいるわけです。
そう言いつつ、我田引水なリクツになりますが、アートや料理にも同じようなことが言えるかもしれません。
先日、奥田シェフが言っていたことに、その野菜、その食材がしてほしい最小限度のことをすれば良いってことですね。
私たちがお店で買って食べる茄子は、まだ固い実の茄子です。
茄子は、まだ食べられてほしくないから、皮は固く実を守っています。
茄子が一番甘く美味しくなる時は、ヘチマのように大きくなり、パンパンに膨れ上がった時に甘い汁を出して割れるそうですが、それでは市場に出せない。
幸い、人間は加熱したり、ほかのものを加えることができるから、食べられたくないと思ってる茄子を美味しく食べる手段を考えることができるというわけです。
アートもこの点は同じであって、絵を描いていると、自分が最初「こうしたい」と思っていたことからはずれ、絵のほうで「こうしてくれ」と語りかけてくるのです。
え? したり顔で、いい加減なこと言うなって?
絵が語りかけてくるわけないだろって?
いえいえ、別にカッコつけて言ってるわけじゃございません。
証明する方法なんてないけど、ホントに語りかけてくるんだって~。
これは受注されるイラストや地図などでも同じで、商業美術ですから規制はいくつもありますが、その中でその仕事がしてほしいことというのは、おのずと仕事が語りかけてくるものです。
投稿日:2014年7月6日
オランダ vs コスタリカ戦、実に見応えのある素晴らしい1戦でした。
今回の試合で印象的だったのが、コスタリカの選手が5人並んで、オランダの攻撃陣より後ろに下がってオフサイドにさせてしまう戦法でした。
なんか、オフサイドの基準ってよくわからなかったのですが(その程度のサッカーファンです)、ここまできれいに並んでいると、サルでもわかるわかりやすさかな。でも、オランダ相手にこの作戦、誰かがつぶやいてましたが、これってすごい勇気が必要ですね。
ロッベンもスナイデルもファン・ペルシーも、いったい誰がコスタリカのラインを”越すたりか”・・・なんて、ウフッ♪
日本は親善試合でコスタリカに3対1で勝ってるけど、やっぱり親善試合は別物ですな。
日本代表は「自分たちのサッカーができれば」と言ってましたけど、それってお相撲に使う言葉ですよね。
1分超えたら長いと言われるお相撲と、120分やっても決着がつかないサッカーでは戦い方だって違います。攻守含めて、120分も自分たちのサッカーができるはずない。
そんな意味でコスタリカのチームは、結果的に自分たちのサッカーをやりきったと言えるでしょう。チリ代表が帰国後受けた歓迎はすごいものでしたけど、それ以上の歓迎が待っているでしょう。
なんか、オフサイドのラインもそうだけど、なんか日本代表のサッカーって、おっかなびっくりで、ドログバが出て来るとビビってしまうとか、ハメス・ロドリゲスが出て来たらボコボコにされちゃうとかあって、なんで日本代表の試合を見るとあんなドキドキするのかって、それをイメージしちゃうかもしれません。
見るのをビビるわたしもまた日本人。
あのコスタリカのオフサイドラインが日本人に出来たら大したもんですね。日本人に向かないってつぶやいてた人もいましたが、器用な日本人にできないことはないでしょう。
まず、その前に120分、全力で走れないと話にもなりませんけどね(笑)。
残念だったのはTBSの実況のひどさです。
特にオランダが勝つと決まりきったように言う、ランキングありきで思考停止のアナウンサー。
「さあ、オランダ。決勝に向けて・・・」
「ここでキーパーが変われば、ファンハール采配がズバリ的中ということに!」
おまえ、コスタリカの選手に失礼だろって。こういう人たちがよってたかって日本代表をダメにした・・・と言っては言い過ぎでしょうか。
最後のPKに交代したオランダのばかでかいキーパー。
監督はこういう時のためを知ってて出したんでしょうけど、まさに秘密兵器という言葉がピッタリで、昔読んでいた少年マンガのスポ根を思い出しました。
オランダもコスタリカもよくやった! 次のアルゼンチン戦が楽しみです!
ずっと郡山から鶴岡の記事だったので、今日はテイストを変え別の話題。
今更ですが集団的自衛権の行使可能、よくやったというか、ようやく決めたというか・・・次はそろそろ9条を何とかしないといけませんね。
自衛のための戦いまで放棄しなければならない憲法ならば、果たしてそれを平和憲法と呼べるのかどうか甚だ疑問であります。しかしながらサヨクの方々を中心に、この重しを金科玉条にする人たちも少なくないようです。
昔、経済評論家の森永卓郎氏が言った名ゼリフ・・
私は日本丸腰戦略というのを提唱しています。
軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。
仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に
『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれれば
それはそれでいいんじゃないかと
これ・・・中身的には「総員玉砕せよ」という同じ意味であって、よく考えたらすごく危険な考えですよね。
なんか「平和のために死ねる」「健康のために死ねる」みたいな、居心地のわるい考え方です。
学校などでも「やられても、やりかえしてはいけません」みたいなことを言います。でも、やられて、やり返さない子どもはいくらでもいじめらます。
いじめられて、ゆすられて、お金出して・・・しばらくしたら、またいじめっ子がタカりにくる。戦後日本はどうもそんな感じでした。
集団的自衛権容認や改憲の話が出ると、決まって朝日新聞や社会運動家を中心にした人たちが、「戦前の軍国主義に逆戻り」とか「軍靴の足音が聞こえる」言い出して、またかと思います。
何年も前のセリフですが、森永氏はかりに日本が中国の自治省になったとして(まずありえないでしょうけど)、自分は何もされないと思ってるんでしょうか。それともホントに平和のために殺されて本望と思ってるんでしょうか。
ただ、知り合いのアート関係メディア関係の人たちに聞くと、「集団的自衛権の行使可能」歓迎してない、というか、真っ向から反対という人も少なくありません。
そういう人たちにも、こちらの理屈を言えば、人によっていちおう聞いてはくれるし、中には「そういう意見もある」とは言ってくれるのですが、最終的に生理的にダメだという感じが伺えます。
原発アレルギーにも似た、武力アレルギーとでもいうのでしょうか。
これは受けてきた教育の影響もあるのでしょう。
こちらが論破できるとか、納得してもらう、議論をするといったレベルのものでなく、「イヤなものはイヤ」という感じかな。
だから平行線になってしまうんですね。
そんな意味で、どこかの主婦が提案した「憲法9条を世界遺産に」なんてことが、ホントになったら大変だと、ひそかに心配しています。
ノーベル平和賞はその手のネタ、好きだし、物理学賞などと違って受賞基準もあいまいだしねえ。
何より「憲法9条を世界遺産」へ推進しようなんて、働きかけたくて仕方ない国だってあるでしょうし(米国だって、一部はそう思ってるでしょ。彼らは『日本はアメリカに原爆を2つ落とす権利がある』と本気で思ってるくらいだから)。
とりとめもなくなりましたが、いいかげん「軍靴の足音が聞こえる」の類の決まり文句はやめていただきたいものです。
郡山で一泊。
翌日は奥田シェフの車で鶴岡に向かいました。
「小暮さん、免許もってますか?」
「はい、持ってます」
「運転はしょっちゅうしてますか?」
「いえ、2年くらいしてません」
「じゃ、途中で運転代わってください」
という感じで、途中、シェフが観光バスに乗る後ろを、2年ぶりの運転でついて行きました。
途中レタス農園に寄って、着いたところはアル・ケッチァーノ。
絵を描くのは福島のお店なので、鶴岡は直接関係ないのですが、いつも通りのミステリーツアー。そのまま翌日、東京に戻るつもりでいたのですが、シェフに引き止められて、もう1泊することになりました。
その日は野菜ソムリエの方や、東京のお寿司屋さん、生産者の方など、雑多なメンバーで鶴岡のトマト農園やサクランボ農園などをシェフと一緒に回遊。
ああ、シェフはこれらを見てほしかったんだなと思いました。
印象的だったのは、奥田シェフが師匠とあおぐハーブ研究所のハウス農園でした。
山澤さんによれば、日本原産の野菜というのはそれこそワサビくらいのもので、茄子でも山芋にしても、インドやミクロネシア、アフリカなどから、ものすごい時間をかけて日本に入ってきたのだと言います。
そして、日本に入ってからも、土地によってさまざまな変化をしていった。そういう野菜を少しづつハウスの中で育てているのですから、驚きです。
よく生産者でも地元野菜にこだわる、と言いますが、山澤さんのハウス農園を見ると、日本全国の野菜があって、その野菜がどんな変化をしてきたのか一目瞭然。野菜の進化全体を見ないとイミがないんだと、熱弁をふるってくれました。
なるほど、食べ物とはすなわち生命をいただくこと。
その生命が何を望んでいるのか知ることが、食べ物の本質に突き当たるというのです(それを濃厚な鶴岡弁で語ってくれましたが、再現不可能なので、内容だけピックアップします)。
野菜がしてほしいこと、してほしくないこと。
私たちがお店で買って食べるキュウリは、まだ青い実のキュウリです。
実はキュウリは、まだ食べられてほしくないから、皮は固く実を守っています。
実際にはキュウリはヘチマのように大きくなり、パンパンに膨れ上がった時に甘い汁を出して割れるそうです(茄子も同じ)。
また、ワサビのように食べると辛みを出したりする野菜も同じことで、その植物がしてほしいこと、ほしくないことがあるのですが、人間は加熱したり、切ったりすることで、ホントは食に向かないものも、加工して食べらるようにしている。
まあ、それが料理だというわけですね。
食材に乏しく、料理のまずい国(あるいは人)に行くと、どんどん手を加えて、どんどん料理をまずくするわけですが、それはそういうわけなのですね。
人間は生命を維持する都合上、カロリーの高いものには満足する傾向があります。
「美味しいものって、太るのよね~」なんて、よく言いますが、それはそういう意味ですが、ホントに旨いものは普通に食べていれば、そんなにカロリーを取ることはありません。
ハウス農園に生えてる野菜を少しづつ齧って食べてみましたが、中で驚いたのはワームウッドという草です。
ひとつまみ食べようとしたら、山澤さん。
「そんないっぱい食べたらしぬぞ!」
ワームウッドはアブサンなどの香草に入れるそうですが、食べると2分後くらいに何ともいえない苦みの波が3~4回に渡って押し寄せ、さらに30分後、1時間後も周期的に苦みが口の中で復活します。
この味を文章化する方法がまったくないのですが、いや、なんだか良い勉強になりました。
なんだか良い絵が描けそうです。
自分で楽しみになってきました。シェフ、ごちそうさまでした!
久々のブログアップです。
旅先でもスマホでUPしたいのですが、ややこしいパスワードを入れてないのに加え、使用してるサイトWordPressのちょっとした不具合で、だいぶ間が開いてしまいました。
土日と月曜にかけて郡山と鶴岡に行ってきました。
アル・ケッチァーノの支店で、郡山に開店した福ケッチァーノに飾る絵を描くための下調べ・・・ちゅうか、今回はご飯を食べに行ったんですがね~♪
行きはジャーナリストの宇田川敬介夫妻が運転をしてくれて、一緒に会食。
行って食べて意外だったのは、福ケッチァーノイタリアンではなく、フレンチだということです。
郡山は内陸なので、鶴岡のアル・ケッチァーノや東京のヤマガタ・サンダンデロのように新鮮な魚介類が手に入りにくいので、野菜を中心にしたメニューが展開されていました。
最初の一皿にタマネギのキッシュが出てきたのにびっくり。アル・ケッチァーノもヤマガタ・サンダンデロもカルパッチョではじまることが多いからです。
3皿目はグリンピースとインゲンのブランマンジェ。これは絶品、何よりグリンピースと、それで作ったソースの緑が鮮やか! まるで新緑の田んぼみたいです。
そしてトマトとズッキーニ、キュウリのガスパチョ、ズワイガニ和え
メインは福島牛のパイ皮包み、グレービーソース和え。これなどは本当にフレンチですね♪
普通は肉と野菜の間に出てくるグラニテ(シャーベット)が、両方食べ終わったあとに(笑)。
もう食べられんというところまで、およそ3時間半の会食。
何だ、何しに行ったんだ。旨いもん食べに行っただけじゃないかと言われそうですが、これもお仕事です♡
全部食べたところで、宇田川夫妻から「風景も良いけど、農家や畑描いてほしいよね」との思わぬ一言。
おお、たしかにこの壁と空間には磐梯山も良いけど、福島の農家が合いそうです。店の人もそちらの方が良いと言い、シェフももちろん「そちらの方が良いです」と2つ返事でした。
宇田川夫妻はそのまま、飲んでないご主人が運転してトンボ帰り。私は宿泊してシェフに会い、次の日帰る予定でしたが、どちらにしてももう一回、郡山に行かないといけませんね。
7月中旬、もう1度行く予定です。緑が濃くて良いだろうけど、暑いだろうなあ♪