イブから25日は穏やかに自宅で親しい人たちでダラダラと過ごしました。
クリスマスは演出上手なキリスト教のお祭りなので、歌やら雰囲気やらの幸福感は強烈で、そのためかえって孤独感を感じる人も少なくないようです。まあ、他人のこと気にしなきゃいいのにと思いますが、なかなかそういうわけにも行かぬのが人の心というものかもしれません。
その中で出た話題というのが(クリスマスとは直接関係ないけど)、言葉に出したものが数年後、あるいは数十年後、言った本人も言われた本人も忘れた頃に返ってくることがあるってことです。ブログなどに書いたことも同様かな。
言ったことが数十後に戻ってくる、なんていうと、もう人智の及ぶところではありません。良いことも悪いことも含めて、この世にはそんな不思議なことがあるものだと思いました。
なんて思いつつ、昨日はCSでやっていたスタローン主演のランボーを2本も見てたのですが、2作目の「怒りの脱出」で”expendable”って言葉が、2度出てくるのにびっくりしました。たまたまかもしれませんが、シリーズ化した「エクスペンダブルズ」は、言霊として出ちゃったものなのかもしれません。
ランボーって映画は実にシナリオも展開もザツな作品なんですが、 因果応報みたいなものが作品の中に描かれていて、その点が面白く感じました。
シルベスター・スタローンという人、作品はどれもザツすぎてあまり評価はしてないのですが、人に対して手厚い人だと思います。
ロッキー4で敵役を演じたドルフ・ラングレンに対してもそうだし、エクスペンダブルズみたいに、自己主張の強いハリウッドの大物を一堂に会する映画を3本も作るなんて、この人でないとできない芸当です。
なんて、とりとめのないことを思ったクリスマスでした。
リセットするにはランボーみたいな映画はぴったりですね。
昨日は毎年恒例、大学時代にガンで早世した友人を忍ぶ会が清瀬でありました。
昨日はここ何年かでは一番の少人数ではありましたが、それだけにじっくり話ができました。家庭を持つものには子どもの大学進学やら、ニートを抱える悩みなどもあり、また丁度前の日にガンの手術をしたという友だちの話など、悲喜こもごも。
色々な意味で気持ちの整理もできた会になり、良かったと思いました。
亡くなった人というのは不思議な力を持っていて、のちのちの人を結びつけるように思います。よく「死人に口なし」などと言いますが、それは決してそのようなことはありません。故人は現世の利害に左右されることがないからこそ、人を動かし結びつけたり、反対にウソをあぶり出すような力があるのだと思います。
故人の名は忍ちゃん。
だから忍会と呼ばれ、もう20年ほども続いていますが、今年はさまざまな意味で感慨深い集まりになったと思います。
昨日はFacebookをはじめ、多くの誕生日おめでとうメッセージが届きました。
誕生日が嬉しいという年齢ではないのではありますが、なぜか今年は節目の誕生日という気がして、みなさまのメッセージが嬉しかったです。
正直、返信がめんどくさいという年もあったのですが、今年に関しては嬉しくてメッセージひとつひとつに返事を書きました。親し過ぎる人だとメッセージが来ないこともあり、それはそれで気にはならないもの。
みなさまの暖かいメッセージに心より感謝を申し上げます。
ここ10日ほどの間に、さまざまなことがあって心の揺れる日々が続きました。
私を含め、人はFacebookなどでは特に良いことしか流しません。
私も食べ物のUPや仕事のUPなどが中心なので、人からは「いつも美味しいものばかり食べて楽しそう」と言われますが、別にそんなことはなく、悩むこともウツウツとすることも少なくありません(本当です!)
不思議なもので、わるいことと良いことは背中合わせにあるようです。
そして、良くないことをすれば、必ず自分に返ってくる。逆に「情けは人のためならず」ではないですが、良いことは自分にも返ってくるように思えます。
また「ピンチはチャンス」という言葉があって、場合によればタダの慰め言葉でしかないのですが、本当にそうなることもあるし、逆に「好事魔多し」という言葉もあります。
どちらかといえば、後者のケースの方が人生では多いのですが、最悪の時からひっくり返るのも人生だと思います。まあ、わたしの場合、まだそこまでのケースはありませんけど(笑)、これからの人生・・そんなに長いわけもないけど、残り僅かというほどでもない。きっとさまざまなことが起るように思えます。
良い節目になった誕生日に感謝かな。
今日は大学時代にガンで早世した友人を忍ぶ会があります。賑やかに偲ぼうと思っています。
すでに終わってしまった展覧会のことを書くのも何ですが、根津美術館でやっていた円山応挙展に行ってきました。
応挙といえば幽霊画で有名な人ですが、いや・・・恥ずかしながら、ここまで描写の人とはエカキのくせに露知らずでした。
今回の展覧会は有名な幽霊画は一点もなく、ひたすら写生の連続。
すごいなあ。
描写力にかけては、たぶん世界屈指の画家なんじゃないかな。
江戸時代中期には西洋画の技法がけっこう入ってきて、応挙の遠近法には明らかにその跡が見られます。西洋画の描写も取り入れた応挙の絵画は、大変な研鑽を重ねそれは比類のないものでした。
ただ、上手過ぎて可愛げがないよね(笑)。
また、河鍋暁斎や曽我蕭白といった、同じ江戸の画家がもつケレン味や面白さのある画家ではありません。
基本的に上手い絵しか描けない人って、世の中にけっこういるのですが、その典型と言えるでしょうか。上手い絵しか描けない人には、かわいいものを描くのが苦手な人が多く、応挙もその一人・・。
あれ、待てよ。
応挙の子犬ってかわいいので有名ではなかったっけ?
そうなんです。
たぶん応挙は大変な犬好きだったのでしょう。この展覧会でも、子犬のキャラのかわいさは際立っているのですが、ほかの動物はひたすら描写でかわいいものがない。
子犬を描くときは描写以外の何かが入るのでしょうね。
有名な幽霊画はありませんでしたが、強烈だったのは処刑場を描いた絵でした。
真面目な人ですから、いやいやながら処刑場を見て描いたのでしょうね。
磔された罪人に槍を突き立てる絵があるのですが、処刑人が横を向いて槍を刺してる図のリアリティは何とも恐ろしいもの・・・
見たあと、悪い夢を見そうでしたが、そのあとはお庭に出て口直し。
見応え十分の展覧会でした。
プレゼン用の絵を描きました。
ちゃんと通ったようで良かったですが、これって意外に苦しんで描きました。
Facebookでは、いつもと違う絵だなとこんなコメントが。
いいね。とも、すごいね。とも本当は違います。
素敵。というのが欲しいです。
あらNさん、嬉しいお言葉
そうなんです。色々な気持ちを込めて描いた絵なんですよ〜
他の絵と少し違いますね。
うまく言えませんが観るとほわぁとします。
そうなんです。滅多にないことなのですが、実はけっこう苦しんで描きました。それを出さぬようにも苦心しました
「生みの苦しみ」というのは、そんなに好きな言葉ではないのですが、苦しんで描いたものが、見る人に”ほわぁ”と感じてくれるのなら、たまには良いかなと思った次第です♪
昨日は久しぶりに表参道を散歩。
ニコライバーグマンカフェという花屋カフェを覗きましたが、1枚1200円のライ麦サンドイッチにびっくり!
写真はボックスに入った生花で、ひとつ6000円ほど。良いお値段ですわ。
なんて、FacebookにUPしたら鹿児島の方からこんなコメントが。
うーん、田舎者の私には、色も綺麗だけど、ぎゅうぎゅうの花に違和感がある( T_T)
あらら、なるほど。
そういう見方もあるんだとレス。
Mさん、目からウロコ!
そう言われれば、都会のネズミの私にもそう思えてきました。
綺麗に作られているんですけどね、なんだか、これだったら、生花じゃなくていいじゃないか…と思ってしまって。ちょっと、花が気の毒で。田舎者の発想かもしれませんが。
生花だからこそ、気の毒という感じですね。それにしても、真っ先にそう思うというのは、自然の多いところにお住まいだからですね。後づけの知恵ですが、100%その通りだと思いました。
いや、単にきれいなんでインスタグラムとFacebookにUPしただけなんですが、色々人には教わるもの。まあ、これはこれでキレイなのではありますが(笑)。
タイトルでいう”好き”というのは、もちろん恋愛関係の意味もありますが、そこには親子同士や友人同士という意味が含まれています。
マザー・テレサの言ったことに「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」という言葉がありますが、やはり「愛」の反対は「憎しみ」、あるいはそれに近い感情ではないかと思うのです。
マザーの言う「愛」とは、英語の”love” やフランス語の”amour”などのような、母親が子どもに対して抱くような無償の愛という意味が本質ではないかと思います。
一方で日本語の「愛」は、 明治になってからの新語でして、英語の”love”などを翻訳した言葉です。
仏教で言う愛には「執着」する意味が含まれていて、煩悩の心なので、必ずしも良い意味ではありません。
そういう愛は簡単に憎しみに変わります。
巷で起る痴話げんかやストーカー騒ぎなどは、そんな極端な例ですが、そこまで行かずとも実際に親しい人どうしでも。好きな相手だからこそ、その人を苦しめたり、また逆もあったりすると思います。
それが故意でない場合もあったりすると、それはなおさらかな。
無関心な相手にそれはないですからねえ。
家族間では、本当によくある話ではありますが。
一概には言えませんが、愛が憎しみや怒りの感情に変わるときは、だいたい自分中心に考えがまわっている時な気がします。だからこそ相手を傷つけている時は、自分も苦しいし、逆もまたそうです。
花風社刊「愛着障害は治りますか?」のイラストを担当したから思うわけでもありませんが、最近あったもろもろのことから、そんなことをふと考えました。
沖縄の海彦山彦はここから!
本日2回目のUPになります。
年末、いきなり時間が空いてしまったので、普段なまけていたホームページの改編をしています。ブログを描くのにかまけて、けっこう放置してありますね。
幸い、新たに原稿を起こさずとも、ブログの方に制作日記は残されているので、リンクするだけ・・・て、けっこうこれはこれで手間なのですよ。
以前、ジーイー企画センターの塩川社長に手伝ってもらって、WordPressによる「小暮満寿雄Art Gallery」をリニューアルしたのが4年前。作品を展示している肝心の固定ページの部屋がおろそかになっていました。
コンテンツはまだまだあるので、徐々にアップして行く予定です。
芸能人の当て逃げニュース・・(わたし、この人の名前を初めて聞いたのですが)お茶飲み話に「すべて失うのにバカなことをしたよな」この話題が出たところ、突然、昔20代の頃にあった交通事故を思い出しました。
その時、事故にあったのは私ではなく、事故を起こしたのが私でした。
赤坂みすじ通りを歩いていた中年の女性に、ドアミラーを当ててしまったのです。
もちろん徐行運転だったこともあり、相手の方もケガは(見たとこ)ありませんでした。
降りてすぐさま止まって謝ったのですが、 ハンドルを握っていたホンの一瞬だけ、逃げてしまえという悪魔の声が聞こえたのを覚えてます。
もちろん、わたし自身が逃げるという選択はありませんでしたけど、一瞬でも「逃げろ」という悪魔の声のささやきを聞いたことはたしかです。
芸人さん(井上さんって言った?)は当て逃げなんで、人を轢いたわけじゃないけど、悪魔の声に従っちゃったのでしょうね。
ひき逃げもまったく同じ心理なんでしょう。
長いこと忘れていた記憶が、この時なぜかよみがえりました。
ちなみに当てた場所は、自分の地元。被害者は当てた場所の目の前にあった履物屋さんの店主。だから逃げなかったわけじゃありませんけど、悪魔の卑怯なささやきを聞かず、今に至っているのは幸せなことだと思います。
今、考えるとこれ以降でしょうか。
生きていると、耳元で悪魔のささやきを聞くことがあるのですが、それを振り払うようになったのは。
中には最初から、そういう声を聞かない人もいますけど、私はそこまで行かない。
でも、卑怯な選択をしないという結果は同じです。
人生はそうした積み重ねで出来ているのかも。
なんて、褒められた話じゃなく、己の恥を晒しているのですが、そんなことを思いました。卑怯なこと、卑劣なことをしないで人生を歩みたいものです。
絵を描く時の頭の中〜塗るは雑念、線引きは無になる?
先日書いた記事の続きです。
どうやら線を引いている時と、面を塗っている時では脳の中で使っている部分が違うのではないかと書きました。
勝手な推測ですが、線は文字通り言語の代わり。
マンガや記号が言語の役割を果たしているように、線にはそのような働きがあります。
一方で、面で色を塗る場合というのは、もっと生理的に”ご飯を食べる”とか、”寒い、暑い”といった感覚的なものに近いものがあるように思えます。
おっと。
簡単にまとまってしまいましたが、そんなことかな(笑)。
土曜日、恵比寿ガーデンプレイスでインド映画「pk」を見に行きました。
インド映画のハチャメチャぶりは今更ながらですが、この映画の監督の全作品は「きっと、うまくいく」。なかなか泣かせる名画を作った人なので、そんなにムチャな作品ではないだろうと思ってましたが、いやはや、なんのなんの、南野陽子・・・なんて、ウフッ♪
この映画・・・最初の設定からネタバレをすると、そこから話がダダ漏れになってしまうので、今のところは黙ってないといけません。
ともかくもインドでないと絶対出来ない作品、一見の価値アリですので、まだの方はぜひご覧くださいませ。
しばらくしてから、ネタバレありの記事を書こうと思います。
それまでは、ガマンガマン。
昨日のヨガのレッスンの最後、シャバ・アーサナ(屍のポーズ)という、仰向けになって大の字になるポーズで、とめどもなく雑念が溢れ出てきました。
私にとってこのポーズは爆睡するか、雑念で頭がいっぱいになるか、どちらかなのですが、どちらにしても起きたあとスッキリするので、無理に雑念を払わないことにしています。
それでは、本業の絵を描く時はどうなのかといえば、これまた雑念と煩悩のオンパレード。晩のおかずのことを考えることもあるし(これ、パーセンテージ高し)、ここでは書けない煩悩が溢れることも少なくありません。
先日、書家の女性(母ではありません)にインタビューした時、「文字を書く時は無になる」と聞かされ、そんなものか。自分はそんなことないのに、よく無になれるなと思いました。
だが、待てよ・・・。
そういえば、最近はじめた「肖像画・一筆描き」をしている時は、無にならないまでも、余計なことは考えないな。
油彩画を描いてる時も、仕上げの線を描く時は、音楽なども一切止め、息を止めて集中します。
多分、脳の中で使っている部分が、”線引き”と”塗り”では違うのでしょう。
そんな雑念がヨガのポーズの間に浮かんできては消える未熟者はわたしです(笑)♪