ずっと郡山から鶴岡の記事だったので、今日はテイストを変え別の話題。
今更ですが集団的自衛権の行使可能、よくやったというか、ようやく決めたというか・・・次はそろそろ9条を何とかしないといけませんね。
自衛のための戦いまで放棄しなければならない憲法ならば、果たしてそれを平和憲法と呼べるのかどうか甚だ疑問であります。しかしながらサヨクの方々を中心に、この重しを金科玉条にする人たちも少なくないようです。
昔、経済評論家の森永卓郎氏が言った名ゼリフ・・
私は日本丸腰戦略というのを提唱しています。
軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。
仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に
『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれれば
それはそれでいいんじゃないかと
これ・・・中身的には「総員玉砕せよ」という同じ意味であって、よく考えたらすごく危険な考えですよね。
なんか「平和のために死ねる」「健康のために死ねる」みたいな、居心地のわるい考え方です。
学校などでも「やられても、やりかえしてはいけません」みたいなことを言います。でも、やられて、やり返さない子どもはいくらでもいじめらます。
いじめられて、ゆすられて、お金出して・・・しばらくしたら、またいじめっ子がタカりにくる。戦後日本はどうもそんな感じでした。
集団的自衛権容認や改憲の話が出ると、決まって朝日新聞や社会運動家を中心にした人たちが、「戦前の軍国主義に逆戻り」とか「軍靴の足音が聞こえる」言い出して、またかと思います。
何年も前のセリフですが、森永氏はかりに日本が中国の自治省になったとして(まずありえないでしょうけど)、自分は何もされないと思ってるんでしょうか。それともホントに平和のために殺されて本望と思ってるんでしょうか。
ただ、知り合いのアート関係メディア関係の人たちに聞くと、「集団的自衛権の行使可能」歓迎してない、というか、真っ向から反対という人も少なくありません。
そういう人たちにも、こちらの理屈を言えば、人によっていちおう聞いてはくれるし、中には「そういう意見もある」とは言ってくれるのですが、最終的に生理的にダメだという感じが伺えます。
原発アレルギーにも似た、武力アレルギーとでもいうのでしょうか。
これは受けてきた教育の影響もあるのでしょう。
こちらが論破できるとか、納得してもらう、議論をするといったレベルのものでなく、「イヤなものはイヤ」という感じかな。
だから平行線になってしまうんですね。
そんな意味で、どこかの主婦が提案した「憲法9条を世界遺産に」なんてことが、ホントになったら大変だと、ひそかに心配しています。
ノーベル平和賞はその手のネタ、好きだし、物理学賞などと違って受賞基準もあいまいだしねえ。
何より「憲法9条を世界遺産」へ推進しようなんて、働きかけたくて仕方ない国だってあるでしょうし(米国だって、一部はそう思ってるでしょ。彼らは『日本はアメリカに原爆を2つ落とす権利がある』と本気で思ってるくらいだから)。
とりとめもなくなりましたが、いいかげん「軍靴の足音が聞こえる」の類の決まり文句はやめていただきたいものです。