小暮満寿雄 Art Blog

ダジャレbotと間違われますが、本職は赤坂在住の画家です。作品の他お相撲、食やポリティカルな話も多し。右翼ではありません

あまちゃん~午後2時46分、その時

2013-08-31 09:22:50 | Weblog
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↑ 12月に納品予定の作品、迷いに迷ってます。なんか前のキャットタワーに戻そうか・・・なんてバカなこと考えてたりして。


ユイちゃんを乗せた北鉄の時間が午後2時21分。
あまちゃん、引っぱりますが、来週はやってきますね・・・。

話がどういう展開になるかはわかりませんが、昨日の話の続きです。

自然豊かな日本の国土ですが、恩恵があるということは、それだけ脅威もあるということです。世界の中で、日本ほど自然災害に見舞われる国も稀でしょう。

災害慣れしてるというと被災された方に申し訳ありませんが、何度災害に遭おうと、日本人はその度に復興をしてきました。

日本人が忘れっぽいというのは、その辺りに理由があるのかもしれません。こちらが前のキャットタワーです。

日本人は自然災害に遭うと、相手が自然だから仕方ないと感じますが、他の国では人間が自然をコントロールできると考えてるところもあるようです。

キリスト教やユダヤ教では、人間は神の姿に似せられて形づくられてますから、自然と同列かそれ以上なのかもしれませんが、その感覚・・・なかなか私たちには受け入れられませんね。

一方で、日本人はロボットやクローンに対しての抵抗がありません。

人間は神が創造したもので、それに近いものを造ることが、神の背徳であるという考えが希薄だからですね。

ダーウィンの進化論が未だに欧米で議論されているというのも、人間が猿から進化したということが聖書に反する、受け入れられない考え方だからでしょう。
(それだけでなく欧米には猿がいません。猿や類人猿が棲んでる地域はアジアとアフリカだけ。見たことないというのもあるでしょう) 。



それにしても、あまちゃん。

毎朝見てますが、ここのところ話がトントン拍子に進み過ぎ。ドラマの時代と舞台からして、震災がやってくるのは最初からわかってましたが、ユイちゃんを乗せた列車の時間が気になるなあ。

岩手の久慈は比較的被害が少なかったと聞きますが、どうなんでしょう。

役者が揃ったあまちゃんですが、アキちゃん役の能年玲奈ちゃん・・・若い頃の吉永小百合に似てませんか?

ご意見お聞かせたし。
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原爆投下も国際法違反か~シリア化学兵器

2013-08-30 09:41:31 | Weblog
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その前に京都美山の絵地図・・・8割がたできました。
白抜きのブブンはPhotoshop加工が入ります。
のんびり仕事をやってるわけではなく、クライアントの美山町の返事がゆっくり! 東京とテンポが違うというのもありますが、それより町内の調整に手間取ってるというのが何よりの理由だそうです(笑)。

さて、このニュース↓

「原爆投下も国際法違反か」シリア化学兵器使用で米国務省に質問飛ぶ

ツイッターでは日本人記者が言ったなんて書き込みがあって、日本人記者もそこまで来たかと思いましたが、アシャド・モハメッドさんという、名前を見るにイスラム系の方だったようです。

やっぱり日本人記者で、そこまで言うヤツいないよな~。
何となくがっかりかな。

今さら言うまでもない正論ですが、アラブ系の国々では、原爆投下というあれだけのことをされて日本人がアメリカに追従してるのが理解できないという意見が多いようです。

一神教のイスラム諸国で、なぜか多神教の日本に好意を抱く国は多いといいますが、原爆落とされて米国に追従は、イスラム圏では腰抜けと取られても仕方ないようです。

「水に流す」という日本人の美徳は、国際社会では理解されないようで、特に流す水の少ない中東諸国では、まったく通用しないようですね。



わたしは日本人そのものが腰抜けだとは思いませんし、水に流すことは場合によって必要なことだと思います。

少なくとも、何10年経っても済んだ話に粘着するよりは、時には水に流すことの方がよいのではと思うのですが、米国の原爆投下に関しては、このロイターの記者のように言い続けないといけませんね。

比叡山が信長の焼き討ちを赦したとか、バチカンがガリレオの地動説を認めたとか。
米国が原爆投下を謝罪するとしても、そのくらいの時間の単位になるでしょうが、今回のロイター原爆投下発言も、 70年の時を経た壮大なブーメランです。

8月15日が近づくと、毎年「平和への祈り」をとなえますが、それだけではなく、米国の犯した戦争犯罪に関して言い続けることも必要でないかと思った次第です。
もちろん、謝罪せよとか、賠償せよという話ではなく、です。



ところで、やられたことを忘れないという気質・・・キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった一神教にその傾向があるようですね。

一方で多神教の国というのは、インドとイギリスの関係を見てもそうですが、その点「水に流す」ことを知っているようです。

一神教というのは自然の厳しい地域に興る・・・それも砂漠のように何もない自然に生まれる傾向があるようです。アジア地域ではモンゴルや北部中国では、「天」という唯一神に近いものがあるのに、南部中国や東南アジアの国々では土着の神々がいっぱい存在しています。

日本のように何もしなくても勝手に草木が生えてくる国では、一度何かあって壊れても、再生することが可能ですが、砂漠地域のように、ただでさえ何もないところでは、そうはいかない。

そんな違いがあるんでしょうね。

災害の多い日本ですが、再生力が強いのも人力だけでなく、自然そのものの力があるのかもしれません。

でも原爆は人災だからね。やっぱり罪は問わないと。

ところで肝心のシリアの化学兵器。ホントに使ったんでしょうか?

イラクじゃ大量殺戮兵器は存在しなかったわけで、国際社会もそのあたり「またか」と思っているようです。


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久々のインスタントラーメン!

2013-08-29 09:34:27 | Weblog
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昨日の昼、インスタントラーメンを無性に食べたくなり、痛風発症以来はじめて食べました。普段、ラーメンには冷淡だと公言していながら、食べたくなる時はあるものです。

無性に食べたくなったのは、実はサッポロ一番なのですが、イオンまいばすけっとには置いておらず。近くのコンビニに行けばあるはずなのですが、変に妥協して購入。

食べてみると、マルちゃん生麺醤油味はお店のラーメンに近い、コシのある本格的な麺の感じでしたが、あまりピンと来なかったかな~。



煮立てるとすごくカサが増える麺で、野菜を入れたこともあって、丼にいっぱいになったのにびっくり。

やっぱりサッポロ一番にすれば良かったと思ったのは、このインスタントラーメン・・・けっこう本格的なお店のラーメンの味を追求してるみたいなのですね。

サッポロ一番でもチャルメラでもそうなんですが、ラーメンというよりはインスタントラーメンが食べたかったようなのです。
どちらも最後の加工に油で揚げるみたいで、 店で食べるラーメンの麺とは別物です。

韓国料理ではチゲを食べたあとにインスタントラーメンの麺を入れますが、コリアンフードにはあの食感が合うのでしょう。



そういえば、私の父はインスタントラーメンとか焼きそばとか、チャーハンなど、今で言うB級グルメが大好きな人でした。

それも無性に食べたくなるといって、よく母にも私にも作らせていました(自分ではやらない)。

無性に食べたくなるものにそんなに高級料理はありません。
焼きそば、ラーメン、カレー 、パスタ。やっぱり麺類が多いのかな。

無性にキャビアが食べたいなんて思う人は少ないに違いない。

父が好きだったのは、インスタント焼きそばという、フライパンにお湯を入れて麺を膨らますという奇妙な食べ物でした。これって今でもあるのかな?
最近食べたことないけど、あるんでしょうな。

痛風にインスタントラーメンが良くないなんて話は聞いたことありませんが、発症してから食べなくなったもののひとつでした。

これが食べたくなったというのは、体がモトに戻ったということなのか、それとも危険信号なのか?

そういえば先週、痛風以来禁じ手にしてきた、ビールとサッポロポテトという組み合わせをやってしまいました。
別にそんな旨いことありませんでしたが、なんか懐かしい感じが。
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アニメ「おじいちゃんとぼく」、制作開始です!

2013-08-28 08:24:27 | Weblog
こちら、続きはメインブログでご覧くださいませ→


アニメの正式名称は「おじいちゃんとぼく」です。

こちらは最初に描いた絵コンテのひとつ。

あまりストーリーになっておらず、58億年の物語になってますので、シリーズ化されたとしても、これを採用されるかどうかはわかりません。

実はこちらは拙著「シエスタおじさん」以降、描いてきたテーマです。

みなさまに伺いたいのですが、この絵コンテをアニメで見たいでしょうか?
正直なご意見、伺えたら有難いです。

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アニメーション「一斎爺さんの小言」

2013-08-27 09:46:51 | Weblog
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昨日は佐藤一斎のアニメ「おじいちゃんとぼく」の打ち合わせで、はるばる千葉は京成電鉄の八千代台に出かけました。

上の絵コンテは、その1ページめ。
削除になったブブンですので、公開いたします。

あ、誤解のないように言うと、あまちゃんの種市くん。わたし、きらいじゃありません。どちらにせよ、このキャラクターは変更になりますが(笑)。

アニメ担当、音楽&声優担当がほぼ集まり、第一話の検討をしました。
ストーリーに関して言えば、大筋でOKが出ました。

ただ登場人物が多いとか、ストーリーの山場が2つあるので1つ削ってほしいとか、など、低予算ならではの注文が出ました。

登場人物が増えれば、声優の数が多くなるなど、元の予算が少ないだけに、一人頭の分配が減るわけですね。

それにしても7分ほどのアニメ(CM入れると10分尺)とはいえ、いざ作るとなるとけっこうな金額がかかるもの。

私やアニメーターの人件費はもちろんですが、撮影や音楽、声優、スタジオ使用料、テーマ曲をはじめとする音楽(なしで良いというワケにいかない)など、なかなか大変です。

まあ、予算が少ない分は知恵で補わないといけません(笑)。

先にも申し上げたように私の担当は原案とキャラ設定。佐藤一斎翁のことばに合わせて、ストーリーとキャラクターを作るいわば骨組みの役割です(直接の作画はいたしません)。

一斎翁のことばは人生の金言なのですが、漢語調でいかんせん厳めしいのが難点。
これをどう楽しくわかりやすく、しかも一斎翁のことばの要素を正しく伝えるかというのが悩ましいところ。

佐藤一斎のことばを広めたいという岐阜の人たちが、主な出資先になるわけですから、一斎翁のことばは絶対の要素です。


凡そ事を作すには 須らく天に事うるの心有るを要すべし

(およそことをなすには すべからくてんにつかうるのこころあるをようすべし)

みなさん、意味わかりますか?
わたしはわかりませんでしたが、「何か事をなすためには、天に恥じぬよう心すべし。天網恢々、 天はいつもあなたを見てる」といった大意だそうです。

早く言えばインチキするなってことでしょうか。

このことばを元に、今絵コンテの修正をしています。
アニメ1本めの完成は年末か年明けの予定。

絵のタッチは私が直接描くわけじゃないので、だいぶ違う感じになりますが、アニメーターたちの絵、わたしはけっこう気に入ってます。すぐには公開できませんが、いずれお見せしたいと思います。

お楽しみに。
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ポール・マッカートニーの「ミセス・ヴァンデビルト」を知ってますか?

2013-08-26 09:02:40 | Weblog
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浜松の新築に納める絵、また構図を壊してしまい1からやり直しです。12月まであと3か月・・・間に合うんかいな

最近は仕事場でクラシックじゃなく、インターFMという局をつけっぱなしにしています。リモコンをなくしてしまい、局を変えることができないヘボい機器を使ってるのが元々の理由ですが、昔のロックミュージックを数多く流してるので、けっこう気に入って聴いているのですよ。

先のフジロック・フェスティバルの主催ということもあって、なかなか曲のチョイスが楽しい。

10代20代に聴いた音楽というのは、一生を左右すると言いますが、まさにその通り(クラシックはその限りではないです。ポップス限定かな)。

そんな中、今ポール・マッカートニーが来日ということで、先週はビートルズ時代からウイングス時代の曲がいっぱい。

最近のカバー曲も満載で、なかなか楽しいBGMになっていました。

同じポールの曲でも「イエスタデイ」とか「レット・イット・ビー」などビートルズ時代のものは、クラシック音楽みたいなもので定着しすぎて懐かしさを感じないのですが、「死ぬのは奴らだ」や「バンド・オン・ザ・ラン」などは、最近は巷でそんなに流れることがなかったので、いや何だか懐かしい!

「死ぬのは奴らだ(Live and Let Die) 」はロジャー・ムーア主演の007シリーズ主題歌。映画はテアトル渋谷って言ったかな。109が出来る前、あの近くの地下にウナギの寝床みたいな二番館があって、そこで見た覚えがあります。

あの時代の007は今より安手で、映画も荒唐無稽でしたけどね。珍しく黒人が悪の親玉になる作品で、その点は目新しかったかな。

「バンド・オン・ザ・ラン」は中学生時代に夢中になって聴いたアルバムでした。

なんて言うと年がわかりますが、「ジェット」がラジオから流れることは、最近滅多にないので、やっぱり懐かしいかな。

このアルバムは収録曲どれひとつ取っても名曲ぞろいですが、わたしが中学時代に一番好きだったのは、「ジェット」でも「バンド・オン・ザ・ラン」でもなく、「ミセス・ヴァンデビルト」。

アフリカ色の強い曲で、「Ho! Hey Ho!」というかけ声が何とも印象的。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」みたいな、原始的なリズムやかけ声なのに、洗練された編曲で料理してるのが何とも魅力的です。

冒頭の早口な英語はとても歌えないので、「Ho! Hey Ho!」というかけ声だけバカみたいにマネしてました。

4分半くらいの曲です。良かったらみなさまお楽しみくださいませ。
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サントリー美術館「谷文晁展」~見てきました!

2013-08-25 09:30:03 | Weblog
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谷文晁(たに・ぶんちょう)展、見てきました。

ポスター見た感じでは左程好みの絵ではなかったので、そのままスルーのつもりでしたが、ツイッターの評判や、ジム友の絵描きさんの「良かった」という声を聞いて気が変わり、閉幕2日を残して行くことに。

いやあ、展覧会というのは見てみないとわかりません。会場に丸2時間釘付けにさせる見応え十分の展覧会でした。

ポスターに使われているオランダ絵画の花を模した絵が、展示替えでなかったのは残念でしたが、そもそもこの絵が好みでなかったので、まあ良いかって感じかな。

それより竹林や山水を描いた水墨画の見事な屏風絵などは見事なもの。
文晁周辺の絵師の作品も満載で、まことに堪能いたしました。

文晁の生涯を見ると、画家とすると豊かな人生を送った人なようでした。
文雅豊かな家系に生まれ、12歳より狩野派の画家に師事。30歳の時には、あの寛政の改革で知られる松平定信公がパトロンになっています。

渡辺華山ら、弟子にも恵まれ、亀田鵬斎、酒井抱一などとも親交を重ね、当時としては長生きの78歳で天寿を全うしています。

旅好きで30歳までには、日本国内行ってない国は5~6国だったとか。旅先で描いたスケッチは空気感があり、「嗚呼、昔の日本はこんなに美しかったんだろうな」と思わしめるほどです。



オランダ絵画の模写があるように江戸後期のこの時代、鎖国とは言いつつ、西洋絵画との東西交流があったのは、先の拙ブログでも取り上げたようなお話であります。

孔雀や草木の見事な描写は、明らかな西洋絵画の影響ですが、わたしが惹かれたのは、描写がしつこい若い頃の絵ではなく、次第に引き算をするようになった後半生の絵でしょうか。

文晁と自分を一緒に言うのもナンですが、わたしも引き算の得意な絵描きではありません。描いてくうちに、空間がだんだん余計なもの、ヘンなもので埋まっていくタイプなのですが、それだけに初期の文晁を見ていると息苦しくなります。

暑苦しいヤツが、別の暑苦しいヤツを「暑苦しい」と言ってるみたいなものですが、才気走った文晁の若い頃の作品は、まさにそんな感じかな。

文晁は南画(中国の南宋画をもとに、江戸時代発展した画風)を勉強した人ということもあるでしょう。

こちら文晁ではなく、北宋時代の画家・郭煕(かくき)の作品。


見ての通り、びっしり描き込んでいて油彩画のようですね。

実際に中国の水墨画は、こういう作品が多く、空間を生かした水墨画は日本で完成したと言って過言ではありません。
雪舟が明に渡った時に学ぶものがないと感じたのも、そんなことでしょう。

文晁の南画は、中国水墨画の呼び戻しのような要素があり、それが西洋絵画の影響を受けたとならば、凄まじい描写の嵐も納得できるというものです。

ただ、個人的には東方地方を旅した時のスケッチや水墨画、山水図に惹かれたかなあ。

見ていて存在の大きさを感じさせたのが、パトロンの松平定信公です。

定信は田沼意次の賄賂政治を一掃した、寛政の改革で知られる人ですが、こちらの経済制作は窮屈過ぎてうまく行かなかったようですね。

将軍候補と言われた人らしいですが、権力争いにやぶれ、現在の福島県、白河藩の藩主となったためか、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されたそうですが、藩主としての評価は名君として高いようです。

そんな松平公が三ツ又の珍しい稲を見つけ、文晁に描いてくれと頼んだスケッチがありました。絵の面白さももちろんですが、藩主と絵師。どんな会話がなされていたのでしょう。

身分の違いは別にして、きっと仲が良かったのでしょうね。そんな関係が伝わる一枚でした。

ところで谷文晁、大変な画家ですが、何が足りないかというと色気でしょうか。
見ると女性を描いた作品はすこぶる少なく、坊主とかオヤジの絵ばかり。

たまに女性の絵があったかと思うと、観音さまや弁天さま(他の仏だった?)で、現実の女性を描いた作品は見当たりません。色気のなさは、五百羅漢の狩野信一を思わせます。

これは元々の体質もあるでしょうけど、松平公が色気に関しては謹厳実直な方だったそうで、そんなことも影響してるのかもしれません。
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はだしのゲン、問題なのは海外向け

2013-08-24 09:17:36 | Weblog
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「はだしのゲン」売り上げが伸びてるようです。図書館の閲覧制限が話題になったおかげで、出版本来の目的に貢献したのですから皮肉なものです。

先日これについて書いた記事、サザンと「はだしのゲン」では、閲覧制限に批判をしました。

意見はその時と変わらず閲覧制限には反対ですが、あのマンガ・・・日本兵が南京で妊婦の腹を割くという、存在しない蛮行を描いているのね。わたし、いちおう全部読んだのですが、忘れていましたわ。

作者の中沢氏にとって被爆経験は実体験ですが、彼も中国での日本兵のふるまいは見たわけではありません。
続に「小説家、見てきたような嘘を書き」なんて言いますが、このマンガ、戦後の朝鮮人の狼藉も描いてるそうで(読み返す気がしないので未確認)、けっこうやりたい放題ですね。

あの絵から推測すると、作者本人はかなりムチャクチャな方でしょうな。

ただ、わたしも「はだしのゲン」は問題ありすぎなマンガだとは思うのですが、ヒトラーの「わが闘争」も売られてるわが国ですからねえ。

わが闘争、図書館で閲覧できるのかな?
未確認だけど、どうなんでしょう。
中学時代、読んでた友だちいたけど、別に洗脳されてなかったみたいだし。

ほかにも過激なゲームやマンガ、いくらでもあるけど、そういうものの制限の兼ね合いという話もあります。どこまでどうかという線引きは、けっこう難しい話でしょうね。

もっとも「はだしのゲン」が閲覧制限受けたというのは、残虐シーンに関してがその理由で、「天皇陛下を侮辱してる」とか、「ありもしない南京虐殺を描いてる」という点は完全スルーです。

巷で論点になっているのは、話があさっての方に行っちゃってるってことでしょうね。



この作品を閲覧制限するか、しないかには色々な意見もあるでしょう。

本気で読むつもりなら買えばいいわけだし、読みたくなきゃ読まなければ良いのですが、疑問に思うのは、言われてすぐに引っ込めたり、引っ込めるのをやめたりすりする、役場の態度でしょうか。

ただ、ツイッターなどで「断固焚書」みたいな意見は如何なものか。
「お前の言うことは断固反対だが、お前の意見を言うことは守る」というのが、 民主主義の立場ですからねえ。

焚書は究極のファシズムなので、当然与できません。
ただ、閲覧制限・・・これもやっぱり反対ですね。

本当に問題なのは、この作品が20カ国にも翻訳されてるってことだと思います。最近ではペルシャ語の翻訳も進行してるとか。

原爆の悲惨さが知られるのは悪いことじゃありませんが、それと一緒に、やってもいない南京での日本兵の蛮行まで一緒に海外に紹介されるというのが、一番の問題です。

実際にやったというなら話は別ですが、当時25万程度だった南京での30万人の虐殺。
広島の原爆でも30万なのに、日本刀で30万人とは・・・

日本人なら、その気にになれば日本語でそれを正す情報は入ってきますが、翻訳された場合、まず描かれたことを鵜呑みにされます。日本人自らの手によって、やってもいない自虐史観を海外に広めるわけですから、これは問題です。
まあ、ほかにもそういう作品はいっぱいありますから、キリがないと言えば、キリがないんですが。

オリジナルを尊重するならカットはできないものの、せめて注釈くらいつけて翻訳をしてほしいものであります。
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佐藤一斎を知ってますか?(続き)

2013-08-23 09:43:17 | Weblog
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真の功名は道徳便ち是れなり
真の利害は義理便ち是れなり


こちらも佐藤一斎のことばをもとにした絵コンテ。どんな意味かは、内容をお読みいただければ、おわかりになると思います。

この絵コンテ、シリーズ化されれば生きてくるかと思います。それまではムダになる場合も多いんですが、この商売・・・そういうことの連続で、労を惜しんでいてはいけません。

ほかにも佐藤一斎、こういう絵コンテをいくつも描きました。

ようやく1本が実現しそうですが、それは別のことばをもとにした作品になる予定。

原案は私がやるわけで、実は週明けまでに仕上げないといけないんですが、まだ何もやってません(ウソです、やってます)。

いや、何をやるのも手間のかかること(笑)。
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損保ジャパン東郷青児美術館~画家たちの生涯

2013-08-22 10:29:58 | Weblog
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新宿にある損保ジャパン東郷青児美術館、はじめて行ってきました。

ここは周知の通り、バブル時代にゴッホのひまわりを58億円で購入したことで知られています。

今回は「遊ぶシュルレアリスム」という企画展ですが、ゴッホのひまわりも常設されてるとあって、合わせてそちらも楽しみにやってきました。

「遊ぶシュルレアリスム」展は、マン・レイやマルセル・デュシャンなどの展示が多く、だいぶシュルレアリズムのイメージと違うのが面白かったかな。

私が抱いているシュルレアリズムというのは、ダリやマグリット、デ・キリコなど(彼らの展示も数多くありましたが)、脳裏の裏にある世界を描くアートというイメージだでした。
今回の展示はシュルレアリズムの歴史的系譜に沿って並べられており、幻想的な作品よりもマン・レイやデュシャンなどに見られる洒脱な作品が目立っていました。

これが本来のシュルレアリズムかなとも思える展覧会でしたが、やはり一番印象的だったのは企画展ではなく、常設のゴッホのひまわりでした。

さすがは58億円の絵画というと、いかにも下世話ですが、縦1m、横76cmという思ったより大きなサイズです。
両脇にはセザンヌとゴーギャンの作品があり、こちらもゴッホのひまわりに負けない立派な作品。

作品の脇にはそれぞれセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの生涯が並べて書かれているのですが・・・その悲惨な生涯にがっくり。



ゴッホは16歳で美術商グーピル商会ハーグ支店の店員になり、多くの絵画に親しむも23歳で解雇。下宿屋の娘に求婚、断られる。

解雇後、教師になるも年末には辞める。ドルトレヒトで書店店員を経た後、牧師を志す。献身が常道を逸しているとして伝道師を解任される。


うーん、社会性がなかったんでしょうな。ことごとく仕事をするも解雇され、27歳で画家を志とあります。

その後、ゴーギャンとの同居。35歳で耳を切り、37歳でピストル自殺をして世を去ったのはあまりに有名な話です。

ではゴッホと同居していたゴーギャンはどうでしょう。

30歳半ばくらいまでは、結婚、サロン入選、パリの株式仲買商に勤めるなど比較的順風満帆な人生。

35歳。株式取引所をやめ、生涯つづく貧困がはじまる。


うぬぬぬ。
エカキさんって、みんな仕事やめて貧乏になっていったのね~。

43歳、「楽園」を求めてタヒチに発ち、2年後に帰国。
ちなみに有名なゴッホの耳切はタヒチに行く前ですね。

47歳で二度と戻らない決意でタヒチに行く。翌年、長女アリーヌの訃報を受ける。

53歳、マルケサス諸島のヒヴァ・オア島に移住。生活難と健康状態悪化。
54歳、5月8日、心臓発作のため死去。

うーん、ゴッホより少しはマシだけど、けっこう悲惨な人生だなあ。




さて、セザンヌはどうだったかというと、父が銀行家だったため食うに困ったことはなかったようですが、度重なるサロンの落選など、長いこと社会的評価を受けなかったようです。

38歳、第3回印象派展に16点出品するが不評、以後不参加。

うーん、でもゴッホやゴーギャンの生涯に比べると、だいぶマシかな。

56歳、パリのヴォラール画廊で個展、好評を得る。

65歳、サロン・ドートンヌで回顧展、名声が確立。
66歳、《大水浴》をサロン・ドートンヌに出品、反響を呼ぶ。
67歳、10月22日、制作中雷雨に打たれおこした肺炎がもとで死去。

おや、この人。生きてるうちに評価されたんですね。
その前から、印象派仲間からはカリスマだったそうですが、これは意外でした。

評価された翌年に死んでしまうとは残念ですが、制作中の事故となれば本望だったかもしれません。

実はゴッホもゴーギャンも亡くなって数年後には社会的な評価を受けてます。

もちろん、ゴッホの熱狂的なファンが運動したりと、死後尽力をつくした人たちがいたからこそですが、もう少し長生きしてればいい目もあったかもしれないのにねえ。

ともかく、画家の悲惨な人生度は、早死にがそれを決定するようです。

中で長生きしたセザンヌは、おかげで日の目を見てから生涯を閉じたわけですねえ。

拙著「堪能ルーヴル」を書いてる時も、画家の悲惨な生涯の話をいっぱい目の当たりにして、目の前がクラクラしたものですが、いや、世間でよく言う「死んでから有名になる」って、けっこう現実なんですよね。

こりゃ、がんばって長生きせにゃイカンと思った次第でおます(苦笑)。

それにしても、そんな悲惨な生涯を送った画家に58億とは、シャレがキツいで損保ジャパンさん。人生の皮肉を目の当たりにしたような展示、堪能した次第です。

あ、絵画とあんまり関係ない話でスミマセン。次回はじっくり!
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佐藤一斎を知ってますか?

2013-08-20 09:44:18 | Weblog
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時にみなさま、佐藤一斎という人をご存知でしょうか?

幕末の思想家、教育家(儒学者)で、あの西郷隆盛も彼の著書「言志四録」を手元に置いて読み重ねていたとか。

そんな彼の著書「言志四録」をもとにしたアニメを、地元・岐阜県恵那市岩村が中心に企画されていたのですが、1本目を作るはこびになりました。

私の担当は原案とキャラクター。
作品の大元を決める大きな役割ですが、直接絵を描くことはいたしません。

ただ、もう何本も原案のコンテを描きましたが、こちらはそのうちの一部。出資者にプレゼンテーションするために描いた一枚です。

ただし第一回のストーリは別案で展開することになりそうです。




強引にアチャールくんを入れましたが、出資者から「何で岩村にインド人?」と言われ、違和感があるということで第一回は外すことになりました。シリーズで何本か制作されることになれば、入れることができそうです。



彼の著者としては、何と言っても40年にわたって書き連ねた言志四録(『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の4書の総称)で、そのことばは今日だからこそ、我が身にしみるものがあります。

一斎翁の出身地、岐阜県恵那市岩村では「言志四録」のことばが石碑やカード、お札やポスター、カレンダーと、それこそトイレに入っても見ることができますが、最初のマンガのセリフを見てもわかる通り、現代人にとってそんなにわかりやすいことばではありません。

そこで、アニメの制作ということですが、うまくシリーズで何本かできるといいな。

こちらが岩村城跡。
城好き垂涎の城跡だそうですが、けっこう昔の面影を残していて、アニメの背景にも使われる予定です。

さて、こちらが一斎翁の代表的ことばを石碑にしたもの。

「一橙提げて暗夜を行く。暗夜を憂うことなかれ。ただ一橙を頼め」
(いっとうさげて・あんやをいく。あんやをうれうことなかれ。ただいっとうをたのめ)

どんな暗夜でも、おのれに灯す火があれば憂うことはない。
ただ一橙を頼め。

素晴らしいことばですね。
わたしも一橙を頼んで夜道を歩くとすっかな。
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傲慢な死刑廃止論~人権とは何か?

2013-08-19 09:30:44 | Weblog
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仮釈放ない終身刑:英制度廃止へ

↑ なんじゃこりゃってニュースですな。

死刑廃止は世界の趨勢って言いますが、死刑に代わる終身刑まで「絶対的終身刑」を廃止にしようとしてるなんて、被害者の遺族はいったいどうなるのという感じですね。

人権というのは大事な考え方ではありますが、個人的にこの言葉を金科玉条とすることにに胡散臭さ・・・というか、一種の傲慢さを感じます。

ウィキによれば「人権」という考え方は、イギリス憲法の祖マグナ・カルタまで遡るようで、それは王さまの権限を制限するための法としてはじまったようです。12世紀と言いますから、「人権」という考え方は意外に古くからあるんですね。

もともと人権は、国家が国民の生命や権利を脅かさないために考えらえたようですが、もちろん、それはイギリス自国民限定・・・植民地時代にインドや東南アジア諸国にしたことを鑑みれば、インド人らは人間扱いされていません。

もちろん時代が違うので、それら植民地時代に行ったことの断罪はできませんが、その反動か、最近は動物までanimal rightsという人権ならぬ、動物権なる考え方まであるのですね。

絶滅危惧種の保護は仕方ないとして、行き過ぎた動物愛護じゃないけど、animal rightsなんて考え方は如何なものでしょう。かえって人間の勝手で、傲慢さを感じるのですが・・・。



同様に死刑廃止も本質的に傲慢な考え方だと思います。

死刑廃止のもとは「人間が人間を裁いて良いか」という考え方だと思いますが、一方では「人間が人間をどこまで赦して良いか」という考え方もあるはずです。

西洋の考え方で言えば、人を裁くのは神であり、赦すのも神であります。
天網恢々粗にして漏らさずと言いますが、そうは言っても、現実問題として人は人によって裁かれもし、赦されもするわけです。

ただ、キリスト教的な考えでいえば、それも神の代弁でありましょう。

わたしが死刑廃止が傲慢な考え方だと思う点はそこでありまして、この「加害者を赦す」という行為に、自分たちが神の代弁者であるという意識を感じるのであります。
何人も人を殺した人間を誰が赦すのでしょう。

赦すとすれば神のほかありませんが、その代役をしてるのは他ならぬ人間、それも欧米を中心にした一部の人たちであります。



その点は、animal rightsにしても同様であります。
聖書には神の姿を模して人間を作ったとあり、ヒトと動物の間に厳然とした違いがありますが、その辺りが「人権」に感じる違和感と共通したものがあります。

ことの善し悪しは別にして、中国やイスラム諸国に「人権」という言葉を使っても、まったく馴染まないというのは、そういったわけでしょうね。

まあ、私は死刑廃止には反対ですが、中国のように迅速な死刑執行というのも如何なものか・・・ただ、3000年間誰かしら皇帝の支配下にあった人たちに「人権」と言っても、何のことか理解されないのも確かです。

中国の例はわるい意味で極端ですが、死刑廃止というのが先進国の趨勢、というのも実にキリスト教圏を中心にした欧米の思い上がりに思えるのです。

植民地時代、宣教師を先遣隊にアジア、アフリカを文字通り搾取してきた人たちが、過去を忘れて「人権」を自分たちの価値観で押し付けてくるというのも如何なものか。

もちろん、植民地時代を知る人は存命してませんし、それを言えば、過去の歴史をしつこく追求する隣国のようですが・・・。

それはともかく仮釈放ありの終身刑は論外です。何のためのペナルティかわかりません。被害者の家族は死んでも死にきれないでしょう。

刑罰が野蛮とするなら、刑罰されるようなことをした人間はいったいどうなのか。
被害者の遺族はどうなのか。

死刑廃止論も一種の原理主義でないかと思えるこのごろでした。

この話はまだ自分の中で整理できてないところがあるので、後日また考えてみたいと思います。
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「神トラップ」~日本のカミ

2013-08-18 09:49:26 | Weblog
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先日の日本代表、ウルグアイ戦。
結果は散々でしたが、試合前に柿谷選手のトラップが「神トラップ」と呼ばれていたのにびっくり。

そういえば「神」って言葉。
最近は若い人の方が簡単に使いますね。

アイドルで可愛い娘がいれば「神」。スケートボードで凄い技を見せれば「神テク」。マーくんの21連勝も「神」。サッカー若手代表でさえも「神トラップ」。

大昔、横浜ベイスターズが優勝したときも、大魔神佐々木を祀った「大魔神社」なんて一時的に設置されましたしねえ。

「神」のインフレにおぢさんは呆れ顔ですが、考えてみると日本語の「神」というのは、菅原道真公のように人間も神になる世界ですから、あながち間違った使い方とも言えません。

そもそも「神」を英語の”god”に当てはめること自体、間違いだという声が多く、知り合いの外国人は「神格」「神性」を意味する”deity”という言葉の方が妥当だろうと言ってました。

ただ、日本語でも「ゴッド」と言った方が発音的にピンときますねえ。

わたしがゴッドという言葉を初めて知ったのは、小学校の時に少年マガジンに連載されていた石ノ森章太郎先生の「リュウの道」でした。
謎の老人が姿をあらわし、名前を聞くと・・・

「わしの名はゴッド」

と言うのです。
「ゴッド? 神? 自分を神というのか?」

そんなセリフでGODという言葉を知りました。

マンガで有名なところでは、梶原一騎原作の「空手バカ一代」で、かの極真空手創設者、大山倍達総裁がアメリカ遠征の時に米国人たちから「ゴッド・ハンドだ!」と呼ばれる場面です。

でも、後年大山総裁がTV番組に出演された時に、笑いながら

「それはマンガの創作ですね。むこうの人は簡単に『ゴッド』なんて言いません」

とおっしゃっていたのが印象的でした。

アッラーにせよヤーヴェ(エホバ)にせよ、あちら一神教の人たちは簡単に神の名を言いません。

インドで一緒になったユダヤ人親子に「ヤーヴェ」と言おうとしたら、「シーッ」と口に人差し指を当てて制止されました(このゼスチャーは共通)。

神の名を簡単に呼んではいかんのですね。

ハリー・ポッターのヴォルデモートも、最初の方では名前を呼ばれることがないのですが、それは超自然的スーパーパワーを持つものの名を呼ぶことは禁忌ということでしょうか。

・・・おっと。

でも源氏物語の登場人物も誰一人本名が出てきませんね。

これは一神教、多神教ということではなく、単に名を呼ぶことの禁忌ということなのかな。



いずれにせよ、「神トラップ」なんて表現が良いかわるいかは別にして、「神」の使い方の気軽さは、欧米やイスラム文化との大きな違いであることはたしかでしょう。

このことから天皇と神という話に持っていこうと思ってましたが、テーマが重いので、またいずれ次回ということにいたします。
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サザンと「はだしのゲン」

2013-08-17 09:09:09 | Weblog
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<はだしのゲン>松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」



どこかの圧力団体だか知りませんが、言われてすぐに書庫に引っ込める役所の対応というのは、いつもながら如何なものでしょう。

「はだしのゲン」は思想的には問題も多いマンガですが、被爆者が実体験を元に原爆の悲惨さを描いたという点では、ほかに類を見ない作品です。

もともと原爆は残虐きわまりないものであります。
だからこそ、どういうものか子どもにも見せなければならないのに「残虐だから」と言って、閲覧を制限する思考停止ぶりは如何なものでしょう。

それが教育を司る大元がするんですからねえ。

それにしても「はだしのゲン」は毀誉褒貶の激しい作品です。

いわゆる右翼からはすこぶる評判がわるく、その大きな理由のひとつが「天皇のバカヤロー」といった不敬のセリフが多いこと。作者の中沢啓治氏自身、昭和天皇を「最高の殺人者」「戦争狂」と揶揄する人でもありました。

また、被爆者の視点ということは、言い方は良くないですが、それはタカの目ではなく、アリの目であるということです。

原爆投下の現実を誰より目の当たりにしたかもしれませんが、それは一面の強烈な真実に過ぎません。被爆者はいきなり原爆を落とされたわけで・・・昨日、記事に書いた「天皇と原爆」にあるような、本当の日米開戦の原因を理解してるわけではありません。

「ピカがうつる、あっちへ行け」という差別の問題が多いのも、実体験に基づいているからこそですが、それは戦争の本質ではありません。もちろんだからと言って、作品の価値が上がるとか下がるという話ではないのですが。



反対にはだしのゲンで特筆すべきは、原爆投下の悲惨さはもちろんなのですが、それにもめげず強かに生きていくゲンたち少年のたくましさでしょう。

思想云々よりも、一番子どもに読んでほしいのはその点なのですが、どうもこの作品に関しては、一番肝心な「生きる力」という、そこが見過ごされてしまうようです。

作品に自分と違う思想があろうとも、その辺りは汲み取ってほしいのですが、そこで割り引いてしまう人も多いのが残念なところです。



同じ意味で最近目に余るのが、ツイッターなどのサザン下げですね。

個人的にサザン・オールスターズというバンドは、この世でもっとも関心の薄いもののひとつです。それは好きではないけど、だからといって特に嫌いでもないという意味なのですが・・・。

ところが一部、ファンだった人が「可愛さ余って、憎さ百倍」なのか、サザンの桑田さんが左よりの発言、韓国上げの発言をしてるため、何かそれを一斉に叩いているのです。
桑田さんは青学時代から第三文明研究会の活動が激しかったというのはよく聞く話で(裏はとってません。違っていたらご容赦を)、今にはじまった話ではありません。

今更何を言っているかと思うのですがねえ。

自分の期待、自分の考え方と違うアーチストがいたら、作品まで否定する考えというのは如何なものか。

もっとも作り手は、それを折込済みでモノを作らないといけないわけですが、それで見る目がにごるケースは少なくないようです。
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「天皇と原爆」~日本人は宗教に頑固?

2013-08-16 09:28:42 | Weblog
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西尾幹二氏の「天皇と原爆」読了しました。

あ@花さんのススメで読んでみましたが、これは大変な名著ですね。
近頃になく感銘を受けました。

西尾幹二氏はニーチェ研究でも知られるドイツ文学者ですが、文字通り知の巨人であり、本書ではその碩学を遺憾無く発揮してるばかりか、ひじょうに読みやすく書かれているます。

「海賊とよばれた男」にもあるように、先の大東亜戦争が石油による戦争だっというのは周知の事実ですが、西尾氏は、欧米の植民地時代まで時間軸を伸ばし、かの戦争はアメリカと日本の宗教戦争だったという見方をしています。

それは天皇を中心にしたわが国の多神教と、キリスト教一神教の戦争という意味であります。もちろん、それが戦争の物理的原因というのではなく、戦争の根底にあったメンタルなものという意味であります。

ここで肝要なのは、わが国の方では、かの大東亜戦争戦争が宗教戦争のつもりはさらさらないということです。
ところが米国側の方は唯一神を頑として受け入れない日本人に対して、苛立ちと憎しみを感じていたというのです。

さて、以下は本の内容とは少々ズレるところはありますが、よろしければお付き合いのほど。

私たちは日本人というものが、宗教に無関心、無宗教だということを変に信じています。しかし口では「無宗教」と言いながら、正月には初詣に行くし、お社やお寺の前ではキチンと手を合わせる。
挙げ句の果ては結婚式を教会で行い、平気で祝福をするという、一神教の人たちから見ると悪魔の所行に等しい理解に苦しむ行動をします。

これは西洋人の視点から言えば、明らかに無宗教ではなく「多神教」であります。

あちらの無宗教はatheism、無神論であり、「神はいない」とハッキリ否定します。ドストエフスキーの小説にも出てくるような、激しい無神論者は私たちが「無宗教」というのは明らかに違います。

「天皇と原爆」の中には、ある人が米国で宗教について尋ねられたくだりがあります。「何の宗教を持ってるのかね」と聞かれ、「ありません」と答えたら悪魔でも見るような顔をされたというのです。それで、「本当に何も宗教を信じてないのかね?」と聞かれ、仕方なく「仏教です」と答えたら、相手は安心してニコニコしたというのですね。

無神論者は悪魔視されるということですが、これは日本ではありえないことで、ある意味一神教の裏返しとも言えましょう。

フランシスコ・ザビエルが日本に布教へやってきて、およそ470年になりますが、日本におけるキリスト教徒の数は一向に増えません。

明治時代、人口の1%だったクリスチャンは今でも横ばいと言いますが、それはひとえに日本人の一神教ぎらい、原理主義ぎらいによるものであります。

インドではカーストの苦しみから逃れるために、クリスチャンに改宗した人は多いですが、フィリピンや韓国などは、そういう理由以外で比較的用意にキリスト教化が進みました。
ところがわが国ではキリスト教徒の人口は一向に増えない。

ひとえにこれは一神教に対する拒否反応に加え、日本には古来より天皇という神の存在があったからだというのですね(ただ、天皇の存在に関しては長くなるので、今回は割愛)。

これは本に書かれてないことですが、特定な宗教を信じてない人の中には、新興宗教などに勧誘されると「宗教だ」と引いてしまうのも、そんな一神教に対する拒否感かもしれません。そんな「宗教」に引いてしまう人も、墓参りには行くし、初詣には行くのですから。

ザビエルもアメリカも頑としてキリスト教一神教に染まらない日本人に、苛立ちを感じ不気味さを感じた。それが米国側の憎しみとなって、日本とアメリカが戦争するように方向づけたとありますが、なるほど腑に落ちる話であります。

なわけでこちらは、以前ボツになった仏教本の企画書に使ったマンガです。
いずれ復活させてみせますが、仏教オンリーとはいかんだろうなあ。

今回は本の一部しかご紹介できませんでしたが、「天皇と原爆」は日本人なら一読の価値があります。ぜひお読みくださいませ。
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