小暮満寿雄 Art Blog

ダジャレbotと間違われますが、本職は赤坂在住の画家です。作品の他お相撲、食やポリティカルな話も多し。右翼ではありません

「まんぷく」の画家のモデルが壇蜜で思い出した、ポーラの岡田三郎助

2019-01-31 09:11:37 | Weblog

今朝方、朝ドラ「まんぷく」を見てたら、要潤の洋画家モデルに壇蜜が出ていて、妻の松下奈緒がヤキモチを焼く……なんて場面があって、はからずも先日見たポーラの岡田三郎助を思い出してしまいました。

たまたまでしょうか、テレ東「なんでも鑑定団」でも岡田三郎助の鑑定が出ていて(本人評価額300万、鑑定額600万! 本物です!)、先に書いた自分の記事と全く同じことが言われていたので、なるほどと思った次第です。

▼一昨日書いたその記事はこちら。
ポーラ美術館〜突っ込みどころ満載の「モダン美人誕生ー岡田三郎助と近代の装い」

そりゃ、いくら画家の仕事だと言ったところで、知らない美人が自分の家で裸になっていたら、大抵の奥さんは良い気持ちになるはずがありません。

拙ブログでも書いた、バルテュスロダンボナールなど、みんなモデルの女性を巡ったトラブルを起こしていますからねえ。

意外だったのは、岡田三郎助画伯が温厚な性格だったこと。
加えて、当時の画家は無頼の徒が多かったということでしょうか。

朝ドラ「まんぷく」の壇蜜さんを巡って、これからどうなるのか。
楽しみというより、めんどくさいのであまり見たくない気持ちも半分です(笑)。

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箱根強羅公園を通って、箱根美術館に行ってきました!

2019-01-30 10:34:28 | Weblog

箱根の初日、登山鉄道の強羅駅に到着したのが1時頃。
3時半の送迎バスが来るまで、2時間半ほどもあるので、箱根強羅公園を通って、箱根美術館を見ることにしました。

上の写真はブラタモリでも話題になった、箱根山の山体崩壊の跡ですね。
公園や美術館の中に巨石がゴロゴロあるのですが、こんなに大きな岩があんなに遠くから飛んできたなんて、自然の力はすごい!

とても人智の及ぶところではございません。

でも、その岩や石を利用してお庭を作ってしまおうなんて、日本人もなかなかしたたかなものであります♪

箱根美術館は、あの尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」を所有するMOA美術館の姉妹館。
世界救世教という、神道をベースにした宗教団体が母体です。
宗教団体の美術館と聞くと引いてしまう人もいそうですが、そこは美術館なので、むしろキチンと管理されているようです。

MOA美術館は学生時代に行ったきりですが、秀吉が作らせたという「金の茶屋」があまりに凄いので、当時同級生だった画家の越前谷嘉高くんと大笑い(声を殺して)した記憶があります。

箱根美術館は二度目なのですが、むしろ渋い名品が多いという印象でした。
 ▲こちらは橋本雅邦による金箔の屏風絵。

雅邦はそれほど好きな画家でなかったのですが、墨で金箔の下地に一気に描いたこの筆致は素晴らしい!

私もこんなに大きな屏風は難しいけど、金箔に墨で描いた絵を今年の展覧会用に描いてみようかな(笑)。

ほかにも備前焼きの大甕や皿などの銘品が展示されていて、送迎バスが来るまでの2時間半があっとい言う間に過ぎてしまいました。

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ポーラ美術館〜突っ込みどころ満載の「モダン美人誕生ー岡田三郎助と近代の装い」

2019-01-29 15:47:34 | Weblog

箱根ラリック美術館のあとは、バスですぐそばのポーラ美術館に行きました。
最初は家内が行ったことないと言う彫刻の森美術館に行くつもりでしたが、本館とピカソ館が改装中で閉館。箱根のこの寒さで野外のみはちょっとキビしいというので、アクセスの良いポーラへ行くことにしたのです。

特別展は「モダン美人誕生ー岡田三郎助と近代の装い」。
私の苦手な明治以降の洋画でしたが、そこはポーラ! 見せてくれました。

▲上のポスターの絵……はだけた女性の半身像を描いたのは岡田三郎助という、明治、大正、昭和にかけて活躍した画家であります。
名前は聞いたことありますが、本物をまじまじ見るのは初めてです。入口近くに写真が展示されてましたが、いやいや、これはスケベそうなおじさんだぞ。

当時の美人コンテストの審査員もされていたそうで、憶測ですがきっと何か良からぬ……(以下略)。

写真はWikiより。

ほとんど初めて見るのに、何か見覚えのある絵だと思ったら、岡田三郎助さん。
かの黒田清輝大先生の愛弟子なんですね。

明治時代の大画家・黒田清輝に関しては、1年前もここポーラ美術館で「野辺」という絵を見てブログ記事にいたしました。記事をお読み頂ければわかりますが、私は黒田清輝という作家、そんなに好きではありません。
黒田清輝といえば、かの藤田嗣治の芸大時代の絵を酷評し、毛嫌いした画家でもあります。黒田は藤田の才能をおそれていたのか、嫉妬していたのか……?

一方で自分の絵とよく似た岡田三郎助をよく盛り立てていたわけですね。

これはレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠ヴェロッキオが、弟子が自分よりはるかに上の才能と知りながら、よく面倒を見ていたのと真逆なケースです。

黒田も岡田も女性の描き方が、完全に男子の都合と妄想をビジュアルにしたような感じで、その点も藤田の女性像とは反対ですね。

ポーラの学芸員は女性が多いはずですから、そんなことは先刻承知だと思いますが、多分黒田清輝作品も岡田三郎助作品も、オーナーが買い集めたものでしょうね。

面白いことに、ポスターになった後ろ向きの女性像を描いた翌年、岡田は奥さんと別居しています。

奥さまを描いた肖像も展示されていたのですが、その表情のコワいこと!
岡田画伯は何度も何度も、モデルを見ては描き直したそうですが、 多分描けば描くほど怖い表情になっていったのでしょう。わたくしの口から言うのも何ですが、自分の女房をあんな顔にさせたくないよなあ(笑)。

さすがはポーラの学芸員。その辺りをそれとなく見る人にわかるようメッセージを送っていたように思えます。

当時の化粧品やブロマイドなども併設されていて、「ポーラの企画にハズレなし」と言いたくなる面白さでした。

印象派のコレクションや、ルドン、ピカソ、マティスの収蔵品も見事。

上野や六本木で行われるゴッホ展やムンク店などには、たいてい1〜2点は「ポーラ美術館収蔵」と銘打たれたものがありますが、さすがにええもんお持ちでんな(ふろむニセ関西人)♪

また、ラリックやガレのコレクションも見事。
▼ガレはグロい作品でなく、中では品の良いものが多いのですが、この可愛くない犬にはびっくり!

たっぷり2時間ほど堪能して、帰路につきました。

それにしても箱根の観光客はずいぶんと多くなった感じですが、金沢がどの店も行列をなしている話を聞くと、箱根のキャパは相当なものですね。

帰りはメトロ箱根90号で滞りなく家まで一本。
良い誕生日祝いと記念日になりました。

次回は温暖な季節に彫刻の森美術館を訪ねてみたいものです。


 

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港区立箱根ニコニコ高原学園から、箱根ラリック美術館を見てきました!

2019-01-28 11:02:21 | Weblog

昨日と一昨日の土日は、妻の誕生日と結婚記念日を兼ねて、箱根に行ってまいりました。
先輩がオーナー権を持っている東急ハーヴェスト箱根甲子園に宿泊。おかげさまで温泉、食事、宿泊ともコスパ言うことなしの素晴らしいお宿でした。

宿以外は特に計画も立てずにいたのですが、Googleマップを見たところ、宿の近くに「港区立箱根ニコニコ高原学園」を発見! そこは今を去ること半世紀前、小学生時代の林間学校があったところですが、まさか、宿から徒歩で行けるところにあるなんて!

施設は外側からしか見られませんでしたが、黄色い外観は何となく記憶がありました。おそらくは前の建物の一部は残したままかもしれません。
思い出としては、先生から「生水を飲んではいけません!」と言われながら、美味しいのでみんなガブガブ飲んでいたことくらいかな。それにしても先生って、つまらんこと言うもんです(笑)。 

箱根ラリック美術館はニコニコ学園から目と鼻の先でいた。行ったような気になっていましたが、ここは全くの初めてですね。さほど大きな館内ではありませんが、そのコレクションの見事さには圧倒されました。

周知のように、ルネ・ラリックは19世紀末アールヌーボー様式の、植物や昆虫などの衣装をあしらったガラス工芸家ですが、この時代のゴージャスと言うか過剰なまでに装飾された意匠には、ただただ驚くばかり。

柄がセミ(しかもリアル)になっているペーパーナイフや、デビルマンで出てきそうな蝶と人間が合体した女性像など、いったい誰が部屋に置くんだと思うような調度品ばかりですが、実際に置かれた写真や映像をみると、実にしっくりきています。

よく「器でない人間が高い地位につくと、本人も組織も滅びる」などと言われますが、ラリックのガラス工芸は、それなりの財力や地位がない人が持つと不幸になりそうな魔力がありますね。

作品が人を選ぶような、そんな魅力と魔力があるガラス工芸にどっぷり浸かり、堪能いたしました。箱根の美術館はどれも本当に素晴らしい。

これほどのコレクションを持つには、よほどの財閥か資産家でないと出来ない相談ですが、こちらは籏家と言う元材木商から発した資産家が運営しているそうです。

ラリックが愛した自然の環境の中にある美術館。
箱根に足を運んだ際はおススメですよ!

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古典は本当に必要なのか?

2019-01-25 18:39:06 | Weblog

古典は本当に必要なのか?

ネット上で話題になっているシンポジウムだそうです。
私はこれを見て「そんなバカなことをいうな、必要に決まっているじゃないか」と思ったのですが、ネットの記事を読んで、よく考えてみればどっちでも良いかなと思いました。

人間、得手不得手があるのですから、古典など何の興味もない人も大勢いるのであって………それを言えば私の専門の美術などは、いらない人にとっては不必要の最たるものであります。

ただ教育で何が一番大切なのかと言えば、どの教科がどうとかではなく、子供が大人になった時に、どう飯が食えるようになるか。どう生きていくことができるか。
下世話なようですが、その智慧を身につけることが一番肝要に思えます。

余計なことをいっぱい知っていれば、何か困った時に、その余計なことが助けてくれる。それが教育じゃないかな。

極端なことを言えば生活できる手段を身につけられるなら、別に教科など何を選んだって良いわけです。ただ、そこに最低限の智慧は必要です。
江戸時代の読み書き算盤ではありませんが、最低限の日本語を身につけ、お金のやりとりができるくらいの算術はできないと話になりません。

そういう意味では、自分たちの生まれた国の成り立ちや、昔の人が何を考えていたのかを理解できる古典というものは、知らぬより知っていた方がよろしい。

たとえ今の考えにそぐわない封建時代の考え方であろうと、触れてみない限りは良し悪しも判断できません。まあ、そんなこと知らずにいる人の方が多いことは多いのですが。

そんなことよりも、今の教育のあり方の一番の問題点の一つは、まずは横並びの考え方だと思います。

たとえば、テストにおいて3年生で習う計算方法を、1年生で答えたら、たとえ正解でもバツになる。実際にそういう教師がいるらしく、ツイッターなどで炎上したそうですが、これはもう論外です。

また東日本大震災の時、救援物資として届いた食料を平等に配らなければダメと言って、貴重な食べ物が行き渡らず、泣く泣く廃棄したことがあったそうです。
「平等に」が最優先で、人命が軽んじられたわけですね。 横並び教育から生まれ出た、悪しき思考回路の末に起こったことに違いありません。

この「古典は本当に必要なのか?」という議論も、そんな横並び思想の一環かな、なんて思いました。もう少し融通が利く考え方があってもいいのではないかな。

今の教育のベースは、戦後、GHQが二度と米国に牙を剥かぬよう、日本を骨抜きするために編み出された部分が多いわけですが、マッカーサーも少し薬が効きすぎたと、あの世で苦笑してるやもしれません。

あ、いかん、いかん。

こんなこと言うと、またお叱りのコメントを受けてしまうかも(笑)。

カルタゴはローマに滅ぼされたのではなく、教育の崩壊から滅んだとも言われますが、わが国もそうならぬよう願うばかりです。

▼こちら、出来なくても何の支障もないお絵描き教室の案内です♪

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さすがテレ東、アド街赤坂〜一位は氷川神社でした!

2019-01-23 09:55:35 | Weblog

テレ東のアド街、井ノ原さんに代わってからの方が良いですね。

先週はわが街赤坂ということもあり、ブラタモリ・ローマ編とともにブラウン管(今は液晶か♪)に釘付けでした。

知り合いの寺越さんも出ていたり、先日セブン区議の会にいたゲイバーのママさんも出ていたりと、興味津々でした。

古くから赤坂在住の人たちは、自分たちを「赤坂村」なんて言いますが、良くも悪くもこの街はあくまで田舎モンの延長です。いや、田舎者そのものかな。

悪い面からいえば、日本橋の旦那衆みたいに団結して街を盛りたてたら良いのに、九丁目しかないのに商店会が6つも7つもあったりして、けっこう張り合っていたりしますね。だから土日に人がいないし、街も今ひとつ発展しないし目玉になるものがありません。

ああああ、赤坂の商店会の皆さま、すみません!
若い店主たちは別の考えも持っているのでしょうけど、昔から積み上がってきたものはなかなか変えられないのでしょうね。

もう一つ言えば、この街は某TV局の城下町です。
でも、 某局は今ひとつ街の発展に冷淡なのよね。

テレ東がさすがだと思ったのは、八丁目の中華「珉珉(みんみん)」を堂々と出していたこと。ここは局の人たち御用達の店ですが、有名になられたら困るのか、絶対他の局ではオンエアされません。

あ、上の餃子は珉珉じゃなく、八重洲の泰興楼(たいこうろう)ね。
写真がなかったもので、ザツな作りですみません(笑)。

珉珉は私が中学校の頃に、中国から渡ってきた店主がはじめた店で、「珉珉のオヤジ」と言えば子供たちの間で、ちょっとした有名人でした。当時から餃子は有名だったけど、酢と胡椒で食べるより、私は普通に酢醤油で頂きたいかな。

良かったことといえば、堂々の一位が氷川さまだったことでしょうか。
さすが、街番組を低予算で撮らせたら右に出るもののないテレ東です。

個人的に言えば、お式もこちらでしたし、今年も初詣は拝殿へお参りに行きました。喜ばない理由がありません。

出戻りで、この街に戻ってきて早や17年。いつの間にか、今の住処が綱島時代より長くなりましたが、人間やっぱり生まれた場所が居心地良いように思えます。

ただ、スーパーや雑貨屋などの日用品を揃えてる店がないのよね。赤坂はそれなりに夜間人口もあるわけだから、今後の発展をセブン区議に期待したいと思っています!

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ムンク展で思い出した「自傷・他害・パニックは防げますか?」〜おーちゃん画伯のカバー絵

2019-01-22 13:51:00 | Weblog

「自傷・他害・パニックは防げますか?」(花風社刊)。

みなさま、もうご存知だと思いますが、このカバー絵を描いたのは、実は私ではありません。この本の著者の一人・廣木道心師範のご子息、おーちゃん画伯によるイラストです。もしかして私より上手かも(笑)♪

いや、上手いかどうかはというより、実に穏やかな良い絵ですよね。
廣木師範もそっくりで、親に対する愛情と信頼が線に出ています。

昨年の10月でしたか。
横浜大倉山で行われた花風社講演の後、花風社浅見社長からこのカバー絵について、ブログに書いてくださいと言われ、早や3か月、いや4ヶ月?(笑)

締め切りのない依頼にルーズなもので……いや、それもありますが、何かこの絵にピタリとしたものが書けなかったというのが本音でしょうか。

以前のおーちゃんは、いわゆる他害をする子だったようです。
廣木師範が、誰も傷つけない“引き分け”の武道「護道」を編み出したのは、まさにそこが原点だったわけです。

おーちゃんの他害時代の作品が記憶にないので、その時と比較することが出来ないのですが、少なくともこのカバー絵は、心の平安に満ちたものに違いありません。

なぜ、今になってこの記事を書こうかと思ったかというと、先日足を運んだ「ムンク展」を見て、それとは真逆のものを感じたからなのです。

絵を描くことによる治癒効果は、古くから言われてきたことです。
それはなぜ効果があるかというと、絵を描くことによって人の心に棲みつく怪物を吐き出せるからでしょう。

職業画家で、しかも生前も成功していたムンクの絵が、どの程度心の中の怪物を吐き出していたのか、今となってはわかりません。
かのサルバドール・ダリも、そんな心中の怪物を吐き出していた画家ですが、ある時期から心の中にいた連中を吐きつくしてしまい、 デザイン的に組み合わせた絵ばかりを発表するようになりました。ムンクは“うつ”があったからこそ、最後まで心の怪物たちは残っていたような気がします。

もっと言えば、絵を描くためにムンクは心の中に怪物を残しておいたのでしょう。ストイックなムンクは、画家は孤独でないといけないと一生独身でいたのも、心の中の怪物を完全に追い出したら、あのような絵が描けなくなってしまうからでしょう。

じゃあ、今のおーちゃん画伯の心にあるものって何だろうって考えた時、それはもっと天真爛漫な仏性なのではないかと思いました。
おーちゃん画伯に孤独は必要ありませんしね。

花風社読者ならご存知のように、おーちゃんは仏画を描くのが得意です。
不動明王や弥勒菩薩を描いた絵などは、なかなか味わいがありますよね。
でも、実は本当の意味で「仏画」になっているのは、上の 「自傷・他害・パニックは防げますか?」のカバー絵じゃないかと思うのです。

面白いことに不動明王を描いたおーちゃんの絵は、仏性というより、まだ心の中から離れていない怪物の一部に見えなくもありません(おーちゃん、廣木師範、ゴメンなさい!)

でも、あのカバー絵にあるものは、本当に穏やかな心を持っていないと描けない仏性に思えます。

障害に苦しんでいる方とその家族の方々に、どうか穏やかな心と日常が得られることを願います。いや、障害者だけじゃなく、どの人間でもそうかな。

▼こちらは江戸時代の名もなき絵師が描いた線画に色をつけたものですが、 仏性という意味であのカバー絵と共通したものを感じました。

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自由が丘で俎板とキッチンマット〜綱島時代の俎板菩薩を思い出しました

2019-01-21 15:12:10 | Weblog

比較的暖かく晴天の日曜日、家内と自由が丘に雑貨を求めに行きました。
自由が丘は浪人時代から予備校に通いはじめてから、40年余り(笑)。
大学院があった上野毛からも近く、その後、13年半住んだ綱島からも直通ということで、何度となく通ったところではありますが、雑貨屋はほとんどスルーだったため、新鮮でした。

断続的に40年も通い続けているのに、自由が丘デパートやひかり街はほとんど行ったことがなかったのに気づきました。いや、なかなかディープだわ!

お目当のキッチンマットや俎板をゲットしたあとは、昔、東横美術研究所と呼ばれた予備校のあったところに行ってみました。

おやおや、魚菜学院はまだ健在だな。
奥沢に近いところは住宅地で、正月に行った池上本門寺のあたりと様子が似ています。
新築は増えているものの、町の雰囲気は前のままでした。

かつて東横美術(東横線とは何の関係もありません) と呼ばれた建物は、居抜きで楽天スーパーイングリッシュという英会話学校になっていました。

でも周りの雰囲気はほぼ一緒。

今思えば、浪人生活は誰でも経験するようなことでしたが、経験のない若者にとっては初めて遭遇する人生の関門です。それなりに色々とあったよな(笑)。

その後、東横線沿線の綱島に行きがかり上住むようになり、結局13年半暮らしていたのですが、今思うと、浪人生活より綱島時代の方が大変だったなあ……なんて家内に話をしながら帰路につきました。

家について新しく購入した俎板を出してみたところ、先の展覧会で買い手がついた俎板菩薩のことを思い出しました。

こちらはかつて綱島時代に13年半使っていた俎板に、未来仏である弥勒菩薩さまを描いたもの。鍋を置いた焦げ跡を後背に見たて、菩薩を描こうと思ったものです。

これを購入してくれた大阪の方、家人の介護やらで色々ご苦労をされた方と聞きました。

まあ、私などは大した苦労をしたわけでありませんが、その中では大変だった方に入る綱島での生活。もしかしたら、クライアントになった方はそこに感じるものがあったのかもしれません。

私も今では、その時よりは充実した生活を送っていますから、その方にも素晴らしい人生がやってくると良いな。そんなことを思いました。

先の展覧会では、作品それぞれがお買い上げになった方を待ち続けていた。そんな印象を受けましたが、新しく購入した俎板2枚。

これにまた菩薩を描く日が来るのかどうか。
今は全く想像できませんが、どうでしょうね〜♪

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ムンク展、見て来ました!〜残念ですが本日までです。

2019-01-20 13:12:57 | Weblog

ムンク展、見てきました。

今まで繰り返し開催されてきたムンク展ですが、今回はあの「叫び」が来るということで、金曜日の午後1時で20分待ち。まあ想定内でしょうか。

ムンクという人は、優れたデザイナーでもあるというのは、前にも拙ブログの記事に書いたことがありました。

ムンクの「叫び」~凄さの秘密とは?

ムンクは誰が描いても「叫び」に見える構図を編み出したわけですが、やはり今回の展覧会を見て実感したのは、ムンクの絵はムンクでないと描けないなということです。

絵画というのは、心の中に澱んでいる文字通り「澱」(おり)を吐き出す意味があります。ムンクのように実際に精神を病んでいた人なら、それはなおさらです。

ムンクが病んでいたのは、今で言う「うつ」だったそうで、これは誰もなりうる病気ですね。だから現代人の間でもムンクの絵に共感する人は多いのかもしれません。

うつに関しては私は門外漢であるので、それについて何とも言えませんが、ごく短期間で描いただろう筆跡を見ると、調子の良い時に一気に描いたのではないかと思います。

私自身の考えだと、絵を描いて「心の澱」を出していたとすると、もっと時間をかけて出すのではないかと考えます。だから、うつがひどくなっていない、限られた時期に一気に描き上げていたのかもしれません。

その点、4点ある「叫び」は、どれも丹念に描かれているので、ムンク自身このテーマを繰り返し描くことで、自己治癒をしていたことも考えられます。

また、この画題は当時からたいへんな人気で、版画など、かなりの点数を求められていたこともあるでしょう。

興味深かったのは、いわゆる「自撮り」を最初にした人がムンク だったと言うことです。当時は高価だったコダックのカメラで、ムンクは自分自身の姿を撮影したのですが、これがなかなかの男前です。

ボナールもそうだったけど、あちらの画家には男前な人が多いですな。
自画像が多いと言うのも何やらうなずける話ですが、それ以外に自画像というのは、それを描くことによって自分の内面に向き合う意味があると思います。

私自身はイラストで自分の似顔絵を描くことはあっても、自画像によって自分自身に向き合うなど想像もしたことがありません。 絵によって、自分に向き合うと言うのは、なかなか大変な作業です。
一時期、ユングの部屋の時代は、自分の心の中を掘り下げる作業をしたことがあるのですが、 もう多分できないでしょう。

やったら死ぬ(笑)。

ムンクは私にとって、ダリとともに、自分が画家になるきっかけを作ってくれた尊敬すべき画家でしたが、歳とともに自分が変わってきたのでしょうか。
それとも、若い私が彼らの本当の絵を理解しなかったのでしょうか。

今回の展覧会では大いに感銘を受けたものの、受けるチャンネルが変わってきたように思えます。

▼こちらは展覧会の前に食べたヴェヌス・キッチンです

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藤家寛子の「沖縄記」「減薬記」は、実話のビルディングスロマン(教養小説)です

2019-01-17 09:39:58 | Weblog

ちゅん平こと藤家寛子さんの「沖縄記」「減薬記」、読了致しました。

いや〜、25歳のちゅん平を思い出すと隔世の感がありますね。
横浜時代、錯乱し続けていた時など、ある程度知っている話もありましたが、初めて聞くような新鮮な話も数多く盛り込まれていて、興味深かったです。

驚いたことは、つい4、5年ほど前の、すでに「治った」と思われていた藤家さんから、今がさらに進化し続けていることでしょうか。

4、5年ほど前、10年前の「治った」は、あくまで通過点に過ぎなかったと言うことを実感いたしました。

瑣末なことかもしれませんが、「沖縄記」で驚いたのが、藤家さんがサロンパス臭のするルートビアを飲み、豚の耳ミミガーを美味しく食したということです。

なぜって、3〜4年前のことでしょうか。
花風社主催のセミナーの後、いつもの新横浜の芳香園で食事をした時、イカの炒め物を「何だかわからないものだから食べない」と言っていたからです。

イカはイカんって?なんて、ウフッ♪

こちらイカではなく、芳香園でいつも人気の鶏のレモン炒めです。

「沖縄記」からは、ミミガーを美味しそうに食べてるちゅん平さんの姿が目に浮かぶよう。出来ないことを淡々と克服していく藤家さんには脱帽としか言いようがありません。

なに、ミミガーを食べたくらいで、そんなに騒ぐなって?
いやいや。雨が痛いと言ってた頃のちゅん平を知っていれば、そんなことは言えないはずですよ♪

「治った」藤家さんの姿を思い浮かべた時、私はこの「沖縄記」「減薬記」の2冊は、いわゆるリアルなビルディングスロマンではないかと感じました。

「ビルディングスロマン」は「教養小説」とも呼ばれるドイツ発祥の小説形式です。
まだ成熟していない若者が、様々な経験と紆余曲折を積んで一人の人間として形成されていく……それがビルディングスロマンですね。

代表的なものとしては、トーマス・マンの「魔の山」がそれに当たり、 藤家さんは、さながら主人公のハンス・カストルプに当るでしょうか。

事実は小説よりも奇なりなどと言いますが、藤家さんが「治った」ことは奇跡でも何でもなく、日々淡々と精進を積んでいったことの結果ですね。
だから、彼女が特別というわけでなく(いや、いろいろな意味で特別な部分はありますが)誰でも彼女と同じ「治る」道を歩むことができるということでしょう。

人間に完成はありませんので、これから藤家寛子がどんな道を歩んで行くのか、次の書籍が楽しみなところです。

「減薬記」まで語れなかったな。ちゅうか、沖縄記も語りつくしてませんので、それは次回ということで(笑)。

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横綱稀勢の里、本当にお疲れ様でした

2019-01-16 16:29:38 | Weblog

横綱稀勢の里、引退。
二日目の逸ノ城との取り組みを見て、そんな予感はしていました。

残念ですが、本人の決断ですから人がとやかく言うことではありません。
でも、これほど見ていて、星取りに一喜一憂させてくれる力士はいなかったな。これからも、もう出ないかもしれません。

これで相撲をドキドキハラハラして見ることは、もうないだろうなと思うと、残念な一方でほっとした気持ちもあることは確かです。

横綱稀勢の里関、今まで本当にお疲れさまでした。

最後の雄叫び、稀勢の里おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

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「ボヘミアン・ラプソディ」見ました!〜フレディはインド人+ クイーンと「踊るマハラジャ」は親戚同士だった?

2019-01-14 12:45:47 | Weblog

ようやく「ボヘミアン・ラプソディ」を鑑賞!
噂通りの感動的な作品でした。

でも、何より驚いたのはフレディ・マーキュリーがインド人だったことです。

それもインド系イギリス人とか言うのではなく、ペルシャにルーツを持つゾロアスター教系の両親を持つ、純系のインド人だったことです。いわゆるパールスィー教徒で、日本ではあのタータ財閥が知られています。

フレディの本名はファールク・バルサラ。
インドのムンバイ出身で(生まれたのはイギリスのザンジバル)、幼少期の大半はインドで育ったようです。
いや〜、以前からボヘミアン・ラプソディのコーラスは、西洋音楽というよりトルコやブルガリアンボイスに近いなとは思ってましたが、完全に遺伝子がインド人だとは驚きでした。

なんか、直線で「ボヘミアン・ラプソディ」を見ないで、その前に「踊るマハラジャ」や「バーフバリ」「パッドマン」などのインド映画ばかり見たと言うのは、何となく予感が働いたのかもしれません(笑)。

マイケル・ジャクソンがインド映画の影響を受けたことは有名ですが、フレディ・マーキュリーの音楽は影響も何も、遺伝子がそちらだったのですから、驚きとともに納得でした。

日本びいきだったと言うのも、インドは親日国でもあるので、ごく自然なこと。
映画にはクイーンが日本で成功したことは描かれていませんでしたが。

クイーンが活躍しはじめたのは、私が中学から高校くらいの時で、その時は何だこれは?という人と、熱狂的なファンに分れたものですが、さもありなんかな。

映画を見終わったあと、YouTubeでクイーンのプロモーションビデオを見ると、これが何とまるっきりインド映画はボリウッドの振り付けで、これまたびっくり。

癒しの音楽とか、そんなのではなくグイグイ来るノリもそれを感じさせました。

映画でフレディ役を演じていたのはエジプト系のラミ・マレック。
ちょっとフレディとは違うかなと思いましたが、なかなかの熱演。

でもクイーンの他の3人役はどれもそっくりで、特にロジャー・テイラー役の役者は性格まで似ていた感じでした。

いずれにせよ、一見の価値あり。個人的にはクイーンのルーツが大好きなインドと繋がっていたのが嬉しかったです♪

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ゲーテの「ファウスト」と手塚治虫の「ネオ・ファウスト」〜悲劇の第一部を読了しました!

2019-01-11 11:08:52 | Weblog

読んだことのある本だったので、読む順番が逆になってしまいましたが、ゲーテの「ファウスト」悲劇の第一部を読了しました。

ゲーテの「ファウスト」はお金の話だった!?〜悲劇の第二部を読了しました

昨年末に第二部を読んだというブログを書いてから、しばらく経ちましたが、第一部も面白く一気に読了しました。
ゲーテの「ファウスト」お金の話だった云々というのは、先の記事で書きましたから、そちらを読んでいただくとしましょう。
第一部を読んで思ったのは、その後の芸術家たちに如何に大きな影響を与えたかを実感しました。

文学の世界は言うに及ばず、音楽の世界でも、文字通りグノーの「ファウスト」やリストの「ファウスト交響曲」などはもちろん、ベルリオーズの「幻想交響曲」の5楽章“ワルプルギスの夜の夢“などは、この第一部のイメージを踏襲したものでしょう。

中でも驚いたのが、手塚治虫が思った以上にゲーテの「ファウスト」の影響を受けていたことです。

さて先の記事のコピペになりますが、ファウストをご存知ない方のために、超ダイジェストで申し上げると………

この世のすべての知識を得ながら、真理を知ることができなかった老博士ファウストが、悪魔メフィストフェレスに魂を売る契約を交わし、もう一度若さを取り戻す。

若返ったファウストは、この世のあらゆる快楽と悲哀を体験して、素朴な町娘グレートヒェンとの恋に落ち、エトセトラ、etc。
最後に死して魂をメフィストに奪われる直前、かつての恋人グレートヒェンが天上での祈りを捧げ、ファウストの魂は昇天する。

15世紀頃のドイツに実在したと言われる、錬金術師ドクトル・ ファウストス博士をモデルにゲーテが書き上げた長大な戯曲と言われてる。

第一部は若さを得たファウストが、グレートヒェンと恋に落ち、子を宿しながら、彼女の母と兄を殺してしまうという、壮絶かつわかりやすい話ですが、第二部はそうではありません。(余談ながら、グレートヒェンの名は、プリズンブレイク3、4で、凄腕の女殺し屋の名前に使われてます)。

第二部は眠りから覚めたファウストが再びメフィストを従えて、ギリシャ神話からゲルマン神話の世界など、あらゆる西洋伝説にワープしていきます。
ファウストの弟子だったヴァーグナーが作った、人造人間ホムンクルスも、この中の重要なキャラクターですが、とにかく登場人物が多くて多彩です。

第一部は思ったより壮絶な話でしたが、戯曲形式で書かれていることもあって、多少は薄まっている感じがしました。一方で、手塚の「ネオ・ファウスト」はそこをビジュアルで表現しているため、かなり生々しく感じさせます。

手塚治虫の「ネオ・ファウスト」は完成を待たず未完となった作品ですが、驚いたことに絶筆となった最後の部分が、ゲーテの「ファウスト第一部」と同じ終わり方をしているのです。

それは、ファウストが魔女の祭典「ワルプルギスの夜」から帰ってくると、赤子殺しの罪で逮捕されたグレートヒェンとの別れが待っている……そんなラストです。

ゲーテ「ファウスト第一部」の最後は、生まれ変わったファウストの名前「ハインリヒ! ハインリヒ!」と、グレートヒェンが叫ぶ言葉で終わります。
一方、手塚治虫「ネオ・ファウスト」の最後の言葉も、同じ場面設定です。

「坂根さあん……坂根さあん}と、まり子(グレートヒェン役)が、生まれ変わった一ノ関教授(ファウスト役)の名前を連呼する場面で終わります。

ああ、これが天才・手塚の絶筆か!

手塚治虫はゲーテに比肩する天才だったと思いますが、死を前に本人も意識しなかった最後の言葉に何やら涙するものを感じました。
いや、手塚治虫先生。
まだまだ描きたかったろうなあ………。

やはり歴史に残ったものは一度は読む価値がある。次回は長いこと読みかけだったセルバンテスの「ドン・キホーテ」でも読んでみようかな。

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二子玉川で絵画教室の無料イベントを致します!

2019-01-09 09:42:02 | Weblog

業務連絡です。

3月8日と少し先になりますが、二子玉川ライズにて、ボイストレーニングの白壁先生との二本立てダブル講演の後半を受け持ちます。
中目黒ONE DAYイベントでお世話になった、S-VOYAGE廣瀬社長主催のイベントです。

世界で活躍中の画家とはちょっと何ですが、実際に海外で制作したのはウソじゃないので、ま……いっか(笑)

参加費は無料なので、ご興味ある方は上記・玉川法人会までその旨をご連絡いただければ幸いです。

ともかく楽しい会にしたいと思ってます。
参加される方は、鉛筆、色鉛筆、クレヨン、マーカー、水彩絵の具など、画材はなんでも良いのでご持参くださいませ。

それでは奮ってのご参加をお待ちしております。

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「もっきり屋の少女」のオマージュ作品をお見せ致します。

2019-01-07 17:43:25 | Weblog

昨年の展覧会より早や2か月余り。
いちばん目立たなかったと思われる作品を公開いたしましょう。

こちら、つげ義春先生の「もっきり屋の少女」のオマージュ作品であります。

つげ義春先生といえば、あの「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などの作品で知られるマンガ家ですが、この「もっきり屋の少女」も味のある作品でした。
短篇作品で、スジはあってないようなもので、「もっきり屋」という田舎の居酒屋で働く、コバヤシチヨジという少女の話なのですが、概要はこちらをお読みください。

こちらはスジがどうこうというより、会津弁をベースにした言葉が面白く、美少女コバヤシチヨジが「にしらはろくな銭もねいくせに、海や山だとけつかる。ほんとうにたまげたもんだ」などという、ちょっと口にしたくなるセリフが満載されています。

なんで、今更このマンガのオマージュを描いたのかというと、この絵のモトは私が浪人時代に描いた作品がモトだったからですね。

今は潰れてしまった「東横美術」という美大専門の予備校が自由が丘にあり、私はそちらに通っておりました。
一浪目だったでしょうか(二浪しましたので)、「風景と静物をミックスしなさい」という課題が出されたのです。

静物のモチーフは予備校にセットされてましたが、風景は自分で自由に描いていいという課題でした。静物は確かキジの剝製が置いてあった記憶があります。

私はキジの剥製のバックに、つげ先生の「もっきり屋」の茅葺を選んで描いたのですが、これが講評会で大爆笑。もちろん、美術の勉強を始めたばかりの下手くそな絵だったのですが、失笑というより嘲笑に近い笑い声だったのを覚えています。

提灯に書かれた「もっきり」という文字がよほど可笑しかったのでしょうね。

今なら、ダジャレに誰も笑ってくれないのですから、嘲笑でも失笑でも嬉しく感じるかもしれませんが、当時はまだ18歳の少年ですから、いや〜恥ずかしかったのなんの!当時、つげ先生のマンガに心酔していたので、もちろん大真面目に描いたのですが、まあ若かったのですね。

某高等学校の校長室に飾られた拙画です。

今では、この絵は失われてしまいましたが、下手ながらインパクトがあったようです。

先日、「もっきり屋」の話が大学時代の同級生・虹色社の山口さんの口から出て……彼は予備校が違うので、その現場にはいなかったのですが、当時の私の実家で実物を見たのでしょう。

「あの絵はひどく下手だったけど、見てびっくりした」

というので、40年もした後で描いてみることにしました。
結果、展覧会でいちばん目立たない絵になってしまい、多分その時のインパクトには遠く及ばない作品になってしまいました。

このテーマでまた描いてみるか、別のモチーフにするか。
どちらにしても、その失われた「もっきり屋」は私の原点だったかもしれません。

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