つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

「無」の解釈

2024-06-19 | Weblog
日本人、無宗教でありながら、神社仏閣に参り、降誕祭を祝う。その心積りは如何に?無知にあれば、何もかも過つ。
誤って過ごした人生、時の流れに悔いを残して、幾度となくこの世とあの世を行き来する。輪廻はただ苦のみである。この苦しみから逃れるには、無知をなくすことである。「私は何も知らない」とする人生に終止符を打つには、道徳を学ぶことにある。人生という道の理は、道理に学んでこそ徳となる。道理は秩序正しくある事。その秩序とは善いとすることにある。人としてのあるべき行為を踏み外さずに生きる事、ただそれだけである。
本来善悪は、道理上無い。善悪を考えるのは。人のそれぞれの思いである。
だから、それぞれに違う意見を持つ。得てして、人は、自分が正しいとして生きている。そのために、自分と意見が違うと悪としてしまう。
道理には善悪は無い、無いために絶対善となっている。これは特に善いこともないが悪いこともない。悪いことが無ければ、それは善いことではないか、とする自由であるために、道理は絶対善の法則となって動いているのである。この法則の下の存在で私達は生じている。そのために、善い事を為して生きることが道理に適い、良く守られていく。だから、道徳は大事である。この上ない教育である。もし間違いを犯したら、悔い改め正していけばよい。正していけば必然改まり、報われていく。それが道理である。道理は絶対である。
そして、その道理に気づけば、魂は死なない事に気づける。
死は人の経験とならないために、知識とならず、知識とならない事は分からないために恐怖となる。だが、魂である生命エネルギーに死が無いと分かれば、
恐怖など抱かない。怖いことがなくなる。
人の恐怖は、すべてが死から来る。だから、エネルギーの法則に死が無いことを知れば、地獄が作られることはない。
エネルギーの法則は連綿であるために、無くなることの無い法則となっているのである。「無」は「無くならない」とする意味」の「無」である。
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馬鹿か否かが分かる時

2024-06-19 | Weblog
7月7日は民意が試される選挙、この結果は、全国民の意識の統計となる。
現時点の日本民族の集団意識の特性が分かる。日本国、戦後どれだけ洗脳教育に侵され続けているかが分かってくる。
人は右、車は左の交通規則、この「規則」を「ルール」とカタカナに変えて浸透、素晴らしく繊細にある日本語が、外来語としての大雑把な意味合いの造語として語られてきた。平仮名表記とせず、片仮名表記がもてはやされた。言葉の上でも洗脳されていった。「片」=不完全の意、と辞書にある。
日本人は敗戦後、外来語を話すことで優秀とされ憧れた。そのため、少し学歴があれば外来語の単語を用い、すかさず優秀さを主張した。だから、ほとんどの人は、何を語っているのか分からなかった。分かったふりだけをしていた。
ここにまた、見栄だけがあった。見栄張りは今でこそ、すっかり慣れて、誇らしげに外来語の単語を多く用いって語るが、ここは日本国、素晴らしい日本語があるにもかかわらず、わざわざ外来単語を入れて語るのは、知らずしらずの敗戦国の哀しさ、戦勝者(上)に従う洗脳の果。有識者に多く見る。
本物の日本人、大和心、魂を気高く持ち気品を残す。分かりやすく日本語で語る。それでこそ本当の識者である。
菩薩は言う。衆生済度、難解であっては意に非ず。やさしくあってこそ衆生救済となる。
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