唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (70)

2017-05-10 20:45:27 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今日は、第四番目の執受証について考えてみたいと思います。概略です。
 執受については、阿頼耶識の所縁のところで学んでいます。第三頌に「不可知執受」と。『論』は「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相・名・分別との習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。此の二は皆是れ識に執受せられ、摂して自体と為して安危を同ずるが故に。執受と及び諸とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は因と遠との力の故に、自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。・・・」と説いていました。
 本科段においては、「有色根身は是れ有執受なり」と説いていることを論証してくるのです。
 答えが「若し此の識(第八識)無くば、彼の能執受は有るべからざるが故に」と。
 能執受は、身体が有って、その身体に感覚が起こることを云っています。苦楽の感受作用を生じるものを執受、つまり有根身です。
 有色根身 ―― 有執受ですから、有執受に感覚等を起させるのが能執受となります。
 では、能執受となり得るものは何かと云いますと、四つの条件が出されています。
 (1) 先業に引かれ、しかも任運に起り、
 (2) 善・染等ではなく、
 (3) 一類に遍し、異熟心のみである。
 (4) よく遍し相続して有色の根身を執受する、
ものでなければならない。転識は現縁をもって起こるので、このような作用は無い。このような条件を具えているのは、阿頼耶識であるという論証です。「所変を以て自の所縁と為す」ということの裏付けとして、阿頼耶識を認めなければ有色根を有執受とはいえないということになります。
 身を支えているのは、眼・耳・鼻・舌・身・意という転識ではないということです。一類に相続して、自の内の有色の根身(有根身)を執受しているのは第八阿頼耶識であるのです。
 阿頼耶識がこの身を支え苦楽等の感情を生み出してくるのですね。
 私たちが苦しんだり、悩んだり、時には喜んだりする喜怒哀楽は阿頼耶識に依っている、その阿頼耶識に視線が注がれたとき、マナーと云う自我意識の存在が露になるのでしょう。「悩みの正体みたり」ですね。それが今日の法語の意味であると思います。
 真宗で云えば、お念仏に触れたんですね。お念仏に触れて、お念仏申す身に育てられて、すべては自分の描いた影で有り、その影を見て分別意識を起し、過って影を実体としているのでしょうね。すべてはご縁なのですが、ご縁に善悪はないのです。「さるべき業縁」を分別している自分が居るだけですね。「いかなるふるまいもすべし」ここが居場所なのではないですか。居場所から逃げると、どこまでもどこまでも追っかけてきます。道理ですね。南無




 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (69)

2017-05-09 21:48:34 | 阿頼耶識の存在論証
    「現実世界の中で生きる方向を見失い、人とのつながりを見失って絶望しえいたとき、浄土という世界に触れ、‟浄土の力で人間を回復”していった心の軌跡を探る。この浄土の世界が、‟現実の世界を真実として輝かせている”ことをこの身が少しずつ感覚しはじめていると気付かされる。」(帯び附より)
 今日は第三の理証である「趣生体証(シュショウタショウ)」について説明します。文字からは想像もつきませんが、輪廻の主体は阿頼耶識であることを明らかにしているのです。
 先に、界・趣・生を引くということを学びました。第一教証の下二句と関係してきます。
「此の識は無始の時より来た一類に相続して常に間断なく是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。」とですね。性質は堅持にして種子を失うことが無い、これが輪廻の主体であるということなのですね。
 生死流転という命題は、覚りを開くことがなかったなら、有情は生死流転する存在である、つまり五趣四生に流転するといわれるのですが、このとき、流転させる主体は何かという問題が出てきます。この主体が阿頼耶識であるというわけです。私たちは、過去からの遺伝子情報をもっていると云われていますが、この遺伝子情報が、阿頼耶識の中に保持された種子なのではないでしょうか。
 ですから、遺伝子情報は過去から現在へ、現在から未来へと相続されていくのもなのでしょう。ここには新熏種子の熏習があるのですから、断にも非ず、常にも非ずなのですね。
 『論』の説明は、
 「有情は五趣四生に流転すと云う。若しこの(第八識)識無くば彼の趣・生の体有るべからざるが故に。」
 理由として、
 「要ず実有なり・恒なり・遍ぜり雑無し」と云われています。
 (1) 主体となるのは、必ず実有でなければならない。縁に依らず存在するものであり、
 (2) 恒に相続し間断の無いものでなければならない。
 (3) 三界の周遍し、
 (4) 雑生の法で無いことに由るのである。
 この結果、この条件にマッチするのが第八識である、ということですね。
 扇の要のような存在が第八識である。扇の部分部分は依他起ですが、要は実有です。恒相続し、三界の周遍し、雑生の法ではないということを以て論証しています。
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (68)

2017-05-07 16:20:37 | 阿頼耶識の存在論証
  
 十理証、二番目の異熟証についてです。
 異熟は阿頼耶識の三相の果相、真異熟で、過去を背負った今(過去を背負っている自己)が成り立つのは第八識があるからであるということが理証になります。
 「契経に説かく。異熟の心有って、善悪業を以て感ずと云う。若し此の識(第八識)無くば彼の異熟心有るべからざるが故に。」(『論』第三・二十七右)
 異熟心は善悪業によって感ぜられたものですね、善悪業果位と表されますが、果は無記です。この感ぜられるのは、第八識が有るからであって、若し第八識が無かったならば異熟は成り立たないと証しているのです。
 一類相続不断を心と表していますが、「業果であり、不断であり、三界に遍している」これが異熟だと云っています。阿頼耶識のことです。
 過去を背負える自己はどこで成り立つのか?意識なのか?という問題に答えているのです。
 第一理証の持種証と関係しますが、種子を保持し、種子が現行を生みだしていく時に、いつでも過去を背負った自己を引き受けている、例外なくですね。
 自分は自分の歴史性を引き受けて存在しているのですが、引き受けられないエゴ性(マナス)が覆ってしまうのですね。ここに煩悩が発生するのですが、煩悩が発生するのは偏にマナスに由るわけです。マナスは内在であり、外在するものではありません。ここははっきりしておかなくてはならないと思います。そうでないと、学びが他者を裁く道具に成ります。親鸞聖人は、聞不具足として厳しく教えてくださっていますね。
 いえばですね、仏法という内観の道を学びながら、学びの姿勢が外道に転落していることを指摘されているんだと思います。
 善悪異熟果は、自らが因の業をつくって、自らがつくった業の果を受けるのですが、それがどうして成り立つのかという問題なのです。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (67)

2017-05-06 18:31:13 | 阿頼耶識の存在論証
  
 十理の概略を述べてみます。
 『選注』本ではp55~77迄です。
 阿頼耶識といいますと、唯識の専門用語か、唯識独自の言葉のように思われるのですが、五教証の中でも論証されましたように、増壱阿含の中で仏陀は阿頼耶という言葉をお使いになっているのですね。『成唯識論』でも阿頼耶と云う言葉は大・小共許であると述べています。
 「初の能変の識をば大・小乗教に阿頼耶と名く。」(『選注』p30)と。
 阿頼耶は人間の深さを語っている名であり、阿頼耶を名言として示されたのは、迷いを縁として覚りを表されているのではないのかなと思います。
 第一番目の持種証(ジシュウショウ)
 種子を保持しているという問題です。生死流転を繰返しながら、私の所まで種子が伝わってきたのでしょう、有漏の種子ですが、この有漏の種子の所にかけられた願いが如来の本願でしょう。如来の本願は無漏ですが、無漏の本願が名号として、無漏の名言種子として阿頼耶識の中に保持されているということではないでしょうか。
 「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所なり。」(『論』第三・二十四右)種子を持する心である。
 そして、
 「此の識は一類なるを以て恒に間断無し。」(『論』第三・二十四左)
 間断のあるものは愛着処にはならないということを表しています。
 ・ 一類相続して熏習を成り立たせている場所であり、
 ・ 有漏・無漏一切の種子が蓄えられ(蔵され)現行を生じることが出来る場所である。
 第八識と云うと、識体ですが、阿頼耶識と云った場合は「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所」で、第八識が動くわけでしょう。大雑把で極論ですが、第八識を如来としますと、阿頼耶識は菩薩ではないのかな、と思ったりします。そして、阿頼耶識はお一人お一人の個性でしょうね。
 この個性がご縁として、第八識に触れていくのでしょう。触れることにおいて、まぁ言えばですね、個性が輝くのではないでしょうか。一人一人大事ないのちを授かっているのですね。第八識を「心」(citta )と表し、現行の動きから阿頼耶識(aalaya-vijJaana)と表現されたのでしょう。
 先ず概略を見ていきたいと思っています。明日は第二理証の概略について述べたいと思います。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (66)

2017-05-06 12:31:49 | 阿頼耶識の存在論証

 「鉄より生じる錆により、鉄が朽ちると同様に、おのれがつくった悪業がなんじを悪道にみちびく。みずから悪をなすから、みずから苦を受けねばならない、みずから悪をなさなければ、みずから清くなるのである。我が身をけがすのも清めるのも、己の随意である。他人を清くすることは、いかなる人にも出来はしない。」(「錆は鉄よりいで鉄を腐らすが如し。己の善業に於て自ら浄まり、己の悪業に於て自ら汚れる、浄・不浄は自己にあり、他に於て浄めらるることことなし。」)
 『法句経』第87篇にでてきますお言葉ですが、すべては自己が作り出した影像であることを厳しく述べられています。
 
 「おそらく弟子の一人がお釈迦さまのところに救いを求めていったのでしょう。その時にお釈迦さまは「他に於て浄めらるることことなし。浄・不浄は自己にあり」きれいな人生を生きるか、汚れた人生を生きるか、それはおまえ自身にある。お前を浄めてやりたい、助けてやりたいと思ってもどうしようもない。「他に於て浄めらるることなし」お前自身がお前を浄めていく以外浄められる道はない。
 錆は鉄から出てくるんです。別に外から何かがくっつくのではありません。もちろん塩や水などが影響を与えますが、外から来てくっつくわけではありません。鉄が自分自身の中から腐って、錆びていくわけです。自分の中から出てくるわけです。自分が自分自身を腐らしていく、これが錆びる、それと同じで浄・不浄というのは自分に責任がある。自分で浄めていったり汚していったりする。
 厳しい教えです。厳しい教えですけれど、お釈迦さまの教えの基本にそういうことがある。」(太田久紀師)

 他にも、少し紹介しますと、
 「死を悲しまぬ者もなく、生を愛さない人もない、自分も他人とも同じ身と知れば、みだりにものを殺してはいけない。」
 「荒々しい言葉を口にしてはいけない、他人はまた荒くそれにこたえるだろう、苦痛に満ちた憤怒の言葉を返えされて身に受けるだろう。」等

 「有情執して自の内我と為す。乃し未だ断ぜざるに至るまで恒に愛着を生ずるが故に、阿頼耶識是れ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十三右)
 有情の執着する心が、無我を生かされている身を、末那識が本来の自己である阿頼耶識を対象として阿頼耶識を縛って内的な自己として、自分だと、自分が生きているんだと思い込んでいるわけです。
 「阿頼耶識は無始の時より来た一類に相続して常一に似るが故に有情は彼を執して自の内我と為す」と。このことが迷いの根柢に潜んでいるわけですね。
 ここを受けて他の心・心所は真の愛着処ではないことが明らかにされました。
 「是に由って彼しこに阿頼耶という名を説けり。定めて唯此の阿頼耶識おということを顕す。」(『論』第三・二十四右)
 次科段より正理が顕されます、
 「已に聖教をば引きつ、まさに正理を顕すべし。」(『論』第三・二十四右) (すでに聖教を引用し終った。次には正しい道理を顕すのである。)
 ここで十の道理が示されます。
 (1)   持種証(ジシュウショウ)
 (2)  異熟証(イジュクショウ)
 (3)  衆生証(シュジョウショウ)
 (4)  執受証(シュウジュショウ)
 (5)  壽煗識証(ジュナンシキショウ)
 (6)  生死証(ショウジショウ)
 (7)  識名色互為縁証(シキミョウシキゴイエンショウ)
 (8)  四食証(シジキショウ)
 (9)  滅定証(メツジョウショウ)
 (10) 染定証(ゼンジョウショウ)
 また後で、簡単に概略を述べたいと思います。

 
 
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (65)

2017-05-04 22:32:04 | 阿頼耶識の存在論証
 
 以上述べてきましたが、各論においては愛着処にはならないということなのです。ですから、
 「是れに由って彼しこに阿頼耶という名を説けり。定めて唯此の阿頼耶識ぞということを顕す。」(『論』第三・二十四右)
ここで一応教証が終わります。全体像としての第八阿頼耶識が説きおわったということになります。次は十理証です。道理をもって阿頼耶識の存在を論証してきます。
 復習になりますが、所能変、第八識はどのような構造を持っているのかをもう一度が概略をしますと、、初能変は八段十義でという分け方で説明してきました。
 能変は能動体です。これに対して所変は受動体になります。
 能動的に変えていく心が「能変として表され、心によって変えられたものが所変の相です。所変の相を一切諸法と表されます。一切諸法は能変の識によって変えられたものなのです。これを影像といいます。 私たちは影像を見て、外界に存在するものと認識をしているのですね、これが妄想です。
 有漏の種子が外界に触れた時に、外界そのものが実在すると妄想を起すのですね。そして心が触発されて感情が生れます。感情は言葉を通して表現されますから、種子は名言種子なのですね。つまり、言葉を持つのは分別の証しでもあるわけです。何故分別かといいますと、言葉で認識されたものは、言葉の影像ですから、ものそのものの全体を見ているわけではないのです。見ている、認識しているのは、心に写った部分しか見ていないのですね。自分の心に写ったものを外に実体として存在すると錯覚をしているのが実像なのです。所変の相は能変を離れては無いということになります。
 ある一つのものを見ても、百人が百人ながら見ているところは違います。人人唯識です。もし外界に実法として存在するのであれば、すべての認識は同一でなければなりません。心によって変えられるものが所変の相なのですね。
 では、変えるものは何かという問題が残ります。それが能変の識体です。能動的に自分の心に写った対象を変えていくことになります。それが三層構造になっているのです。三層構造の根本が阿頼耶識であると教証をもって論証されてきたのです。
 この阿頼耶識がまた、三つの相をもっていると説かれています。自相・果相・因相ですが、自相は能蔵・所蔵・執蔵の三つの意義をもっていると明らかにされました。蔵ですから貯蔵庫ですね。過去からの経験を溜めこんでいく倉庫になります。全ての行動は、未業であれ、已業であれ、選択はしません。この全体が今の私の人格を形成しているのです。そして今の私が明日の私を作り出していくことになります。取捨選択をしないというのが阿頼耶識の特徴ですね。分別が無いと云うことなのです。それを無覆無記と表しました。分別が働かないということは、意識の上でも分別は働かないということなのです。しかし現実には意識は分別をしています。何故なのでしょう。ここに第二能変の問題が出てきます。阿頼耶識を色づけする動きが有るということなのですね。
 私たちは不安なのだと思います。何かにしがみついていないと安心が出来ない。たとえ藁であってもですね。そして孤独に耐えられない、徒党を組むか。仲間意識で他を排除するかという愚かな行動に出るのですね。それは真実が見えないからです。徒党を組んでも、仲間意識でも孤独なんですね。何故かと云いますと自分中心の世界で動いているからです。それが末那識の問題になります。これが種子として循環していきます。そして彷徨(さまよう)するのです。
 しかし、これがご縁になるのですね。他によって苦しめられているとばかり思っていたけれども、そうではないかったんだと。苦の因は自分が溜め込んでいた種子にあったんだと。
 集諦が因として苦諦が現われる、種子生現行ですね。現行の苦諦が新たな集諦としての種子を阿頼耶識に熏習する(現行熏種子)ことになります。現行の果が因として種子を果として熏習することになるのですね。
 集諦の因である種子が転じた時に滅諦の果が現われてくるのですね。キーワードは「転」ですね。これが生活なのでしょう。生活=道諦です。こんなことが初能変で教えられたことではないのかなと思います。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (64)

2017-05-03 09:20:07 | 阿頼耶識の存在論証
  
 五取蘊については、分別起の我執の項(選注p6~8)には、「是の故に我執は皆な無常の五取蘊の相を縁じて妄執して我と為す。・・・此れに由るが故に知ぬ、定めて実我は無くして但だ諸識のみ有って無始の時より来た前滅後生しつつ因果相続して妄熏習に由って我相に似て現ず。愚者中に於て妄執して我と為すと云うことを。」
 このように説かれていました。
 「是の故に我執は」何を対象として執するのかと云いますと、有為法ですね、有為転変する相を常一主宰の無為法として執して四苦八苦を生じてくるのです。ここで、苦しみの因は我執であることが明らかにされます。
 「無常の五取蘊」という、本来は、無我であり、無常であるわけですね。ご縁に依って様々な出来事が生起してきます。
 蘊は煩悩より生じて、また煩悩を生み出してくるのですが、煩悩が取ですね。自分を対象として執着を起してくる。五蘊を対象として第六識がそこに我執を起してくると云われています。これが五取蘊です。これは非常に表面的な煩悩なのですね。いうなれば、煩悩を生み出してくる根拠はどこからか、それを求めた時に、第八識だと、而もこの第八識は恒審思量である第七末那識によって我と執着されていることを見出してきたのですね。
 ねてもさめても絶えず働き続けている我執と共に私は生活をしている。ここが煩悩を生み出してくる根拠だと。ここを聞くわけでしょう。
    
  「弥陀大悲の誓願を
    ふかく信ぜんひとはみな
    ねてもさめてもへだてなく
    南無阿弥陀仏をとなうべし」(『正像末和讃』)

 第六意識は有間断ですから「へだてなく」は成り立たないわけですが、常相続として自分を立てているエゴイズムにおいて「へだてなく」は成り立ちます。そうしますと、如来の大悲は常相続の我執に対して「貴方が救われなかったら、私も救われることは無い」という菩薩の願行として、私の流転と共に働いているといえるのではないでしょうか。
 生まれてから煩悩が起こったんではない、煩悩から生まれてきたんだと、そして煩悩を生み出し、煩悩と共に生活をしている。その根拠が第八阿頼耶識であるということなんでしょう。五蘊の一つ一つが存在の根拠ではないということを明らかにしている、このように思います。
 このように見ていきますと、我執は自分の思いを通したい、思いのままにしたという思いですね。この思いが転ずるのは何処か。そこが真の愛着処になるのでしょう。ですから、一向苦受処や五欲、楽受、身見、転識、色身、不相応行は愛着処ではないと論破し、真の愛着処は第八阿頼耶識であると論証しているのです。
 「異生と有学との我愛を起こす時には、余蘊の於には愛し愛さざること有りと雖も、而も此の識の於には我愛を定めて生ず。故に唯此れのみ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十四右) 異生と有学が起こす我執ですが、これは分別起の我執です。この我執を五蘊の上に起こしてくるのです。しかし五蘊の上に起こす我愛は有る時は有り、有る時には無しと。起こる場合と起こらない場合があるわけですが、第八識の上には常相続して我愛は働いているのですね。意識の水面下でピッタリマークです。ここが真の愛着される場所になるのですね。愛着してくるのが第七末那識なのですね。