今日は、第四番目の執受証について考えてみたいと思います。概略です。
執受については、阿頼耶識の所縁のところで学んでいます。第三頌に「不可知執受」と。『論』は「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。諸の種子とは、謂く諸の相・名・分別との習気なり。有根身とは、謂く諸の色根と及び根依処となり。此の二は皆是れ識に執受せられ、摂して自体と為して安危を同ずるが故に。執受と及び諸とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は因と遠との力の故に、自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。・・・」と説いていました。
本科段においては、「有色根身は是れ有執受なり」と説いていることを論証してくるのです。
答えが「若し此の識(第八識)無くば、彼の能執受は有るべからざるが故に」と。
能執受は、身体が有って、その身体に感覚が起こることを云っています。苦楽の感受作用を生じるものを執受、つまり有根身です。
有色根身 ―― 有執受ですから、有執受に感覚等を起させるのが能執受となります。
では、能執受となり得るものは何かと云いますと、四つの条件が出されています。
(1) 先業に引かれ、しかも任運に起り、
(2) 善・染等ではなく、
(3) 一類に遍し、異熟心のみである。
(4) よく遍し相続して有色の根身を執受する、
ものでなければならない。転識は現縁をもって起こるので、このような作用は無い。このような条件を具えているのは、阿頼耶識であるという論証です。「所変を以て自の所縁と為す」ということの裏付けとして、阿頼耶識を認めなければ有色根を有執受とはいえないということになります。
身を支えているのは、眼・耳・鼻・舌・身・意という転識ではないということです。一類に相続して、自の内の有色の根身(有根身)を執受しているのは第八阿頼耶識であるのです。
阿頼耶識がこの身を支え苦楽等の感情を生み出してくるのですね。
私たちが苦しんだり、悩んだり、時には喜んだりする喜怒哀楽は阿頼耶識に依っている、その阿頼耶識に視線が注がれたとき、マナーと云う自我意識の存在が露になるのでしょう。「悩みの正体みたり」ですね。それが今日の法語の意味であると思います。
真宗で云えば、お念仏に触れたんですね。お念仏に触れて、お念仏申す身に育てられて、すべては自分の描いた影で有り、その影を見て分別意識を起し、過って影を実体としているのでしょうね。すべてはご縁なのですが、ご縁に善悪はないのです。「さるべき業縁」を分別している自分が居るだけですね。「いかなるふるまいもすべし」ここが居場所なのではないですか。居場所から逃げると、どこまでもどこまでも追っかけてきます。道理ですね。南無
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます