十理証、二番目の異熟証についてです。
異熟は阿頼耶識の三相の果相、真異熟で、過去を背負った今(過去を背負っている自己)が成り立つのは第八識があるからであるということが理証になります。
「契経に説かく。異熟の心有って、善悪業を以て感ずと云う。若し此の識(第八識)無くば彼の異熟心有るべからざるが故に。」(『論』第三・二十七右)
異熟心は善悪業によって感ぜられたものですね、善悪業果位と表されますが、果は無記です。この感ぜられるのは、第八識が有るからであって、若し第八識が無かったならば異熟は成り立たないと証しているのです。
一類相続不断を心と表していますが、「業果であり、不断であり、三界に遍している」これが異熟だと云っています。阿頼耶識のことです。
過去を背負える自己はどこで成り立つのか?意識なのか?という問題に答えているのです。
第一理証の持種証と関係しますが、種子を保持し、種子が現行を生みだしていく時に、いつでも過去を背負った自己を引き受けている、例外なくですね。
自分は自分の歴史性を引き受けて存在しているのですが、引き受けられないエゴ性(マナス)が覆ってしまうのですね。ここに煩悩が発生するのですが、煩悩が発生するのは偏にマナスに由るわけです。マナスは内在であり、外在するものではありません。ここははっきりしておかなくてはならないと思います。そうでないと、学びが他者を裁く道具に成ります。親鸞聖人は、聞不具足として厳しく教えてくださっていますね。
いえばですね、仏法という内観の道を学びながら、学びの姿勢が外道に転落していることを指摘されているんだと思います。
善悪異熟果は、自らが因の業をつくって、自らがつくった業の果を受けるのですが、それがどうして成り立つのかという問題なのです。