唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (77)

2017-05-29 21:13:34 | 阿頼耶識の存在論証

 第九理証に入ります。
 滅定証(メツジョウショウ)
      滅尽定
 定 〈       〉 無心定
      無想定
 「又、契経に説かく、滅定に住せる者は、身(シン)と語(ゴ)と心(シン)との行を皆滅せずということ無し。而も寿は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根(コン)は変壊(ヘンネ)すること無く、識は身に離れずと云う。若し此の識無くば滅定に住せる者の、身に離せある識有る可からざるが故に。」(『論』第四・四右) この滅定に入った者は、身行の入出息(ニュウシュツソク)を、語行は尋・伺、心行は受・想を滅すると云われています。行は因の意味であるとされます。
 寿は命根、つまり生命ですね。
 滅尽定に入ると、身行・語行・心行は滅するが、寿は滅しない、また煖を離れない、根は変壊しない、識は身を離れないのである、と。寿と煖と識は生命を維持する三要素で、煖は身体の温かさを云います。この条件を満たすのが第八識であるという論証です。
 滅尽定は第七識まで無くなるのですが、これは転識がすべて消滅する位になります。でも定に入っている位ですが、身命は滅していなく、維持し続けていけるのは何故かという問いが有るわけですね。諸経典に「身は識を離れない」と説かれていることに由ります。
 「若し此の識無くんば、滅定に住する者、身に離れざる識というもの有る可からざるが故に」
 「此の識」は第八識を指します。この第八識が存在しなかったならば、「身に離れない識」は存在しないことになる、と云います。
 結びは、
 「故に識も、寿・煖等の如く、実に身に離れずと許す応し。」(『論』第四・四左)
 第八識も、寿・煖等と同じく身を離れずに滅尽定の中でも存在していると(許すべし)認めるべきである、というのが護法の正義になります。
 本科段は初能変が終わり次第、もう少し詳しく論考したいと思います。