唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (69)

2017-05-09 21:48:34 | 阿頼耶識の存在論証
    「現実世界の中で生きる方向を見失い、人とのつながりを見失って絶望しえいたとき、浄土という世界に触れ、‟浄土の力で人間を回復”していった心の軌跡を探る。この浄土の世界が、‟現実の世界を真実として輝かせている”ことをこの身が少しずつ感覚しはじめていると気付かされる。」(帯び附より)
 今日は第三の理証である「趣生体証(シュショウタショウ)」について説明します。文字からは想像もつきませんが、輪廻の主体は阿頼耶識であることを明らかにしているのです。
 先に、界・趣・生を引くということを学びました。第一教証の下二句と関係してきます。
「此の識は無始の時より来た一類に相続して常に間断なく是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。」とですね。性質は堅持にして種子を失うことが無い、これが輪廻の主体であるということなのですね。
 生死流転という命題は、覚りを開くことがなかったなら、有情は生死流転する存在である、つまり五趣四生に流転するといわれるのですが、このとき、流転させる主体は何かという問題が出てきます。この主体が阿頼耶識であるというわけです。私たちは、過去からの遺伝子情報をもっていると云われていますが、この遺伝子情報が、阿頼耶識の中に保持された種子なのではないでしょうか。
 ですから、遺伝子情報は過去から現在へ、現在から未来へと相続されていくのもなのでしょう。ここには新熏種子の熏習があるのですから、断にも非ず、常にも非ずなのですね。
 『論』の説明は、
 「有情は五趣四生に流転すと云う。若しこの(第八識)識無くば彼の趣・生の体有るべからざるが故に。」
 理由として、
 「要ず実有なり・恒なり・遍ぜり雑無し」と云われています。
 (1) 主体となるのは、必ず実有でなければならない。縁に依らず存在するものであり、
 (2) 恒に相続し間断の無いものでなければならない。
 (3) 三界の周遍し、
 (4) 雑生の法で無いことに由るのである。
 この結果、この条件にマッチするのが第八識である、ということですね。
 扇の要のような存在が第八識である。扇の部分部分は依他起ですが、要は実有です。恒相続し、三界の周遍し、雑生の法ではないということを以て論証しています。