唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (64)

2017-05-03 09:20:07 | 阿頼耶識の存在論証
  
 五取蘊については、分別起の我執の項(選注p6~8)には、「是の故に我執は皆な無常の五取蘊の相を縁じて妄執して我と為す。・・・此れに由るが故に知ぬ、定めて実我は無くして但だ諸識のみ有って無始の時より来た前滅後生しつつ因果相続して妄熏習に由って我相に似て現ず。愚者中に於て妄執して我と為すと云うことを。」
 このように説かれていました。
 「是の故に我執は」何を対象として執するのかと云いますと、有為法ですね、有為転変する相を常一主宰の無為法として執して四苦八苦を生じてくるのです。ここで、苦しみの因は我執であることが明らかにされます。
 「無常の五取蘊」という、本来は、無我であり、無常であるわけですね。ご縁に依って様々な出来事が生起してきます。
 蘊は煩悩より生じて、また煩悩を生み出してくるのですが、煩悩が取ですね。自分を対象として執着を起してくる。五蘊を対象として第六識がそこに我執を起してくると云われています。これが五取蘊です。これは非常に表面的な煩悩なのですね。いうなれば、煩悩を生み出してくる根拠はどこからか、それを求めた時に、第八識だと、而もこの第八識は恒審思量である第七末那識によって我と執着されていることを見出してきたのですね。
 ねてもさめても絶えず働き続けている我執と共に私は生活をしている。ここが煩悩を生み出してくる根拠だと。ここを聞くわけでしょう。
    
  「弥陀大悲の誓願を
    ふかく信ぜんひとはみな
    ねてもさめてもへだてなく
    南無阿弥陀仏をとなうべし」(『正像末和讃』)

 第六意識は有間断ですから「へだてなく」は成り立たないわけですが、常相続として自分を立てているエゴイズムにおいて「へだてなく」は成り立ちます。そうしますと、如来の大悲は常相続の我執に対して「貴方が救われなかったら、私も救われることは無い」という菩薩の願行として、私の流転と共に働いているといえるのではないでしょうか。
 生まれてから煩悩が起こったんではない、煩悩から生まれてきたんだと、そして煩悩を生み出し、煩悩と共に生活をしている。その根拠が第八阿頼耶識であるということなんでしょう。五蘊の一つ一つが存在の根拠ではないということを明らかにしている、このように思います。
 このように見ていきますと、我執は自分の思いを通したい、思いのままにしたという思いですね。この思いが転ずるのは何処か。そこが真の愛着処になるのでしょう。ですから、一向苦受処や五欲、楽受、身見、転識、色身、不相応行は愛着処ではないと論破し、真の愛着処は第八阿頼耶識であると論証しているのです。
 「異生と有学との我愛を起こす時には、余蘊の於には愛し愛さざること有りと雖も、而も此の識の於には我愛を定めて生ず。故に唯此れのみ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十四右) 異生と有学が起こす我執ですが、これは分別起の我執です。この我執を五蘊の上に起こしてくるのです。しかし五蘊の上に起こす我愛は有る時は有り、有る時には無しと。起こる場合と起こらない場合があるわけですが、第八識の上には常相続して我愛は働いているのですね。意識の水面下でピッタリマークです。ここが真の愛着される場所になるのですね。愛着してくるのが第七末那識なのですね。