唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (76)

2017-05-27 21:36:25 | 阿頼耶識の存在論証
  
  四食証 (第八識の存在証明。五教十理の第八の証)
   「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。・・・謂く契経に説けるに食(じき)に四種有り。一には段食(だんじき)。…二には触食(そくじき)。・・・三には意思食(いしじき)。・・・四には識食(しきじき)。・・・此の四は能く有情の身命を持して壊断(えだん)せざらしむが故に名けて食(じき)と為す。」)(『論』第四・初右)
 食に四つあげられています。この四つは、有情の身命を保って、身命を養い壊断(断ち切ること)することがない、それが食であるということ、つまり私たちの命を支えてくものであるということです。また食の根底には「愛楽仏法味 禅三昧為食」という、命をいただいているんだという恩徳がはたらいているのですね。
 養っていく働きのあるものが食であると『述記』は釈しています。「資養し生長す」と。
 初めに、段食が挙げられます。
 「変壊するを以って相と為す。」 段食とは、私たちの食べ物のことを云っています。私たちの食べ物は変化し壊れていくもの、つまり魚や野菜は口の中に入り、噛み砕いて胃の中にはいり、そこで胃の中で分化され、いろんなものに変化する。食べたものは栄養分となって私たちの身体を養うのですね。これが一つ。
 私たちは、身を養うために食事をしますから、誰にでもあてはまることです。
 次からの三つが大変重要な食物になります。
 ・ 第一が触食です。
 「境に触するを以って相と為す。」
 触るというのは、単に対象に触れるということではなく、六触ということが云われていましたように、眼で触れる、耳で触れる、鼻で触れる、舌で触れる、身で触れる、意で触れる、あらゆるものと触れることにおいて私たちは成長していくのですね。成長とは、やはり身が養われていくということでしょうね。
 ・ 第二が意思食、思食とも云います。
 「希望(けもう)するを以って相と為す。」
 思とは、希い望むことである。自分の意志の力で、何かを求め、何かを望んでいくことなんですが、自分の意志の力が身を養っていくことになるんですね。
 聖書に、有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉が言われていますが、まさに、仏教もまた、パンのみにて生きるにあらずと、パンのみではなく、もっと大切な食があるということを教えているんですね。
 ・ 第三、最後に識食が挙げられます。
 「執持(しょうじ)するを以って相と為す。」
 命を執持するのは阿頼耶識であることをはっきりさせているわけです。私の命を根底から支え、養っているのが阿頼耶識である。ここは本当に大事なところです。私のいのちはを育て育んでくるのは、阿頼耶識である、と。
『論』には、
 「謂く有漏の識は段と触と思との勢力(せいりき)に由って増長し能く食と為る。此の識は諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識は、食の義偏に勝れ、一類に相続して執持すること勝るるが故に。」
 と説いています。
 私たち日頃の食事が身につくかつかないかは、どんなものを食べたかに依るのではないということなんです。本当に感謝の気持ちをもって、手を合わせ、いただきます、ありがとうございましたという心の働きが、身をやしない、成長させていく糧になると教えています。

 大谷大学教員エッセイ 2001年7月の言葉より
        「一切の有情はみな食によりて住す。」『成唯識論』(じょうゆいしきろん)
 『成唯識論』は、「三蔵法師」として有名な玄奘(げんじょう)によって7世紀の後半に翻訳された論書です。日本にも早くから伝えられて奈良時代以来多くの人々に読まれてきました。それは『成唯識論』が、仏教の多くの論書の中でも、苦悩する人間存在をもっとも深く解明したものだったからです。つまり、先人達はこの論書を通して、私たち人間とは一体どのような存在なのかということを深く学んできたのです。
 上に掲げた文章は、「すべての人間は常に何かを食べることによって生きている」という意味です。言うまでもなく、私たち人間は、様々なものを外から取り入れて生きています。ここではそれを「食」と言っているのです。「食」と言うと私たちはすぐに「食料」を想像しますが、『成唯識論』によれば、私たちを支えている「食」には四つの種類があると説いています。
 第一は、「段食」と言います。これは先に述べたような「食料」、つまり食べ物のことです。私たちがいろいろなものを食べてそれを消化したとき「食」になると言うのです。第二は、「触食」(そくじき)と言います。「触」とは、あるものと他のものとが接触することです。ここでは、私たちがいつも心に喜びを得るために何かと接触することを求めているという意味です。現代の言葉で言うなら「刺激」ということ に相当するでしょう。第三は、「意志食」と言います。これはいつも自分にとって都合の良いものを求め続けることという意味です。だから「欲望」といったことに相当します。第四は、「識食」と言います。これは今挙げた三つの食がより多く手にはいるようにと望むことです。つまり、私たち人間は、食べ物だけでなく心地よい刺激と自分の都合をどんどん拡大していくことを支えとして生きているのです。しかし、「食」の無限の拡大は私たちを迷わす原因ともなります。
 それ故、ブッダは、かつて迷いのもとを断とうして極端な断食修行を実行されました。ところが、それを放棄してスジャータの捧げた乳粥(ちちがゆ)を食べたのち、正覚を得られたのです。つまり、正覚とは、私たち人間を支えているものを否定したところに成り立つのではないのです。だからといってそれを全面的に肯定しているわけでもありません。ブッダの正覚が、両極端を廃した「中道」と呼ばれるのはこのようなことを指しているのです。