意味深いですね。大事なものは、仏法、真実の法です。現実的な表現ですと、支えられて生かされているいのちへの眼差しでしょうか。その眼差しが持ちえないのは、自分だけの世界に閉じこもっているからでしょう。禅では「父母未生以前の我」に帰れと言われますが、分別以前、言葉以前の我ですね。
そうしますとね、言葉を発する以前の我は、無分別の世界に遊んでいる。胎内での五位は有為法です。有為転変しながら無分別なんですね。園林遊戯地はこのような状態を云うのではないでしょうか。しかし、言葉を憶えて自他分別を重ねながら死地に向かっていることも事実です。
転依することが無かったら、死地は断末魔の叫びになるのでしょう。死にたくないけれども、いのちのもとを断たれることになる。
『倶舎論』43頌・44頌の記述です。
四有と四食の説明があって、命終の時にはどのような状態であるのかが説かれている。
「非定無心二 二無記涅槃 漸死足臍心 最後意識滅」(43頌) (定と無心との二に非ず。二無記に涅槃す。漸死は足と臍と心とに、)
「下人天不生 断末魔水等 正邪不定聚 聖造無間余」(44頌) (下と人と展と不生となり、断末魔は水等なり。」
有情の死を説く記述ですが、命終の時には、何の識が最後に滅するのかを説いているのです。頓死と漸死に分けて説かれています。 (つづく)