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『倶舎論』の記述によりますと、命終の時は何の識が最後に滅するのかという問いに、頓死と漸死が説かれ、頓死の場合は意識と身根とが突然に滅すると言われ、漸死の場合、地獄・餓鬼・畜生の生を引く者は足から、人間に生まれたる者は臍から、天に生まれたる者は心臓の処で意識が滅すると説明されています。
この漸死の者は、命終の時に断末魔の苦しみがあるとされます。最後の意識が滅する時に、断末魔の苦しみに悩まされる、何故かといいますと、四大(地・水・火・風)の和合が取れなくなり、四大不調になって病気に成ると云います、これが総相ですが、個別には水大が増盛すれば疫病、火大が増盛すれば熱病、風大が増盛すれば風邪を引き起こす、と。四大種のバランスが取れなくなった時に病を発症するのですね。そして末魔(急所)に触れると強い苦しみを受け、やがて死に至るとされます。
二十二根を説く中で、女根・男根として命の根幹が説かれますが、その根が断たれると云う表現を以て命終を表しています。急所を断たれるのです。
これは何を意味するのか、死んでいくときの様子を説き記しているわけではないのですね。人の死はこのような断末魔の叫びをもって閉じられるのは、過去の我欲の精算だと思うんです。仏教の学びは、何があってもですね、「これでよかった」と云い切れるかですね。
ヘドロ(煩悩。纏いつくもの)は初めから存在しません。清流は清らかな流れですが、堰を作ると流れが止められ不純物が堆積され、やがてヘドロと化します。
鉄は鉄より錆びるのです。様々な条件はありますが、錆びる直接の条件ではありません。水等は外的要因に過ぎませんね。
世の中ドロドロやといいますが、ドロドロした世間はどこにもないのです。
「罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき」(『愚禿悲歎述懐』)
深く味わっていかなければならない和讃ですね。南無