唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (67)

2017-05-06 18:31:13 | 阿頼耶識の存在論証
  
 十理の概略を述べてみます。
 『選注』本ではp55~77迄です。
 阿頼耶識といいますと、唯識の専門用語か、唯識独自の言葉のように思われるのですが、五教証の中でも論証されましたように、増壱阿含の中で仏陀は阿頼耶という言葉をお使いになっているのですね。『成唯識論』でも阿頼耶と云う言葉は大・小共許であると述べています。
 「初の能変の識をば大・小乗教に阿頼耶と名く。」(『選注』p30)と。
 阿頼耶は人間の深さを語っている名であり、阿頼耶を名言として示されたのは、迷いを縁として覚りを表されているのではないのかなと思います。
 第一番目の持種証(ジシュウショウ)
 種子を保持しているという問題です。生死流転を繰返しながら、私の所まで種子が伝わってきたのでしょう、有漏の種子ですが、この有漏の種子の所にかけられた願いが如来の本願でしょう。如来の本願は無漏ですが、無漏の本願が名号として、無漏の名言種子として阿頼耶識の中に保持されているということではないでしょうか。
 「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所なり。」(『論』第三・二十四右)種子を持する心である。
 そして、
 「此の識は一類なるを以て恒に間断無し。」(『論』第三・二十四左)
 間断のあるものは愛着処にはならないということを表しています。
 ・ 一類相続して熏習を成り立たせている場所であり、
 ・ 有漏・無漏一切の種子が蓄えられ(蔵され)現行を生じることが出来る場所である。
 第八識と云うと、識体ですが、阿頼耶識と云った場合は「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所」で、第八識が動くわけでしょう。大雑把で極論ですが、第八識を如来としますと、阿頼耶識は菩薩ではないのかな、と思ったりします。そして、阿頼耶識はお一人お一人の個性でしょうね。
 この個性がご縁として、第八識に触れていくのでしょう。触れることにおいて、まぁ言えばですね、個性が輝くのではないでしょうか。一人一人大事ないのちを授かっているのですね。第八識を「心」(citta )と表し、現行の動きから阿頼耶識(aalaya-vijJaana)と表現されたのでしょう。
 先ず概略を見ていきたいと思っています。明日は第二理証の概略について述べたいと思います。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (66)

2017-05-06 12:31:49 | 阿頼耶識の存在論証

 「鉄より生じる錆により、鉄が朽ちると同様に、おのれがつくった悪業がなんじを悪道にみちびく。みずから悪をなすから、みずから苦を受けねばならない、みずから悪をなさなければ、みずから清くなるのである。我が身をけがすのも清めるのも、己の随意である。他人を清くすることは、いかなる人にも出来はしない。」(「錆は鉄よりいで鉄を腐らすが如し。己の善業に於て自ら浄まり、己の悪業に於て自ら汚れる、浄・不浄は自己にあり、他に於て浄めらるることことなし。」)
 『法句経』第87篇にでてきますお言葉ですが、すべては自己が作り出した影像であることを厳しく述べられています。
 
 「おそらく弟子の一人がお釈迦さまのところに救いを求めていったのでしょう。その時にお釈迦さまは「他に於て浄めらるることことなし。浄・不浄は自己にあり」きれいな人生を生きるか、汚れた人生を生きるか、それはおまえ自身にある。お前を浄めてやりたい、助けてやりたいと思ってもどうしようもない。「他に於て浄めらるることなし」お前自身がお前を浄めていく以外浄められる道はない。
 錆は鉄から出てくるんです。別に外から何かがくっつくのではありません。もちろん塩や水などが影響を与えますが、外から来てくっつくわけではありません。鉄が自分自身の中から腐って、錆びていくわけです。自分の中から出てくるわけです。自分が自分自身を腐らしていく、これが錆びる、それと同じで浄・不浄というのは自分に責任がある。自分で浄めていったり汚していったりする。
 厳しい教えです。厳しい教えですけれど、お釈迦さまの教えの基本にそういうことがある。」(太田久紀師)

 他にも、少し紹介しますと、
 「死を悲しまぬ者もなく、生を愛さない人もない、自分も他人とも同じ身と知れば、みだりにものを殺してはいけない。」
 「荒々しい言葉を口にしてはいけない、他人はまた荒くそれにこたえるだろう、苦痛に満ちた憤怒の言葉を返えされて身に受けるだろう。」等

 「有情執して自の内我と為す。乃し未だ断ぜざるに至るまで恒に愛着を生ずるが故に、阿頼耶識是れ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十三右)
 有情の執着する心が、無我を生かされている身を、末那識が本来の自己である阿頼耶識を対象として阿頼耶識を縛って内的な自己として、自分だと、自分が生きているんだと思い込んでいるわけです。
 「阿頼耶識は無始の時より来た一類に相続して常一に似るが故に有情は彼を執して自の内我と為す」と。このことが迷いの根柢に潜んでいるわけですね。
 ここを受けて他の心・心所は真の愛着処ではないことが明らかにされました。
 「是に由って彼しこに阿頼耶という名を説けり。定めて唯此の阿頼耶識おということを顕す。」(『論』第三・二十四右)
 次科段より正理が顕されます、
 「已に聖教をば引きつ、まさに正理を顕すべし。」(『論』第三・二十四右) (すでに聖教を引用し終った。次には正しい道理を顕すのである。)
 ここで十の道理が示されます。
 (1)   持種証(ジシュウショウ)
 (2)  異熟証(イジュクショウ)
 (3)  衆生証(シュジョウショウ)
 (4)  執受証(シュウジュショウ)
 (5)  壽煗識証(ジュナンシキショウ)
 (6)  生死証(ショウジショウ)
 (7)  識名色互為縁証(シキミョウシキゴイエンショウ)
 (8)  四食証(シジキショウ)
 (9)  滅定証(メツジョウショウ)
 (10) 染定証(ゼンジョウショウ)
 また後で、簡単に概略を述べたいと思います。