十理の概略を述べてみます。
『選注』本ではp55~77迄です。
阿頼耶識といいますと、唯識の専門用語か、唯識独自の言葉のように思われるのですが、五教証の中でも論証されましたように、増壱阿含の中で仏陀は阿頼耶という言葉をお使いになっているのですね。『成唯識論』でも阿頼耶と云う言葉は大・小共許であると述べています。
「初の能変の識をば大・小乗教に阿頼耶と名く。」(『選注』p30)と。
阿頼耶は人間の深さを語っている名であり、阿頼耶を名言として示されたのは、迷いを縁として覚りを表されているのではないのかなと思います。
第一番目の持種証(ジシュウショウ)
種子を保持しているという問題です。生死流転を繰返しながら、私の所まで種子が伝わってきたのでしょう、有漏の種子ですが、この有漏の種子の所にかけられた願いが如来の本願でしょう。如来の本願は無漏ですが、無漏の本願が名号として、無漏の名言種子として阿頼耶識の中に保持されているということではないでしょうか。
「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所なり。」(『論』第三・二十四右)種子を持する心である。
そして、
「此の識は一類なるを以て恒に間断無し。」(『論』第三・二十四左)
間断のあるものは愛着処にはならないということを表しています。
・ 一類相続して熏習を成り立たせている場所であり、
・ 有漏・無漏一切の種子が蓄えられ(蔵され)現行を生じることが出来る場所である。
第八識と云うと、識体ですが、阿頼耶識と云った場合は「雑染と清浄との諸法の種子の集起する所」で、第八識が動くわけでしょう。大雑把で極論ですが、第八識を如来としますと、阿頼耶識は菩薩ではないのかな、と思ったりします。そして、阿頼耶識はお一人お一人の個性でしょうね。
この個性がご縁として、第八識に触れていくのでしょう。触れることにおいて、まぁ言えばですね、個性が輝くのではないでしょうか。一人一人大事ないのちを授かっているのですね。第八識を「心」(citta )と表し、現行の動きから阿頼耶識(aalaya-vijJaana)と表現されたのでしょう。
先ず概略を見ていきたいと思っています。明日は第二理証の概略について述べたいと思います。