唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (65)

2017-05-04 22:32:04 | 阿頼耶識の存在論証
 
 以上述べてきましたが、各論においては愛着処にはならないということなのです。ですから、
 「是れに由って彼しこに阿頼耶という名を説けり。定めて唯此の阿頼耶識ぞということを顕す。」(『論』第三・二十四右)
ここで一応教証が終わります。全体像としての第八阿頼耶識が説きおわったということになります。次は十理証です。道理をもって阿頼耶識の存在を論証してきます。
 復習になりますが、所能変、第八識はどのような構造を持っているのかをもう一度が概略をしますと、、初能変は八段十義でという分け方で説明してきました。
 能変は能動体です。これに対して所変は受動体になります。
 能動的に変えていく心が「能変として表され、心によって変えられたものが所変の相です。所変の相を一切諸法と表されます。一切諸法は能変の識によって変えられたものなのです。これを影像といいます。 私たちは影像を見て、外界に存在するものと認識をしているのですね、これが妄想です。
 有漏の種子が外界に触れた時に、外界そのものが実在すると妄想を起すのですね。そして心が触発されて感情が生れます。感情は言葉を通して表現されますから、種子は名言種子なのですね。つまり、言葉を持つのは分別の証しでもあるわけです。何故分別かといいますと、言葉で認識されたものは、言葉の影像ですから、ものそのものの全体を見ているわけではないのです。見ている、認識しているのは、心に写った部分しか見ていないのですね。自分の心に写ったものを外に実体として存在すると錯覚をしているのが実像なのです。所変の相は能変を離れては無いということになります。
 ある一つのものを見ても、百人が百人ながら見ているところは違います。人人唯識です。もし外界に実法として存在するのであれば、すべての認識は同一でなければなりません。心によって変えられるものが所変の相なのですね。
 では、変えるものは何かという問題が残ります。それが能変の識体です。能動的に自分の心に写った対象を変えていくことになります。それが三層構造になっているのです。三層構造の根本が阿頼耶識であると教証をもって論証されてきたのです。
 この阿頼耶識がまた、三つの相をもっていると説かれています。自相・果相・因相ですが、自相は能蔵・所蔵・執蔵の三つの意義をもっていると明らかにされました。蔵ですから貯蔵庫ですね。過去からの経験を溜めこんでいく倉庫になります。全ての行動は、未業であれ、已業であれ、選択はしません。この全体が今の私の人格を形成しているのです。そして今の私が明日の私を作り出していくことになります。取捨選択をしないというのが阿頼耶識の特徴ですね。分別が無いと云うことなのです。それを無覆無記と表しました。分別が働かないということは、意識の上でも分別は働かないということなのです。しかし現実には意識は分別をしています。何故なのでしょう。ここに第二能変の問題が出てきます。阿頼耶識を色づけする動きが有るということなのですね。
 私たちは不安なのだと思います。何かにしがみついていないと安心が出来ない。たとえ藁であってもですね。そして孤独に耐えられない、徒党を組むか。仲間意識で他を排除するかという愚かな行動に出るのですね。それは真実が見えないからです。徒党を組んでも、仲間意識でも孤独なんですね。何故かと云いますと自分中心の世界で動いているからです。それが末那識の問題になります。これが種子として循環していきます。そして彷徨(さまよう)するのです。
 しかし、これがご縁になるのですね。他によって苦しめられているとばかり思っていたけれども、そうではないかったんだと。苦の因は自分が溜め込んでいた種子にあったんだと。
 集諦が因として苦諦が現われる、種子生現行ですね。現行の苦諦が新たな集諦としての種子を阿頼耶識に熏習する(現行熏種子)ことになります。現行の果が因として種子を果として熏習することになるのですね。
 集諦の因である種子が転じた時に滅諦の果が現われてくるのですね。キーワードは「転」ですね。これが生活なのでしょう。生活=道諦です。こんなことが初能変で教えられたことではないのかなと思います。