今日は、第六の生死証の概略になります。
第六・生死証
「又契経に説かく、諸の有情類の受生(ジュショウ)し命終(ミョウジュウ)するは必ず散(サン)と心(シン)とに住して無心と乗とには非ずと云う。」
「若し此の識無くば生じ死する時の心有るべからざるが故に。」(『論』第三・三十二右)
受生とは、母親の胎内の中に生命を受けること(いのちの誕生)
命終はいのちが終わるときです。
ですから、生まれるとき、死するときには「散(サン)と心(シン)とに住して無心と定とには非ず」と云われている。
散は散心、こころが散漫に動いている状態です。散心――(対)――定心
心は有心――(対)――無心
ここで言われていることは、生まれる時と死する時は心は散漫であり、明瞭な意識はない。身心惛昧(シンジンコンマイ)であるからと云われます。いうなれば、昏睡状態です。そうですね、生まれる時は極睡眠ですし、死する時は、眠るようにして亡くなっていきます。はっきりとした意識は働いていません。ですから「明了の転識は必ず現起せざるべし」六識は働いていないということでしょうが、それならば、生まれる時、死する時は何もないのかと云うと、そうではなく、小さな小さな生命が宿って、日々成長していくのですし、死んでいく時も、意識は朦朧として、もはや分別は働きませんが、やはり生きている。
六識は働いていないが、生死の六識の働いていない時にいのちを相続しているのは何故なのかということなんですね。
生命の誕生と倶に阿頼耶識が動き、臨終と言われても尚且つ阿頼耶識は死んでいない、生きているということなのです。
「阿頼耶識は常に非ず、断に非ず」ですね。
そしてですね、死に関してですが、生きている間の善悪業が関係すると説いているのです。死に望んで、業果です。どういうことになるのか、『論』の記述は、
「又死せんと将(ス)る時には、善・悪業に由って下(ゲ)・上(ジョウ)の身分に冷(リョウ)の触漸(ソクヨウヤ)く起る。若し此の識無くば彼の事成ぜずなりなん。」(『論』第三・三十三左)
厳しいですね、私の業に由って業果としての死に「下・上の身分」として「冷の触」が現われると。
善を積み重ねてきた人は、足の方から冷たくなる。
悪を積み重ねてきた人は、頭の方から冷たくなる、と云っているんです。
でもね、死んでいくときは手足から冷たくなるんです、何を言おうとしているんでしょうね。この事も、第八阿頼耶識がなければ言えないことなんです。
阿頼耶識が存在して、初めて生死が意味を持つということを論証したのです。