唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (11) 諸識倶起門

2016-01-26 22:44:07 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 諸門分別の第四は諸識倶起が開かれます。
 八識それぞれはどの随煩悩と倶起するのかが問われている科段になります。

 「此は唯染(ただぜん)のみなるが故に第八とは倶なるに非ず、第七識の中には唯大の八のみ有り、取捨(しゅしゃ)する差別(しゃべつ)は上の如く知る応し。第六識と倶には一切有る容し。小の十は麤猛(そみょう)なり、五識の中には無し、中と大と相いい通ぜり、五識にも有る容し。」(『論』第六・三十三右)
 
 (随煩悩は二十数えられるわけですが、これらの二十の随煩悩はただ染のみである為に第八阿頼耶識とは倶ではなく、相応しない。第七末那識の中にはただ大随煩悩の八のみが存在する。第八は第三巻に、第七は第五巻に説いてきたので、取捨の区別は上に説いてきたとおりに知るべきである。第六識とは倶に一切の随煩悩が存在する。小随煩悩の十は麤猛(あらあらしい)ものであるから五識の中には存在しない。中随煩悩と大随煩悩とは相が五識と通ずるので五識に存在する。)

 「述して曰く、忿等の小随煩悩は行相が麤にして且つ猛なり。五識は彼に望るに即ち細なるが故に倶ならず。中の二と大の八とは五識に有る容し。不善と染とに遍せつが故に。」(『述記』第六末・九十三左)

 前五識と中の二、大の八が相応するというのは、前五識は第六識の影響下に置かれていて、第六識の引く力によって、善にも、不善にも、有覆無記にもなります。いうなれば、前五識は受動態ですね。前五識も第六意識に覆われているといえましょう。
 
 不善になった前五識はただ不善である中随煩悩と相応するわけです。中随煩悩はすべての不善心に存在します。
 すべての染心(不善心と有覆無記心)に存在する大随煩悩は、前五識が染である場合に相応します。
 これが「中と大と相いい通ぜり、五識にも有る容し」と。中と大とは相が五識と通じるということですね。
 整理をしますと、
 第八阿頼耶識には
  随煩悩は相応しない。
 第七末那識には、
  大随煩悩の八のみが相応する。
 第六意識には、
  小・中・大のすべての随煩悩が相応する。
 前五識には、
  中随煩悩の二と、大随煩悩の八が相応する。

 このように見ていきますと、私のいのちの根源は純粋無垢な感情が流れているのですね。この流れを第七末那識という、限りない自我意識が覆っているのがわかります。私の知り得ないところで覆っているのですね。
 そして私たちは善であるとか悪であるとかに翻弄されて一喜一憂を繰り返しているわけでしょう。気が付いてみれば、「自分の人生何だったのか」、築き上げてきたものがあえなく崩壊し、残されたものは余命いくばくもないという状態では如何なものか。
 「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」(『御文』)
 死をもって「いのち」の尊さを教えてくださいました先人の声に耳を傾け、いのちの根源、魂の叫びを聞かなくてはならないと思います。