唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (7) 自類相応門 (3) 大随煩悩について

2016-01-18 22:17:40 | 第三能変 随煩悩の心所
  

  大随煩悩について、
 「論に、大の八は諸の染心に遍すと説けり、展転して小と中とも皆倶起す容し。」(『論』第六・三十二右)
 (論に、「大随煩悩の八つはもろもろの染心に遍く存在する」と説かれている。つまり、大随煩悩は展転して小随煩悩とも中随煩悩ともすべての随煩悩と倶起するのである。)
 論にという、論書は『瑜伽論』巻第五十八を指しますが、詳しくは『述記』に釈されていますので、これより学びたいと思います。
 
 何故かといいますと、遍染の心所から「染心に遍す」という根拠を伺い知れるからに他なりません。詳細は、第二能変・心所相応門を参照にしてください。結論からいますと、護法は八遍染説を主張しています。これが正義になります。
 第七末那識と相応する心所を明らかにする中で、初に第七識と相応する心所を述べ、後に相応しない心所を述べる。そしてその理由を明らかにしています。
 「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く、前の九法と、八の随煩悩と、並に別境の慧となり。」(『論』第四・三十六右)と。
 (以上によって、第七末那識と倶である心所は十八である。つまり、前の九法と八つの随煩悩と、別境の慧とである。)
 •前の九法 - 四煩悩と五遍行
 •八の随煩悩 - 大随煩悩(遍染の随惑)である掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知である。
 •別境の慧

 『述記』(第六末・九十二右。大正43・462c)より、
 「論。中二一切至皆容倶起 述曰。無慚等中二。遍一切不善心倶。但不善心皆有故。對法第六・五十五・及五十八皆同於此相如前説。故知得與小・大並生。皆通不善故。義引五十八。説大八掉擧等遍諸染汚心。展轉自相望。及與小・中十二。皆容倶起。不相違故。前第四卷説有四師。第四師爲正。忘念・不正知是癡分故。散亂別有性故。餘者極成。故八遍也。此中但有後師正義。」
 (「述して曰く、無慚等の中の二は一切の不善心に遍じて倶なり。ただ不善心のみに皆有るが故に。対法の第六、五十五、及び五十八は、みな此の論に同なり。相は前に説けるが如し。故に知る。小と大と並び生ずることを得ることを。みな不善に通ずるが故に。(ここまでが前回の説明になります。)
 義を以て、五十八に、大の八の掉擧等は諸の染汚心に遍ぜりと説けるを引き、展轉して自ら相望するに、及び小と中との十二も皆倶起すべし。相違せざるが故に。前の第四巻に四師ありと説くに、第四師を正と為す。妄念、不正知はこれ癡の分なるが故に、散乱は別に性ある故に、余のものは極成せり。故に八は遍ぜりというなり。この中にただ後師の正義のみあり。」)

 ここで教証として取り上げられている『瑜伽論』巻第五十八の文言は、十遍染師の論拠をして引用されているものなのです。護法論師はこの中の邪欲と邪勝解は遍染の随煩悩ではないと論難しています。
 「過去・未来という他世の事を疑う時には、必ず現在に於て勝解の働きが存在する。他世について決定的に理解する(印持)勝解の働きが存在するから(邪)勝解及び(邪)欲は遍染の随煩悩であるという理解が生じる。しかし、護法は「他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼(他世)に於て、何の欲と勝解との相か有る。」と疑義を呈します。他世の有無を疑うということは疑の煩悩が生起していることであって、現在に於て勝解が生起しているわけではない。勝解は決定的に理解する心ですから、他世に対して有るか無いかと不確定な事柄に対しては勝解は働くことないのですから、従って(邪)欲と(邪)勝解は遍染の随煩悩ではない、と論難します。
 しかし、その他の八は遍染の随煩悩ですから、大随煩悩の八は遍染の随煩悩であると云い得るわけです。このことに由って遍染の随煩悩である大の八は、同じく染汚心に生起する小と中の随煩悩と相応すると言えるわけです。