唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (6) 自類相応門 (2) 中随煩悩について

2016-01-17 20:54:38 | 第三能変 随煩悩の心所


 自類相応門 二は、中随煩悩について説明されます。
 「中の二は一切の不善心と倶なり、応(よろしき)に随って皆小と大と倶に起こることを得(う)。」(『論』第六・三十二右)
 (中随煩悩の二(無慚・無愧)はすべての不善心と倶である。この二つは時に応じて皆、小随煩悩と大随煩悩と倶に生起することがある。)
 倶は相応すること。中随煩悩の二つは、三性では唯不善のみの心所なんです。従って不善心が起こると、必ず無慚・無愧が起こっているということになります。自己正当性というのは全く不善なんですね。自己正当性には慚愧の心は生まれてこないのです。慚愧心が自他を開放する唯一無二の心所なのですが、自己正当性は慚愧心を覆い隠してきます。
 では自己正当性が意味を持つのはどういう時なのかという問いも生まれてきそうですが、そう簡単にはいかないと思います。無始以来自の内我によって積み重ねられてきた不善の種子は頑なです。ダイヤモンドの硬さに匹敵するでしょうね。「水よく石を砕く」、聞法の積み重ね(自己を問う歩み)が、やがて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」(「行巻」真聖p
198)世界を開いてくる。
 高僧和讃に、親鸞聖人は
 無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

 罪障功徳の体となる
  こおりとみずのごとくにて
  こおりおおきにみずおおし
  さわりおおきに徳おおし
 とうたわれています。(真聖p493)
 
 具体的には自己正当性は成り立たたないことだと思います。でもね、自己正当性が成り立つ場所があるんですね。頭が下がった時、つまり「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」なんです。この時は、敵対する相手に向かって手が合わさる時でもあるんですね。「あなたによって、私の傲慢さが知らされました。おかげさまで自分に向き合うことが出来ました。ありがとうございます。」という回心が起こった時なんです。これは自分の中からは出てきません。真実の世界よりいただいたものなんですね。第一義諦真実功徳相 という、我空・法空より賜ったもの。『三十頌』は第二十一頌に「依他起の自性は、分別の縁に生ぜらる。円成実は彼が於に、常に前のを遠離せる性なり。」と迷いと覚りの不一不異の関係を教えています。
 現代語訳は多川俊映師の『唯識とは何か』より引用させていただきます。
 「私たちの日常は、さきほどみたように、遍計所執の世界ですが、つぎに、一般的にみて世界というものはどのようにして成り立っているのかを確認しましよう。むろん、勝手な計らいや執着はいけませんが、そういう世界も、ある絶対条件の下、単独に在るわけではありません。やはり、さまざまな原因が一定条件のした、一時的に和合して成り立っています。つまり、元来は、縁起(さまざまな縁によって生起する)の性質のものです。唯識ではそれを、依他起(他に依って起こるもの)というのですが、どのような世界であれ、この依他起ということが在り方の基本です。
 さて問題は、私たちが真に求めるべき世界です。唯識ではこれを、円満に完成された真実の世界という意味で、円成実(えんじょうじつ)といいますが、これも、依他起の性質がベースになります。ただし、その上によからぬ思い計らいや執着を一切加味しない、というよりむしろ、つねにそうした遍計所執の無縄自縛を隔絶した世界――。それが円成実の世界です。」
 「此(円成実)を見ずして彼(依他起)をみるものには非ず。」と。そして、二十二頌から二十五頌において唯識実性が明らかにされてきます。
 
 横道にずれてしまいましたが、法を聞き、法に触れることが如何に大事なことであるのか、法に触れることに於いて、心の中の勝義の種子(無漏種子)が目覚め発動され、発動した無漏種の現行が智慧の光となって、心の闇を引き出してくる。傲慢自尊の我が白日の下に晒され、お陰様で広大無辺の世界に触れ得ることができましたという恩徳をいただくことができうのでしょう。
 
 中随煩悩の二つはただ不善心と相応するということですから、小随煩悩の中のただ不善である小随煩悩と、ただ不善である大随煩悩と倶に働くのです。従って、上二界に存在する有覆無記のものとは相応しないということなのです。つまり、無慚・無愧は三界でいえば欲界にのみ存在する心所ですから、欲界に存在する不善心すべてと相応して働くわけです。