唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (3) 仮実分別 (2)

2016-01-12 23:27:39 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 雑感)
 人生、未だ見たことのない世界に向かって歩いているんだもの、悩み苦しむのが本性でしょうね。しかし、悩み苦しんでいる自分に出会ったことは貴重な財産。僕はですが、常に人前では仮面をかぶっています。仮面の内側で、生きるのしんどいなという自分がいます。何もかも投げ捨てたら楽になれるのに、と思うことしばしばです。しかしね、そんな時、こんな自分でも生きていることに価値があるんやと知らされるんです。自分がこの世に生を受けるのに、どれほどのエネルギーが費やされたことか。
 今日有る御老人に貴重な話を伺いました。一人暮らしで身体に障害を持っておられて、生活保護を受けながら日暮をされているんです。「自分はこの年まで、まさか障害をもって生活保護を受けて暮らさなければならないとは思ってもみなかった。もともと身体には自信があったし、それなりに稼いでいたので、そのすべてがあてにならないと分かった時は絶望のどん底に突き落とされたように思えた。今でも、死にたくないから、食べることだけが毎日の日課、何の為に生きてきたのか、生きなければならないのか。そんなこと考えたら生きておられん。でもね、なんか、なんでこんなんになってしまったのかと思うことが有るんです。去年のクリスマス、一人の部屋でクリスマスは嫌だから夜の街にでかけたんです。街中を見ると、みんな幸せそうに見えてきて、自分がみじめで情けなかったですわ。」と。僕は父の生前の言葉と重なって、「人間として」の原点を見つめる、そんな眼差しをもてる人になってや、というメーセージをいただきました。返す言葉は見つからなかったですが、「くれぐれも命だけは大切になさってください」と伝えました。反面、僕は本当に命を大切にしているのだろうか?大きな問いをいただきました。

 仮実分別門 (2)
 『述記』の釈より、
 「論。如是二十至如前應知 述曰。自下第二諸門分別。諸門分別中。別以十三門分別。第一假實分別。此忿等小十大中忘念・放逸・不正知此無異諍。對法第一云當知忿等皆是假有。此雖總言各別之中有實假者。又隨他相總名假有。如此等十三。他少分故名假。如餘七法無慚・無愧・不信・懈怠定是實有。隨他相説亦名爲假。前之十三假。後之四種實。教理成故。五十五説無慚等四實物有故。凡世俗者亦有是假有。對勝義爲言但言世俗。而體實有。此等言世俗。對勝義爲論。以隨他相而體非假。掉・惛・亂三。有義是假。有義是實。如前説故今取實者爲勝。上雖一一別明。未總顯二十中幾假實故。今總辨之。」(『述記』第六末・九十左。大正43・462b)
 (「述して曰く、自下第二に諸門分別なり。諸門分別の中、別に十三門を以て分別す。第一に假實分別なり。此の忿等の小の十と、大の中忘念・放逸・不正知と、此れ異の諍無し。對法の第一に云く、當に知るべし。忿等は皆是れ假有なり。此は総の言と雖も、各別の中に実なると假なるもの有り。又他の相に随って総じて假有と名けたり。此の如き等の十三は他の少分なるが故に假と名く。余の七法の如き、無慚・無愧・不信・懈怠(惛沈・掉挙・散乱)は定めて是れ實有なり。他の相に随って説かば、亦名けて假と為す。前の十三は假、後の四種は(中惑の二と大惑の中の不信と懈怠)は実なり。教と理と成ぜるが故に。(『瑜伽論』)五十五に無慚等の四は實物有なりと説けるが故に。凡そ世俗のものにして、亦是れ假有なること有り。勝義に対して言を為す。但だ世俗と言うは而も体は実有なり。此れ等を世俗と言うは勝義に対して論を為す。他の相に随うを以て而も体假には非ず。掉・惛・亂の三は、有義は是れ假という。有義は是れ実なりという。前に説けるが如くなる故に。今は実を取りて勝と為す。上に一々別に明かすと雖も、未だ総じて二十の中に幾が假實と云うことを顕さざるが故に、今総じて之を辨ず。」)
 
 「掉・惛・亂の三について」は異説があり、護法は実有であるといい、これが正義になるというのが法相教学です。また、『雑集論』巻第一と『瑜伽論』巻第五十五に詳細が述べられています。
 遍行の五は実法。
 別境の五は実法。
 善の心所の、信と慚愧と無貪等の三根と精進と軽安は実法であり、不放逸と行捨と不害は仮法になります。
 煩悩の心所の中、三毒の煩悩と慢と疑は実法であり、悪見は悪慧の一分であり仮法になります。
 随煩悩の中、小随煩悩の十は仮法、中随煩悩の二は実法、大随煩悩の掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱は実法であり、放逸と失念と不正知は仮法になります。
 不定の四の中、悔と眠は実法、尋・伺は仮法
 であると教えられています。
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第三能変 随煩悩 諸門分別 (2) 仮実分別 (1)

2016-01-11 21:05:54 | 初能遍 第三 心所相応門
  

 仮実分別門
 「是の如く二十の随煩悩の中に、小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり、無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり、教と理とを以て成ずるが故に、掉挙と惛沈と散乱との三種をば、有義は是れ仮といい、有義は是れ実という、所引の理と教とは前の如く知る応し。
(『論』第六・三十二左)

 (このように、二十の随煩悩の中に説かれている、小随煩悩の十と、大随煩悩の三とは仮有である。無慚と無愧と不信と懈怠とは実有である。教と理をもって推測すれば、掉挙と惛沈と散乱の三種について、有義は仮有であるといい、有義は実有であるという。引用する理と教とは前の如く知るべきである。)
 ここでいわれています、「実」は実体という意味ではありませんので誤解のないようにしていただきたと思います。実際の働きのあるもの、実用(じつゆう)という意味をもつものです。仮有は、分位仮立法という意味になります。根本煩悩の上に仮に立てられたものです。

 諸門分別の第一門が、仮実分別門になります。
 随煩悩は二十数えられているわけですが、その中で何れの随煩悩が仮法であり、何れの随煩悩が実法であるのか論じられす。
 答えは、「小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり」 ― 仮法
     「無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり」 ― 実法

 小の十とは、忿(ふん。いかる)・恨(こん。うらみ)・覆(ふく。罪をかくす)・悩(のう。相手にかみつく)・嫉(しつ。ねたみ)・慳(けん。おしむ)・誑(おう。たぶらかす)・諂(てん。だましへつらう)・害(がい。殺傷する心)・憍(きょう。おごりよいしれる)の十である。
 大の三とは、失念・放逸・不正知である。
 尚、掉挙と惛沈と散乱の三種について護法の正義は実法であるといいます。何故実法であると云い得るのあは、前の如く知れと。前とは掉挙と惛沈と散乱の心所を説き明かしてきた所に戻って知りなさいということです。

 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (1)

2016-01-10 11:36:36 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 諸門から随煩悩の心所を十三門にわたって分析をします。(諸門分別)
 (1)  仮実分別門
       二十の随煩悩の中で、何が仮有であり、何が実有であるのかを分析する。
 (2)  倶生分別門
       二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通じて、(分別・倶生)ニの煩悩の勢力に随って起こることを明らかにします。。  
 (3)  自類相応門 
       随煩悩同士が同時に並び立つか、倶起するかを論じます。
 (4)  諸識倶起門
       随煩悩がどの識と相応し、倶起するのかを論じます。
 (5)  諸受相応門
       五受と随煩悩の相応を分析します。
 (6)  別境相応門
       随煩悩は別境とすべて相応し、其の理由を示します。
 (7)  根本相応門
       根本煩悩と随煩悩の相応について論じます。
 (8)  三性分別門
       随煩悩の三性(善か不善か無記か)を論じます。
 (9)  三界分別門
       随煩悩は三界の中のどこに存在するのかを論じます。
 (10) 三学分別門 
       随煩悩は、有学・無学・非学非無学のいずれの存在なのかを論じます。
 (11) 三断分別門
       随煩悩は、見所断か、修所断か、非所断かを論じます。
 (12) 有事無事門
       随煩悩が本質相分を持つのか、持たないのかを論じます。
 (13) 漏無漏縁門
       随煩悩が、有漏・無漏を縁ずることが有るのか、無いのかを論じます。             

 詳細につきましては、明日以降に考究します。
 今日は、本年度の初講をさせていただきます。時間のおありの方はお立ち寄りください。地下鉄千林大宮二番出口、福島病院前です。午後三時から五時までです。冬の間は書院で行っています。

第三能変 随煩悩 第六 廃立を釈す。 (3)

2016-01-08 22:59:25 | 第三能変 随煩悩の心所


 随煩悩は二十数えられますが、論書等には、多数の随煩悩の存在があることが語られています。ここで問いが出てきたのですね。『論』には随煩悩の数を二十としたのか、その他の随煩悩は何処に摂めれるのかということです。この問いに答えているのが本科段になります。
 前回も述べましたが、二十以外のその他の随煩悩は、二十の随煩悩の中のいずれかに分位仮立(分位等流)されたもの、或は、二十の随煩悩の中のいずれかに同類等流されたものである。
 従って、随煩悩が多数存在しても、二十の随煩悩の中に摂められるということになります。随煩悩の定義(三つの条件)が示されていましたが、この定義に適うものが二十の随煩悩なのです。
 三との条件、
 (1) 煩悩ではない。以前にも説明しましたが煩悩も随煩悩であるという表記があるのです(随煩悩と云う名は亦煩悩をも摂めたり)。しかし、貪等の煩悩は根本煩悩ですから、随煩悩という場合は除かれるという意味になります。
 また、随煩悩は煩悩ではないということです。煩悩はすべて随煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とは言わず、随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢すのですね。悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからである。
 (2) ただ染である。三性に通ずるものではないということ。
 (3) 麤(そ。あらい)である。行相が麤であるもの。従って、行相が細なるものは除かれるのです。

 多数宇の随煩悩が存在するということですが、『論』では細密に分類はされいませんが、「その類の別なるに随って理の如く知るべし」と。分位のものであるのか、同類等流のものであるのかは理の通りに考えなさい、と教えています。
 それが、『本頌』に説かれている「与と並と及」の字の意味するところなのです。

 後半は、諸門分別が十三門に分かって説かれます。概略は2010年3月1日の投稿より記載しています。

第三能変 随煩悩 第六 廃立を釈す。 (2)

2016-01-06 23:02:00 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 二十の随煩悩が説かれていますが、其の他多くの染法は、二十の随煩悩の分位仮立法であり、(同類)等流であることを顕す。
 「此れより余の染法(ぜんぽう)は、或は此れが分位(ぶんい)なり、或は此れが等流(とうる)なり、皆此に摂めらる、其の類の別なるに随って、理の如く知る応し。」(『論』第六・三十二右)
 (二十の随煩悩以外の染法は、或は二十の随煩悩の分位である。或は等流である。その為にすべての染法はこの二十の随煩悩のなあに摂められるのである。その種類の別は理に従って知るべきである。)
 『成唯識論』で説かれる二十の随煩悩の、その他の染法は、
 (1) 随煩悩の分位仮立法である
 (2) 随煩悩の同類等流である。
      随煩悩の字を釈する中で、随煩悩は煩悩の分位仮立法か、等流法かといった分類に区別があることが述べられていました。(2015年5月31日の投稿)
      随煩悩は、「根本の等流性なり」と云われていますから、根本煩悩の等流であることが解ります。等流とは同類の意味なのです。等流性の条件なのですが、随煩悩個別の       体を持つものであるということでなければなりません。しかし、「根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に」と云われていますように、単独で生起       するものではなく、必ず煩悩を因として(煩悩を依り所として)生起するということに他なりません。
        分位仮立法に由る随煩悩 ― 十三
        等流性に由る随煩悩(実法) ― 七
       という二つの理由で随煩悩と名づけられています。
    等流としての随煩悩は、種子より生じた個別の体を持つものであって、分位仮立法としての随煩悩ではないということになります。しかし、煩悩を因(この場合のいな所依と    いう意味です。)として生起するものです。
 忿等の十の小随煩悩と大随煩悩の中の放逸と失念と不正知との十三は、貪等の根本煩悩の麤なる行の分位の差別である。 「無慚・無愧・掉擧・惛沈・散亂・不信・懈怠の七法は、別に体有りと雖も、是は前の根本の等流性なり、随煩悩と名づく。根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に。又唯だ四(無慚・無愧・不信・懈怠)のみ是れ実なり。」

 何故、二十の随煩悩であるのかは、上記の項を参照してください。

 『述記』の釈から、
 「論。此餘染法至如理應知 述曰。然此二十外餘染汚法。如邪欲等是此等流。等流者。是同類義。或此分位。體不離此。於此不信等實法上。假立所餘假法。又諸假法。於無慚等有體法上假立名此分位。分位差別故。或此等流。謂身・語業亦名隨煩惱。是此等流。諸隨煩惱所等起故。皆此所説二十中攝。隨其類別如理應知。勘八十*八一一此攝。即是此中不説大論邪欲等法之所以也。」(『述記』第六末。九十右。大正43・462b
 (「述して曰く、然るに、此の二十より外の余の染汚法は、邪欲等の如く、これは此の等流あり。等流とはこれ同類の義なり。或はこれが分位なり。体これに離れず。この不信等の実法の上において、所余の仮法を仮立す。また諸の仮法は無慚等の有体法の上において仮立す。これが分位と名づく。分位の差別なるが故に。或は此の等流なり。謂く身語業をまた随煩悩と名づく。これこの等流なり。諸の随煩悩に等起(とうき)せらるるが故に。皆この所説の二十の中に摂せらる。その類の別なるに随って理の如く知るべし。八十九を勘えて一々を此に摂す。即ち是れは此の論の中に、大論の邪欲等の法を説かざるの所以なり。」)
 二十の随煩悩以外に多く存在する随煩悩は、ある随煩悩は二十の随煩悩の分位仮立法であり、或は二十の随煩悩の同類等流であることを明らかにしているのである。
 此の項、引き続き読み解いていきます。
 

第三能変 随煩悩 第六 廃立を釈す。

2016-01-04 23:19:28 | 第三能変 随煩悩の心所
    日々新しき、いのちの奇蹟に、合掌。

 第六は、随煩悩を二十とのみ数える理由を説く。
 随煩悩の条件は、「一に根本煩悩に非ず。二に唯だ染なり。三には麤なるが故に。」と示されています。随煩悩の定義が示されます。
 「唯だ二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そ)なるが故なり。」(『論』第六・三十二右)
 (前科段で随煩悩は多数を数えると示してきたが、『論』には随煩悩の数は二十とのみ説かれいる。其の理由は、つまり随煩悩は煩悩ではないこと、ただ染であること、そして麤(粗雑)であるといことからである。)
 
 先ず、『述記』の釈を聞きますと、
 「論。唯説二十至唯染麁故 述曰。自下第六釋其廢立。謂有三義。貪等雖是隨。此中二十非煩惱故不説貪等。邪欲等法亦雖是隨。是別境法體通三性。此唯染故故不説彼。然失念等是癡分故説之。不爲念分故説也。以有癡分念攝在中無不定過。趣向前行等亦雖是隨。行相細故。此相但麁。是故具此三義。一非煩惱。二唯染。三麁故。唯説二十更不説餘。」(『述記』第六末・八十九左。大正43・462a)
 (「述して曰く、自下、第六に、其の廃立を釈す。謂く三義あり。(一)貪等も是れ随なりと雖も、此の中の二十は(根本)煩悩に非るが故に、貪等を説かず。(二)邪欲等の法も亦た是れ随なりと雖も、是れ別境の法にして、体は三性に通ず。此れ(随煩悩)は唯だ染なる故に、故に彼(邪欲等)を説かず。然るに失念等は是れ癡の分なるが故にこれを説けり。念の分と為すが故に説くに非ず。癡の分にして念を中に摂在すること有るを以て不定の過(とが)なし。(三)趣向前行等も亦た是れ随なりと雖も、行相が細なるが故に、此の相は但だ麤なり。是の故に此の三義を具す。一に(根本)煩悩に非ず。二に唯染なり。三に麤なり。故に唯二十のみを説いて更に余を説かず。」

 『述記』の釈で随分はっきりします。少し説明を加えますと。
 (1)に関しては、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見という根本煩悩も随煩悩と呼べるけれども、随煩悩は煩悩ではないという点から、随煩悩の条件から外されます。
 (2)に関しては、随煩悩は「ただ染である」ということですね。ただ染であるということは、三性に通じないことを意味します。従って、邪欲や邪勝解は随御煩悩と言い得るが、この邪欲や邪勝解は別境の心所の悪のものであって、三性に通じるものであるわけで、ただ染と云うわけにはいきません。不定も三性に通じますから除かれます。では何故、失念と不正知が随煩悩の中に入れられるのかという問いが出てきますが、念は別境の心所ですから、三性に通じます。しかし、失念は癡の一分として随煩悩であると説いています。また慧と癡の一分である不正痴も同様です。
 (3)に関しては、麤であう、つまり荒々しいことが随煩悩の性格である。細やかな煩悩は随煩悩とはいえないということですね。趣向前行は随煩悩ではあるが、行相が細やかである為に、随煩悩の中には入れられないとされます。この趣向前行ですが、昨日は『瑜伽論』の説明だけを挙げました。どういうことを云っているのかがはっきりしませんでしたのであえて解説しないでおきましたが、私たちが一番わからないところは、細やかに審らかに働く煩悩なんですね、そえがたとえ染なるものであっても、気づくことが殆ど不可能といるような煩悩です。例えば、涅槃と菩提を障える煩悩は随煩悩とはいえないのです。私たちが、経済一辺倒になり、それによって幸せがもたらされるという錯覚も当然なことなんですね。趣向前行の直接的な意味は、僧祇(比丘)や別人(在家者)が衣服などや、諸々の利養を受けたり、比丘や在家者が招待を受けることを趣向といい、この時比丘がこのような事柄に最初に進み出ること、つまり請われもしていないのに最初に進みでるとを前行といい、これが趣向前行の意味するところであろうと思います。布施と関わるようなことかもしれませんね。或は時と機の問題ですね。請われもしないのに、厚かましくも出しゃばるようなことでしょうが、これも随煩悩なんですね、ただ細やかに働いていますから随煩悩の中には入らないのでしょう。

第三能変 随煩悩 第五、随惑の名の通局(つうきょく)を解釈する。

2016-01-03 13:37:50 | 第三能変 随煩悩の心所
   
 
 通局(つうきょく) ― 通と局。広く包括することと、狭く限定すること。
  通は、随煩悩という名は煩悩をも含める。
  局は、煩悩以外の他の染汚の法をただ随煩悩と名づける。

 「随煩悩という名は亦煩悩をも摂めたり、是れ前(さき)の煩悩の等流性(とうるしょう)なるが故に、煩悩の同類たる余の染汙(ぜんま)の法をば、但随煩悩のみと名く、煩悩に摂めらるるものには非ざるが故に。」(『論』第六・三十一右) (随煩悩という名はまた煩悩をも含めているのである。これは前の煩悩の等流性で有ることから、煩悩の同類である他の染汚の法をただ随煩悩と名づける。この随煩悩は煩悩ではないからである。)

 文段は二つに分かれます。
 (1)「随煩悩という名は亦煩悩をも摂めたり。」
 (2)「是れ前(さき)の煩悩の等流性(とうるしょう)なるが故に、煩悩の同類たる余の染汙(ぜんま)の法をば、但随煩悩のみと名く、煩悩に摂めらるるものには非ざるが故に。」
 (1)は広範囲で語られます。随煩悩をも含めて煩悩と名づく。
 (2)は限定されて随煩悩とは、煩悩を除く、煩悩の同類等流性であう染汚の法を随煩悩と名づくのである。
 本科段は、随煩悩の使い方に二種あることを説明しています。これは、多数の煩悩があることや、二十の随煩悩の他にも多数の随煩悩が存在することを示しているわけです。

 「 論。隨煩惱名至非煩惱攝故 述曰。自下第五解隨惑名通局。八十八貪等亦名隨煩惱。對法第七亦有此義。煩惱皆隨。隨非煩惱。如彼法蘊足等廣解。謂忿等及六十二説。趣向前行等是煩惱同類。染汚法但名爲隨。煩惱等流故。不名煩惱非根本故 既有多種皆名爲隨。何故此中唯説二十。」(『述記』第六末・八十九右)
 (「述して曰く、自下は第五に、随惑の通局を解す。八十八に貪等も亦随煩悩と名づけたり。対法第七に亦此の義あり。煩悩は皆随なり。随は煩悩に非ず。彼の法蘊足等に広く解するが如し。謂く忿等と及び六十二に説く趣向前行(しゅこうぜんぎょう)等は是れ煩悩の同類なり。染汚の法を但名けて随と為す、煩悩の等流なるが故に、煩悩と名づけざるをば根本に非ざるが故に。すでに多種あり。皆名づけて随と為せば、何故に此の中に唯二十を説けるや。」)

 『瑜伽論』巻第六十二に「云何が名づけて随煩悩多しと為すや。謂く諂と誑と矯と詐と無慚と無愧と不信と懈怠と忘念と不定と悪慧と慢緩(まんかん)と猥雑(わいぞう)と趣向前行と遠離することを捨つる軛(やく。煩悩の異名)と、所学処に於いて甚だ恭敬せざると、沙門を顧みざると、唯活命のみを希い涅槃の為に出家を求めざるとあり。」
 慢緩 - だらけてたるんでいること。
 猥雑 - ごとごたと入り乱れているさま。
 趣向前行 - 「僧祇或は復た別人の諸の衣服(えぶく)等の所有る利養を受け、或は僧祇及び別人を請するを皆な趣向と名づく、若しくは諸の苾芻(びっしゅ。比丘)は是の如き事に於て最初に前行す、故に趣向前行と名づく。」
 
 六十二巻をみますと、慢緩(まんかん)と猥雑(わいぞう)と趣向前行等といった随煩悩も見られます。このような多数の随煩悩があることが解りますが、『述記』はここに問いを立てています。「皆名づけて随と為せば、何故に此の中に唯二十を説けるや」と。『論』では二十の随煩悩しか説かれていないのは何故であるのか、と。
 
 

第三能変 随煩悩 「与」・「並」・「及」の言について (1)

2016-01-02 12:21:24 | 第三能変 随煩悩の心所


 
『唯識三十頌』第十三頌第三句の「与」と第四句の「並」と第十四頌第一句の「及」という字の示す意味について。
 「与(よ)と並(びょう)と及(ぎゅう)という言は、随煩悩の、唯二十のみには非ずということを顕す、雑事(ぞうじ)等に、貪等の多種の随煩悩ありと説けるが故に。」(『論』第六・三十二右)
 (『唯識三十頌』第十三頌第三句の「与」と第四句の「並」と第十四頌第一句の「及」という字は、唯だ随煩悩の二十のみではないということを顕している。『雑事』(『雑事経』・雑事とは煩悩のこと)等には貪等の多種の随煩悩があると説かれているからである。)

  「論。與并及言至隨煩惱故 述曰。自下第四釋前頌言誑諂與害憍。無慚及無愧等。與・并・及言顯隨煩惱二十外有。如法蘊解雜事經中。有多隨煩惱。同大論八十2八卷・五十八卷亦引此經。然舊人不知。謂是雜藏。或謂毘奈耶中所説雜蘊。」(『述記』第六本末・八十八左。大正43・462a)
 (述して曰く、自下第四に前の頌に「誑諂與害憍。無慚及無愧等」と言うを釈す。與・并・及の言は随煩悩が二十より外にも有りということを顕す。『法蘊』(『法蘊足論』第八)に、雑事経を解す中(うち)に、多の随煩悩有るが如きと云う。大論(『瑜伽論』)八十九巻・五十八巻にも亦此の経を引くに同なり。然るに旧人は知らす。是れ雑蔵なりと謂う。或は毘茶耶の中に説く所の雑蘊なりと謂う。) 

 『頌』に「與(与)・并・及」の字が置かれているのかに言及しています。『頌』に説かれている随煩悩は二十数えられていますが、ただそれだけではなく多数あることを顕しており、諸文献(『雑事経』等)にもその証があると明らかにしています。
 『雑事』とは毘茶那中に於ける有非雑事品?或は『法蘊足論』の「雑事品」?でありましょうか。『瑜伽論』巻第五十八に「雑事の中に世尊の説きたまえる所の諸の随煩悩、広く説かば乃至、愁歎憂苦(しゅうたんうく)の随煩悩等、及び摂事分に広く分別する所の是の如き一切の諸の随煩悩は、皆な是れ此の中の四相の差別なり、其の所応に随って相摂すること応に知るべし。」
 随煩悩は『頌』では二十を数えるとしていますが、諸文献では多数あることを示しており、『頌』でも「與(与)・并・及」の字がそのことを示しています。では何故二十なのでしょうか。漠然として二十の随煩悩を数えるのでないでしょう。そこにはある一定のルールがあって、それに則って多数の随煩悩の中から絞りこまれたとみるべきでしょうね。
 次科段からその理由が説かれてきます。