唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 第六 廃立を釈す。 (2)

2016-01-06 23:02:00 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 二十の随煩悩が説かれていますが、其の他多くの染法は、二十の随煩悩の分位仮立法であり、(同類)等流であることを顕す。
 「此れより余の染法(ぜんぽう)は、或は此れが分位(ぶんい)なり、或は此れが等流(とうる)なり、皆此に摂めらる、其の類の別なるに随って、理の如く知る応し。」(『論』第六・三十二右)
 (二十の随煩悩以外の染法は、或は二十の随煩悩の分位である。或は等流である。その為にすべての染法はこの二十の随煩悩のなあに摂められるのである。その種類の別は理に従って知るべきである。)
 『成唯識論』で説かれる二十の随煩悩の、その他の染法は、
 (1) 随煩悩の分位仮立法である
 (2) 随煩悩の同類等流である。
      随煩悩の字を釈する中で、随煩悩は煩悩の分位仮立法か、等流法かといった分類に区別があることが述べられていました。(2015年5月31日の投稿)
      随煩悩は、「根本の等流性なり」と云われていますから、根本煩悩の等流であることが解ります。等流とは同類の意味なのです。等流性の条件なのですが、随煩悩個別の       体を持つものであるということでなければなりません。しかし、「根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に」と云われていますように、単独で生起       するものではなく、必ず煩悩を因として(煩悩を依り所として)生起するということに他なりません。
        分位仮立法に由る随煩悩 ― 十三
        等流性に由る随煩悩(実法) ― 七
       という二つの理由で随煩悩と名づけられています。
    等流としての随煩悩は、種子より生じた個別の体を持つものであって、分位仮立法としての随煩悩ではないということになります。しかし、煩悩を因(この場合のいな所依と    いう意味です。)として生起するものです。
 忿等の十の小随煩悩と大随煩悩の中の放逸と失念と不正知との十三は、貪等の根本煩悩の麤なる行の分位の差別である。 「無慚・無愧・掉擧・惛沈・散亂・不信・懈怠の七法は、別に体有りと雖も、是は前の根本の等流性なり、随煩悩と名づく。根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に。又唯だ四(無慚・無愧・不信・懈怠)のみ是れ実なり。」

 何故、二十の随煩悩であるのかは、上記の項を参照してください。

 『述記』の釈から、
 「論。此餘染法至如理應知 述曰。然此二十外餘染汚法。如邪欲等是此等流。等流者。是同類義。或此分位。體不離此。於此不信等實法上。假立所餘假法。又諸假法。於無慚等有體法上假立名此分位。分位差別故。或此等流。謂身・語業亦名隨煩惱。是此等流。諸隨煩惱所等起故。皆此所説二十中攝。隨其類別如理應知。勘八十*八一一此攝。即是此中不説大論邪欲等法之所以也。」(『述記』第六末。九十右。大正43・462b
 (「述して曰く、然るに、此の二十より外の余の染汚法は、邪欲等の如く、これは此の等流あり。等流とはこれ同類の義なり。或はこれが分位なり。体これに離れず。この不信等の実法の上において、所余の仮法を仮立す。また諸の仮法は無慚等の有体法の上において仮立す。これが分位と名づく。分位の差別なるが故に。或は此の等流なり。謂く身語業をまた随煩悩と名づく。これこの等流なり。諸の随煩悩に等起(とうき)せらるるが故に。皆この所説の二十の中に摂せらる。その類の別なるに随って理の如く知るべし。八十九を勘えて一々を此に摂す。即ち是れは此の論の中に、大論の邪欲等の法を説かざるの所以なり。」)
 二十の随煩悩以外に多く存在する随煩悩は、ある随煩悩は二十の随煩悩の分位仮立法であり、或は二十の随煩悩の同類等流であることを明らかにしているのである。
 此の項、引き続き読み解いていきます。