唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (5) 自類相応門 (1) 小随煩悩について

2016-01-14 22:16:30 | 第三能変 随煩悩の心所


三は、自類相応門になります。
 自類とは、同じ種類という意味、本科段では随煩悩同士という意味です。相応とは倶起する、同時に働くという意味んあり、自類相応を論ずるのは、同じ種類の随煩悩同士が相応するのか否かを論じる部門になります。つまり、随煩悩同士が同時に倶起するのか、倶起しないのかについて論じられます。
 三つに分けられて説明されます。(1)小随煩悩について (2)中随煩悩について (3)大随煩悩について、説明されます。
 最初に、小・中・大について説明しておきます。小は表面に現れてくるような煩悩をいいます。小さいということで間違いはないのですが、小は断じ易いという意味なのです。「行相が麤であり、猛々しい(行相麤猛、ぎょうそうそみょう)」のですね。ですからよくわかる随煩悩なのです。それに対して、中・大になるにつれ細・微細に働く随煩悩になり、心の奥底に横たわって見えてこないのです。非常に断じにくい煩悩になります。
 初は、小随煩悩について説かれます。
 「此の二十の中に小の十は展転(ちんでん)して定めて倶起せず、互い相違せるが故に、行相麤猛にして各々主たるが故に。」(『論』第六・三十二左) 
 (この二十の随煩悩の中の小随煩悩の十は展転(互いに関係し合う)して絶対に倶起しない。何故なら、小随煩悩の十は互いに相違するからである。その理由は、行相が麤であり猛々しく各々主として働いているからである。)
行相は認識する働きのことで、見分(行相見分)になります。また能縁の働きです。自からの中から起こってくる動きということになりますね。
 倶起しないのは何故かという問いに「体性相違するが故に」(『述記』)と答えています。また「何が故に爾るとならば」(なぜ体性が相違するのかといえば)、「行相麤猛(その働きはあらあらしく、猛々しい)にして、各々が主となって働くからである。」と答えます。
 小随煩悩の十は、その一々に主となって働くから並び生ずることはないといいます。互いに主でありますから、相容れないのですね。
 教証として、『瑜伽論』巻第五十五及び五十八に「忿等の十法は互に倶ならずと云えるが故に」と説かれていることを挙げています。
 
 第三門随煩悩の相応を示す。(『瑜伽論』巻第五十五の記述)
 「復次に、随煩悩は云何が展転して相応するや。まさに知るべし、無慚、無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、妄念、散乱、悪慧は一切の染汚心と相応し、睡眠、悪昨は一切の善、不善、無記と相応すと。所余はまさに知るべし互いに相応せずと。
 或は、「・・・十随煩悩は各別の不善心に起る。」(五十八)と。
 以上の理由を以て、小随煩悩は互いに並び立ち倶起することがないといいます。