唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (8) 自類相応門 (4) 会通 (1)

2016-01-19 22:27:46 | 第三能変 随煩悩の心所
  

  本科段は、護法正義である八遍染説の立場から、六遍染説及び五遍染説を会通します。
 先ず初めに六遍染説を会通します。ここは、六遍染師が五遍染師の説を会通する論法と同じようになります。
 
 六遍染師の説を述べ、五遍染師の説を会通するところに於いて、
 「第二説・第二師の説(六遍染説)は第七識と十九の心所が相応すると述べています。そしてこの中、不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知は遍染の随煩悩であることが明らかにされていますが、それでは何故、掉挙・惛沈の二の法は遍染の随煩悩ではないといえるのか、という問題がでてきます。
 「惛沈と掉挙とは、行相互に違えり、諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」(『論』第四・三十三左)
 (惛沈と掉挙とは行相が互いに相違しているからである。このために諸々の染心にすべてよく遍く起こるものではない。)
 惛沈と掉挙が遍染の随煩悩ではないことの所以を説明します。惛沈とは「惛昧沈重の義」といわれています。惛沈の行相は「内相なり下って起こす」と。内面に向かい、沈むように重い働きがある。それに対して、掉挙の行相は「外相なり、高く生ず」といわれ、外に対するものであり高く挙がる、と説明されます。
 「行相違せるを以て一を起こす時は一無し。諸の染心に皆能く遍く起こすものには非ず。掉挙は外相なり高く生ず。惛沈は内相なり下りて起こる。」(『述記』第五本・五十五左)
 このように、惛沈と掉挙は内と外、下と上というように行相が相反するわけです。「一を起こす時は一無し」といわれますように、惛沈が生起すれば掉挙は生起せず、掉挙が生起すれば 小沈は生起しないと。そのために「諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」といい、ともに遍染の随煩悩ではないというのである。
 「若し爾らば何が故に『対法』等に五のみ説いて遍と為る。」(『述記』)
 (若しそうであるならば、どうして『対法論』(『雑集論』巻第六)等に五のみ(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸)染心に遍在すると説かれているのであろうか。)
 この問に対して六遍染師が答えます。六遍染師の主張は遍染の随煩悩は不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六つであるとする。若しこの六遍染師の主張が正しいのであれば、『対法論』等に五のみ染心に遍在すると説かれているのか、という問題です。
 五遍染師の論拠として『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六の記述が『論』に述べられています。(2011年10月18日の項を参考にしてください。)
 「集論に説くが如し。惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)と。
 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」)
 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。
 ― 五遍染を説く文献を会通する ― 科段に於いて、
 「論に、五の法染心に遍すと説けることは、解麤細に通ずると、唯善の法に違せると、純の随煩悩なると、二性に通ずるとの故なり。」(『論』第四・三十四右)
 (『論』に「五つの法が染心に遍在する」と説かれていることは。行相が麤と細に通じることと、善の法に相違することと、純随煩悩であることと、二性(無記・不善)に通じることの義に依ってである。)
 『対法論』巻第六に四義をもって遍染の別義をあげて説明されています。今は『述記』の記述より説明しますと、
 「述して曰く、彼の論に遍と言うは四義に遍ずるを以てなり。      
 (1) 一には麤・細に通ず。忿等の十を簡ぶ。唯麤事なるが故に。     
 (2) 二には唯善法に違せり。即ち不信は信に翻じ懈怠は精進に翻じ惛沈は軽安に翻じ掉挙は捨に返じ放逸は不放逸に翻じ来るということを明して、即ち散乱の定の数より来るを簡ぶ。設い別に体有るにも、所障の定は三性に通ずるが故に唯善に違するのみならず。忘念・悪慧・邪欲勝解も彼の所翻に随って理いい亦然るべし。並に別境の数に翻じて来るが故に。
 (3) 三には純随煩悩とは根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ。彼をも亦通じて随煩悩と名づくる故に。貪等は唯善の中の無貪等のみに違すれども、然も純の随に非ざるが故に今簡ぶなり。
 (4) 四には二性に通ずとは無慚と愧とを簡ぶ。
 斯の四義に由っての故に 『対法』 には五は染心に遍ずと説く。但染心には即ち皆有るには非ず。」(『述記』第五本・五十六右)
 というものです。四義の別義に由って「五つの法が染心に偏在する」と説かれているのであって、「染心には即ち皆有るには非ず」と。実際の遍染の随煩悩を挙げているものではないといいます。別義とは遍染の随煩悩の条件ですね。それに四つあるということです。
 一番目は「解(行相・見分の働き)が麤と細に通じること。これによって行相が麤のみである忿等の十が遍染から除かれる。細に通じないからである。
 二番目は「ただ善の法に相反すること」。随煩悩が善法を正反対にしたものでなければならない。不信―信、懈怠―精進、惛沈―軽安、掉挙―行捨、放逸―不放逸とそれぞれ善の心所を翻じたもの。しかしその対象が三性に通じて善法を翻じたものといえない心所がある。従って三性に通じるものを除くという条件がつきます。散乱は定を翻じたものではあるが、所障の定は三性に通じる為に散乱は除かれる。同様に忘念・悪慧(不正知)・邪欲・邪勝解も染汚性であるが除外される。
 翻ずるとは? - 正反対にしたもの。ひるがえすこと。
 三番目は「純随煩悩であること」。純随煩悩とは純然たる随煩悩であり、護法の正義である二十の随煩悩を指します。「唯二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯染なり、麤なるが故なり。」(『論』第六・三十二右))。二十の随煩悩の条件は一に根本煩悩ではないこと。二には、唯染であること。三には、行相が麤であること。詳しくは2010年3月1日の項を参照してください。「根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ」
四番目は「二性に通じること」。無記と不善(悪)に通じることによって、無慚と無愧が除外される。(2010年10月15日の項を参照してください。)
 五遍染を説く文献は以上述べてきた通り、別義によって選び出されたものであって、実際に染心に遍在することを述べているものではなく、実際の六つを説く随煩悩と矛盾しないと会通しています。」

 以上をふまえて本科段を読み解きますと、
 「有る処に六のみ染心に遍すと説けるは、惛と掉との増せる時には倶起せざるが故なり。」(『論』第六・三十三右)
 (有るところに「六つの随煩悩のみが染心に遍く存在する」と説かれているのは、惛沈と掉挙の行相が共に増大する時には倶起しないと説かれているからである。)
 惛沈と掉挙の行相が増大する時は倶起しないが、しかし一が増大する時は一は劣であって、両者の体は倶起しているわけですから、実際は八遍染なのですね。 (つづく)

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