唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 「与」・「並」・「及」の言について (1)

2016-01-02 12:21:24 | 第三能変 随煩悩の心所


 
『唯識三十頌』第十三頌第三句の「与」と第四句の「並」と第十四頌第一句の「及」という字の示す意味について。
 「与(よ)と並(びょう)と及(ぎゅう)という言は、随煩悩の、唯二十のみには非ずということを顕す、雑事(ぞうじ)等に、貪等の多種の随煩悩ありと説けるが故に。」(『論』第六・三十二右)
 (『唯識三十頌』第十三頌第三句の「与」と第四句の「並」と第十四頌第一句の「及」という字は、唯だ随煩悩の二十のみではないということを顕している。『雑事』(『雑事経』・雑事とは煩悩のこと)等には貪等の多種の随煩悩があると説かれているからである。)

  「論。與并及言至隨煩惱故 述曰。自下第四釋前頌言誑諂與害憍。無慚及無愧等。與・并・及言顯隨煩惱二十外有。如法蘊解雜事經中。有多隨煩惱。同大論八十2八卷・五十八卷亦引此經。然舊人不知。謂是雜藏。或謂毘奈耶中所説雜蘊。」(『述記』第六本末・八十八左。大正43・462a)
 (述して曰く、自下第四に前の頌に「誑諂與害憍。無慚及無愧等」と言うを釈す。與・并・及の言は随煩悩が二十より外にも有りということを顕す。『法蘊』(『法蘊足論』第八)に、雑事経を解す中(うち)に、多の随煩悩有るが如きと云う。大論(『瑜伽論』)八十九巻・五十八巻にも亦此の経を引くに同なり。然るに旧人は知らす。是れ雑蔵なりと謂う。或は毘茶耶の中に説く所の雑蘊なりと謂う。) 

 『頌』に「與(与)・并・及」の字が置かれているのかに言及しています。『頌』に説かれている随煩悩は二十数えられていますが、ただそれだけではなく多数あることを顕しており、諸文献(『雑事経』等)にもその証があると明らかにしています。
 『雑事』とは毘茶那中に於ける有非雑事品?或は『法蘊足論』の「雑事品」?でありましょうか。『瑜伽論』巻第五十八に「雑事の中に世尊の説きたまえる所の諸の随煩悩、広く説かば乃至、愁歎憂苦(しゅうたんうく)の随煩悩等、及び摂事分に広く分別する所の是の如き一切の諸の随煩悩は、皆な是れ此の中の四相の差別なり、其の所応に随って相摂すること応に知るべし。」
 随煩悩は『頌』では二十を数えるとしていますが、諸文献では多数あることを示しており、『頌』でも「與(与)・并・及」の字がそのことを示しています。では何故二十なのでしょうか。漠然として二十の随煩悩を数えるのでないでしょう。そこにはある一定のルールがあって、それに則って多数の随煩悩の中から絞りこまれたとみるべきでしょうね。
 次科段からその理由が説かれてきます。