唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (9) 自類相応門 (5) 会通 (2)

2016-01-22 21:08:00 | 第三能変 随煩悩の心所


  大乗仏教興起は、仏滅後六七百年頃から千二百年頃までが源流であり、中観派と唯識派の二つ宗派が並び立っていた時代でもあったわけです。唯識を大成された無著・世親菩薩の時代は、中観・唯識が両立していたのですね。無著菩薩は龍樹菩薩の『中論』に依って「有無の見を催破」し、阿頼耶識縁起を立て、世親菩薩は万法唯識・阿頼耶識縁起を大成されました。しかし仏滅後千二百年戒賢・智光の時代に至って中観・唯識が別個の宗派として互いに敵視するようになってくるわけです。
 時代は更に遡って、隋の時代、中国天台宗の智538-598という人によって五時八教という教相判釈が完成されました。遣唐使として天台山に上った最澄がこの五時教判を持ち帰り、比叡山延暦寺で我が国の天台宗を開創されるわけです。以後鎌倉時代に至って諸宗の開祖が新仏教を興起されるのですが、ここに、何故諸宗が開創されるのかという疑問が起こったのです。いうならば、釈尊のお言葉を編纂した阿含経典で十分ではないのかということなんです。
 でも南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)そして平安仏教(天台宗・真言宗)を経て鎌倉新仏教へ、貴族仏教から庶民の仏教へ大きく変遷していきます。自利利他円満を目指す大乗仏教の根幹から機の問題に正面から取り組まれたからでしょうん。このことは、正像末の三時史観とも関連するわけですが、八万四千の法門は、八万四千の機の問題であったということを今さらながら気づかせていただきました。問題は、自己に執着せざるを得ない自己とは何者という問いが八万四千の法門を生み出してきた背景になるのでしょ。
 名聞・利養・勝他という刃を振りかざして他を裁いてはいけない。また我田引水の法を刃にして機を裁いてはダメだということですね。逆に何故、法に背くのかを問わなくてはならない、どこまでも、どこまでも法に背いていく自己を明らかにしなくてはならないと思うわけです。
 人は人を傷つけあうことに翻弄するのは何故?恨みはまた新たな恨みを生み出してるのは何故?自分さえよければ、他はどうなってもいいと思うのは何故?際限なく何故?という問いが出てきます。
   
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 五遍染説を会通します。
 「有る処に但五のみを染に遍すと説けるは、惛と掉との等きいい唯善に違するを以ての故なり。」(『論』第六・三十三右)

 (有るところに「ただ五つの随煩悩のみが染心に遍く存在する」と説かれているのは、惛沈と掉挙など五つの随煩悩はただ善のみに違背するからである。)

 遍染説は、五遍染説、六遍染説、十遍染説、そして正義である八遍染説が説かれてきます。ブログでは2011年10月18日より随時説明をしております。
 今日は、五遍染説を復習します。
 
 五遍染師の説は、四つに分かれて説明されます。一は宗を標す(遍染の随煩悩は五つであるということを表す。) 二は証を引く。 三は染心の位には必ず五つの随煩悩があることを説明する。 四は問題点を会通する。
 「此れが中に、有義は、五の随煩悩いい遍じて一切の染心(ぜんしん)と相応す。」(『論』第四・三十二左)
 (第二師の中の有義は五の随煩悩が遍く一切の染心と相応する、と主張する。)
 第二師中の有義は第二師中の第一師の説となります。その主旨は五つの随煩悩が遍く一切の染心と相応すると主張することから、五遍染師とよばれます。
 染心(ぜんしん) - 染汚心ともいう。煩悩とともに働く心で不善と有覆無記の心をいう。
 「余触等」の義の「余」とは「故此余言顕随煩悩」と、随煩悩を指すのは四師の説では共通しているのですが、『頌』の文中の「余」とは具体的にどれを指すのかによって意見が相違します。
 第二師中の第一師の説(五遍染師・五遍染師説)は第七識と相応する随煩悩は五つであるという説になります。この五つの随煩悩とは、 小沈・掉挙・不信・懈怠・放逸を指すといいます。証を引く『論』の中で明らかにされます。
 証拠を引く。(『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六・大正31・723a)
 「集論に説くが如し。 小沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)
 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」と。)
 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。この文を以て文献的証拠として五遍染師が主張する説は正論であるといいます。
 第二師の中の第一師の第七識と相応する心所は根本の四煩悩と遍行の五と別境の中の慧と随煩悩の五の十五の心所が相応することになります。
三は理を立てる。(五つの随煩悩が遍染であることを説明する。)
 「若し無堪任性(むかんにんしょう)の等きに離れては、染汚性と成るということ、是の処無きが故に。」(『論』第四・三十二右)
 無堪任性(惛沈)等を離れては第七識が染汚性となるということ、その理がない。) 
 無堪任性 - 身心が重く不活動であること。思うように身心が働かない状態をいう。不善の心所である惛沈のありよう。
五遍染師の主張は「無堪任性等を離れて第七識が染汚性となることはない」と述べていますが、この中「等」は等取、これら五つの随煩悩(惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸)を指すといいます。これら五つの随煩悩が働くことによって第七識は染汚性となるというのです。

 「述して曰く、下は理を立つるなり。是の『雑集論』の文は此れと同なり。謂く 惛沈等を離れては則ち染を成ぜず。惛沈は是れ無堪任なり。余の四を等取す。何を以てか知るとならば、『対法』第一に云く、「惛沈とは無堪任を性と為す。掉挙とは寂静ならざるを以て性と為す。不信とは不忍等を性と為す。懈怠とは策励(さくれい)せざらしむを以て性と為す。放逸は有漏を防げざるを以て性と為る故なり。若し無堪任に離れては染の性成ぜざるが故に。」(『述記』第五本・四十六左)
 (惛沈等を離れては第七識は染汚性とはならない。その理由は 惛沈は無堪任性だからである。余の四も同様である。何故ならば『対法論』第一に述べられている。「惛沈は身心が重く不活動であり、思うように身心が働かないので理や善を勤められない働きを持つ。また掉挙とは心を寂静にしないことを本質的な性とする。不信は「実有を信忍しない」・「有徳を信楽しない」・「有力を信じて希望しない」ことの三つを本質的な性とする。懈怠は善に向かって心を策励しないことを本質的な性とする。放逸は有漏を妨げないことを本質的な性とする。無堪任を離れて第七識が染汚性になることはなく、これら五つの随煩悩が働くことによって第七識は染汚性となるのである、と主張する。)
• 実有を信忍しない - 実際に存在する事物とその事物を支配する真理とを信じないこと。
• 有徳を信楽しない - 三宝の徳を信じない。
• 有力を信じて希望しない - 人間には善法を行う力があると信じない。 
 煩悩が生起する時には五つの染汚の随煩悩が存在することを説明する。
つまり、「煩悩の起こる時には、心既に染汚なり。故に染心の位には必ず彼の五有り。」(『論』第四・三十二右)                   
 (煩悩が起こる時には心はすでに染汚である。故に染心の時には必ず五つの随煩悩が存在するのである、と。)
 「述して曰く、煩悩の起こる位は、心を染汚と称するが故に、染心の位には定んで彼の五有り。何の所以有る。」(『述記』第五本・四十七右)
 その理由を述べる。
 「煩悩の若し起ることは必ず無堪任と囂動(ぎょうどう)と不信と懈怠と放逸とに由るが故に。」(『論』第四・三十二右)
 (何故ならば、煩悩が起こることは必ず無堪任(惛沈)と囂動(掉挙)と不信と懈怠と放逸とに由るからである。)

 以上が五遍染師の主張になります。従って五遍染師は八遍染説を否定するという立場です。
 ここで本科段では、八遍染説から、五遍染説を会通してくるのです。会通の内容は、「惛と掉との等きいい唯善に違するを以ての故なり。」という一文になります。 (つづく)