唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 第六 廃立を釈す。 (3)

2016-01-08 22:59:25 | 第三能変 随煩悩の心所


 随煩悩は二十数えられますが、論書等には、多数の随煩悩の存在があることが語られています。ここで問いが出てきたのですね。『論』には随煩悩の数を二十としたのか、その他の随煩悩は何処に摂めれるのかということです。この問いに答えているのが本科段になります。
 前回も述べましたが、二十以外のその他の随煩悩は、二十の随煩悩の中のいずれかに分位仮立(分位等流)されたもの、或は、二十の随煩悩の中のいずれかに同類等流されたものである。
 従って、随煩悩が多数存在しても、二十の随煩悩の中に摂められるということになります。随煩悩の定義(三つの条件)が示されていましたが、この定義に適うものが二十の随煩悩なのです。
 三との条件、
 (1) 煩悩ではない。以前にも説明しましたが煩悩も随煩悩であるという表記があるのです(随煩悩と云う名は亦煩悩をも摂めたり)。しかし、貪等の煩悩は根本煩悩ですから、随煩悩という場合は除かれるという意味になります。
 また、随煩悩は煩悩ではないということです。煩悩はすべて随煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とは言わず、随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢すのですね。悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからである。
 (2) ただ染である。三性に通ずるものではないということ。
 (3) 麤(そ。あらい)である。行相が麤であるもの。従って、行相が細なるものは除かれるのです。

 多数宇の随煩悩が存在するということですが、『論』では細密に分類はされいませんが、「その類の別なるに随って理の如く知るべし」と。分位のものであるのか、同類等流のものであるのかは理の通りに考えなさい、と教えています。
 それが、『本頌』に説かれている「与と並と及」の字の意味するところなのです。

 後半は、諸門分別が十三門に分かって説かれます。概略は2010年3月1日の投稿より記載しています。