唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (3) 仮実分別 (2)

2016-01-12 23:27:39 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 雑感)
 人生、未だ見たことのない世界に向かって歩いているんだもの、悩み苦しむのが本性でしょうね。しかし、悩み苦しんでいる自分に出会ったことは貴重な財産。僕はですが、常に人前では仮面をかぶっています。仮面の内側で、生きるのしんどいなという自分がいます。何もかも投げ捨てたら楽になれるのに、と思うことしばしばです。しかしね、そんな時、こんな自分でも生きていることに価値があるんやと知らされるんです。自分がこの世に生を受けるのに、どれほどのエネルギーが費やされたことか。
 今日有る御老人に貴重な話を伺いました。一人暮らしで身体に障害を持っておられて、生活保護を受けながら日暮をされているんです。「自分はこの年まで、まさか障害をもって生活保護を受けて暮らさなければならないとは思ってもみなかった。もともと身体には自信があったし、それなりに稼いでいたので、そのすべてがあてにならないと分かった時は絶望のどん底に突き落とされたように思えた。今でも、死にたくないから、食べることだけが毎日の日課、何の為に生きてきたのか、生きなければならないのか。そんなこと考えたら生きておられん。でもね、なんか、なんでこんなんになってしまったのかと思うことが有るんです。去年のクリスマス、一人の部屋でクリスマスは嫌だから夜の街にでかけたんです。街中を見ると、みんな幸せそうに見えてきて、自分がみじめで情けなかったですわ。」と。僕は父の生前の言葉と重なって、「人間として」の原点を見つめる、そんな眼差しをもてる人になってや、というメーセージをいただきました。返す言葉は見つからなかったですが、「くれぐれも命だけは大切になさってください」と伝えました。反面、僕は本当に命を大切にしているのだろうか?大きな問いをいただきました。

 仮実分別門 (2)
 『述記』の釈より、
 「論。如是二十至如前應知 述曰。自下第二諸門分別。諸門分別中。別以十三門分別。第一假實分別。此忿等小十大中忘念・放逸・不正知此無異諍。對法第一云當知忿等皆是假有。此雖總言各別之中有實假者。又隨他相總名假有。如此等十三。他少分故名假。如餘七法無慚・無愧・不信・懈怠定是實有。隨他相説亦名爲假。前之十三假。後之四種實。教理成故。五十五説無慚等四實物有故。凡世俗者亦有是假有。對勝義爲言但言世俗。而體實有。此等言世俗。對勝義爲論。以隨他相而體非假。掉・惛・亂三。有義是假。有義是實。如前説故今取實者爲勝。上雖一一別明。未總顯二十中幾假實故。今總辨之。」(『述記』第六末・九十左。大正43・462b)
 (「述して曰く、自下第二に諸門分別なり。諸門分別の中、別に十三門を以て分別す。第一に假實分別なり。此の忿等の小の十と、大の中忘念・放逸・不正知と、此れ異の諍無し。對法の第一に云く、當に知るべし。忿等は皆是れ假有なり。此は総の言と雖も、各別の中に実なると假なるもの有り。又他の相に随って総じて假有と名けたり。此の如き等の十三は他の少分なるが故に假と名く。余の七法の如き、無慚・無愧・不信・懈怠(惛沈・掉挙・散乱)は定めて是れ實有なり。他の相に随って説かば、亦名けて假と為す。前の十三は假、後の四種は(中惑の二と大惑の中の不信と懈怠)は実なり。教と理と成ぜるが故に。(『瑜伽論』)五十五に無慚等の四は實物有なりと説けるが故に。凡そ世俗のものにして、亦是れ假有なること有り。勝義に対して言を為す。但だ世俗と言うは而も体は実有なり。此れ等を世俗と言うは勝義に対して論を為す。他の相に随うを以て而も体假には非ず。掉・惛・亂の三は、有義は是れ假という。有義は是れ実なりという。前に説けるが如くなる故に。今は実を取りて勝と為す。上に一々別に明かすと雖も、未だ総じて二十の中に幾が假實と云うことを顕さざるが故に、今総じて之を辨ず。」)
 
 「掉・惛・亂の三について」は異説があり、護法は実有であるといい、これが正義になるというのが法相教学です。また、『雑集論』巻第一と『瑜伽論』巻第五十五に詳細が述べられています。
 遍行の五は実法。
 別境の五は実法。
 善の心所の、信と慚愧と無貪等の三根と精進と軽安は実法であり、不放逸と行捨と不害は仮法になります。
 煩悩の心所の中、三毒の煩悩と慢と疑は実法であり、悪見は悪慧の一分であり仮法になります。
 随煩悩の中、小随煩悩の十は仮法、中随煩悩の二は実法、大随煩悩の掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱は実法であり、放逸と失念と不正知は仮法になります。
 不定の四の中、悔と眠は実法、尋・伺は仮法
 であると教えられています。
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