唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (38) 五受相応門 (2)

2014-08-15 11:11:53 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 答。

 「貪・瞋・癡の三は、倶生にもあれ分別にもあれ、一切五受と相応す容し。」(『論』第六・十八右)

 貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩は、倶生起のものであれ、分別起のものであれ、すべて五受と相応するものである。

 ここに至ってですね。なぜ十の煩悩のなかで、特に貪・瞋・癡の三が根本煩悩と呼ばれ、三毒の煩悩として呼ばれているのかがはっきりしてきます。つまり、倶生起・分別起において、すべて五受と相応するものが貪・瞋・癡なんですね。恒審思量ですね。生まれ持ったものとして、種子ですね。「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別」として、「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」。後天的な教えや躾によることなく、任運に生起する煩悩が貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしてくるわけです。

 大乗と小乗部派との説の相違がありますが、その辺の事情は『述記』に詳細が説かれています。

 「論。此十煩惱何受相應 述曰。第四諸受相應門。此問起 論。貪瞋癡三至五受相應 述曰。下文有二。初實義。後麁相。實義中有四。一明貪・瞋・癡。二明慢。三疑・及三身。四身・邊見。今初也。此之三根倶生・分別。一切容與五受倶起。對法第七・大論五十五。貪唯喜・樂・捨者。五十*五云。此據多分相應道理。隨轉門説諸煩惱。今據究竟。應准此會。此與五十九同。彼云貪等通六識。倶生者與一切受相應故。分別貪等。彼一一自作法出行相。然今此中總解二種貪等行相 下逐難解之。與憂・苦倶。謂別小乘故。」(『述記』第六末・三十八左。大正43・451b) 

 初(はじめに)、実義門によって、五受との相応について説明される。
  (1) 明貪・瞋・癡(貪・瞋・癡と五受の相応について)
  (2) 明慢(慢と五受との相応について)
  (3) 疑及三見。(疑と邪見・見取見・戒禁取見の三見と五受の相応について)
  (4) 身・辺見(薩迦耶見と辺執見と五受との相応について)

 後(後半は)、麤相門により説明される。

 本科段は初である。「此の三根は倶生にもあれ、分別にもあれ一切は五受と倶起す。対法の第七、大論の五十八に、貪はただ喜・楽・捨のみなりとは、五十八に云く、此は多分に相応する道理・随転理門に據って、諸の煩悩を説く。今は究竟するに據る。此に准じて会すべし。此(『論』)は五十九と同なり。彼に云く、貪等は六識に通じ倶生のものならば、一切の受と相応するが故に、分別の貪等を彼に一々に自ら作法して行相を出せり。然るに今此の中には総じて二種の貪等の行相を解す。下は難に逐って之を解す。憂苦と倶なるは、謂く小乗に別なるが故に。」

  •   作法(サホウ) - 三支作法の作法。宗(主張命題)を述べること。

 「憂苦と別なるが故に」ということが問題となるわけです。大乗では五受相応とするということなのですが、小乗部派では、貪が憂受や苦受と相応するとは認めていないのですね。この問題点を次科段から会通してくるのです。例えば、「貪は違縁に会う時には、憂受や苦受と倶にあるからである」と。

 『演秘』(第五末・八左。大正43・922a)の所論は、

 「論。貪嗔癡三至五受倶者。五十九中。分別貪等樂等相應別別作法。即此論云貪會違縁嗔遇順境略已攝彼。餘准可尋。故不引也。」

 (「論に、貪・瞋・癡の三はと云うより五受倶というに至は、五十九(大正30・627c)の中に、分別の貪等の楽等と相応することを別々に作法せり。即ち此の論(『瑜伽論』)に云く、貪は違縁と会えるときと、瞋は順境に遇えるときと、略して已に彼を摂めたり。余は准じて尋ぬべし、故に引かざるなり。」)

 本科段に入る前に、十の煩悩をみてきました。そしていろんな角度から十の煩悩がどのように作用していくのかを諸門分別として整理されているわけです。その第一番目が

 「是の如き総と別との十の煩悩の中に。六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に」

 と。ここに十の根本煩悩が、倶生と分別起に分けられていました。先ず、煩悩に倶生起と分別起の二つがあるということです。倶生起は身と倶である、身と倶に煩悩を生まれもって持っている。分別起は後天的な煩悩であるということですね。ですから「さるべき業縁のもよおせば」というのは任運にということで、倶生起であるということになりましょうね。それに対してですね、唯円の「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」という親鸞聖人に対しての返答は分別起に由るわけでしょう。そして分別起が破られてくる。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」と、倶生起の煩悩を見据えておいでになりますね。それではその頂いた煩悩をどうするのかという問題が出てきますが、倶生起の煩悩が本願によって見破られたということが先ずあります。「ただ念仏」において煩悩が破られてくるということが起ってくるんですね。聖道においてはこの倶生起の煩悩を修道において断ずることが大きな課題になるわけでしょう、しかし真宗も同じなんですよ。真宗における修道は聞法です。聞法において倶生起が破られてくるのか、どうかが大きな課題になりますね。破られた時、それが「念仏もうさんとおもいたったとき」ですね。即ち摂取不捨の利益にあずかる、ということになりましょう。転悪成徳正智をいただく、いただくということは、倶生起の煩悩を背負って生きることに他ならんのでしょう、そこにですね、自分の居場所がある、それが地の問題になると思うんですね。

 ここでは、分別起の煩悩は十の煩悩全部ですが、倶生起の煩悩は貪・瞋・癡・慢。それから我見と辺執見、これらは倶生起の場合もある、ということです。

 そして次の科段にですね、

 「此の十の煩悩は何れの識と相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂く貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に。」

 蔵識と倶に働く煩悩は無いということ。末那識と倶に働く煩悩は四つ。第六意識と倶に働く煩悩は全部。五識と倶に働く煩悩は貪瞋癡の三つであることが明らかにされたのですね。五識は無色透明、純なるものですから阿頼耶識と同じですね。この五識に色をつけるのが第六意識なんですね。それが貪瞋癡の三つであるというのですね。五倶の意識と云っていますが、五識がはたらいているのは、いつでも第六意識の影響下にあるということになります。

 大事な所は、蔵識には全無し、というところですね。深層意識の根本である阿頼耶識に煩悩は無いということが説かれているわけですが、ここも大事なことを教えていますね。

 そして本科段になります。「この十の煩悩は何れの受と相応するや」。貪瞋癡の三は倶生・分別に通じて五受すべてに相応すると、明らかにされたのです。

 倶生・分別に通じ、五受と相応するのは貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしたわけです。これが三毒の煩悩であるということの所以になりましょうかね。

 次科段は、小乗部派が説くことのなかった、貪が憂受・苦受と相応することにおける問題点を説明していきます。