以前の投稿と重なりますが、「末那には四有り」といわれています。四とは我癡・我見・我慢・我愛。末那識は此の心所と共に働くのです。いわゆる我執です。自己執着心ですね。これが微細に働くといわれているのです。これが倶生起だと。そして第六意識と共に働く十の煩悩は荒々しく働く、これが分別起、此の十の煩悩がもう一度我執という根本煩悩に染汚されて、気づかれないように微細に恒にですね、寝ても覚めても間断なく働き続けるのです。第六意識は有間断です。寝ている時には働かないのですね。意識に上に働く煩悩はある程度は自覚できるのでしょうが、末那識相応の煩悩は自覚不能です。自覚したその足元に我執がはたらいていますからね。自覚もまた我執なのです。いわば「自己中だな」と思う心が自己中なのです。この心をはっきりと第二能変として独立させたのが世親の『唯識三十頌』なのですね。そして第七識であると位置づけたのが『成唯識論』であるわけです。「是の識をば聖教に別に末那と名く。恒に審らかに思量すること余の識に勝れたるが故に」といわれています。恒審思量がこの識の性であり相でもあるわけです。私には気づかない心の深いところで自己を思い続けるエゴイズム性、恒に(ぴんと張りつめてたるまない心)審らかに(細かいところまで明らかにする心)自分にとって何が利益になるのかを思い量っているのが末那識といわれるのです。後に詳しく考察していきたいと思っています。ここではこの末那識から煩悩が働くのであるということをいっています。「蔵識には全に無し」といわれますから、命の無記性の上に私たちは我執の心を働かせているのです。『法相ニ巻鈔」にこのような言葉が語られてありました。「今此の煩悩・随煩悩は其の性必ず染汚(ぜんま)也。染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆、穢らはしき心あるが故に染汚性の法と名づく」と。煩悩・随煩悩の性は「けがれ」ているということです。心を穢し濁すことであると。そしてその元にあるのが我執なのです。我執は無いにも拘わらず有ると思う思いが有る。有ると考えるから我執というのです。有ると思う想いを見というのですね。悪見です。何故このようになるのかと言いますと、私たちは無始以来本当の自己に出遇っていないのですね。真の自己を知らないから自己の思いを自己だと錯覚しているのです。これが我執であり我見なのでしょう。所依が我癡、自己に対しての無明ですね。こういうのを顛倒(てんどう)というのでしょう。
親鸞聖人の罪の捉え方は徹底した罪の自覚です。「蛇蠍姧詐(じゃかつかんさ)の心にて」「悪性さらにやめがたし」「無慚無愧のこの身にて」と、無知を知ったらどうにかなるというような質ではなく、もうどうにもならないというような「無有出離之縁」という自覚ですね。
この自覚が明るいんですね。暗さは微塵もありません。自覚の裏打ちが、康元二歳、親鸞聖人八十二歳の御時の二月九日夜の寅時夢告云の御和讃によく表れています。
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
その後の御歳八十八歳に書き記されました御和讃『正像末和讃』ですが、悲嘆と法悦のハーモニーが織りなす信心の世界が見事に表現されています。
語註ー 蛇蠍姧詐(毒をもった蛇や蠍のようなもので、わるがしこく、いつわりだけの心しか持っていない自分であるという意)
次科段は、第四に諸受相応門が説かれます。