昨日の坊主バーは、早くから京都(某)大学四回生の女子五人組グループがお見えになり、また多くの方のご来店もあって、仏教談義の中、有意義な一日を過ごさせていただきました。有難うございました。お盆の期間中ということもあり、『盂蘭盆会経』(偽経)から、目連尊者のお話をさせていただきました。
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部派では認めていない、貪が憂受や苦受と相応すると云う問題点を会通します。
「貪は違縁(イエン)に会えるときには、憂苦(ウク)と倶(ク)なるが故に、瞋は順の境に遇えるときには、喜(キ)と楽(ラク)と倶なるが故に。」(『論』第六・十八右)
貪は違縁(心に違う縁)に会う時には、憂受や苦受と相応するからである。
瞋は順の境(心にかなう対象)に遇う時には、喜受と楽受と相応するからである。
貪欲は対象を貪り執着する心所ですね。対象を貪るということは、対象をみて貪着を起こすことを喜ぶ心所でもあるわけです。それに違う縁に会うことは、対象を貪ることが出来なくなるわけですから、憂受・苦受を必然として招来するということなのですね。
貪りの対象の代表は、名聞・利養・勝他ですね。これが失われることは耐え難いものなんですね。執着する対象がなくなることは、貪りが否定されることになりますからね。
これもですね、深い問題を抱えています。正法に遇うことが無い限りですね、私は貪・瞋・癡を依り所をして生計を立てています。ですから、喜怒哀楽という感情(感受)の元は、貪・瞋・癡であるわけです。順境に遇える時は、喜び楽しいわけですが、ひとたび逆境(違縁)に遭遇しますと、一変します。心は暗く、憂い、悲しみ、そして苦痛を感じてきます。
どうでしょうかね、我が身に引き当てて考えてみますと(?ここにはもっと深い煩悩が働いているわけですが)ああ、その通りやな、とは思うわけです。その思うのが、思量なんですね。ですから、本当は、貪・瞋・癡は見えていないのです。
厄介なんです。納得するのも貪の働きなんですね。納得するということが一つの順境になって、納得したことを貪り、執着するという複雑さをもっています。
『述記』・『樞要』・『了義燈』から、各々の所論を聞いてみますと、
『述記』(第六末・三十九右。大正43・451b)より、
「論。貪會違縁至喜樂倶故 述曰。逐難釋也。且於欲界。五・六識中憂・苦倶故。謂失財等。瞋翻此説。見怨死等。一切應知。然此五趣分別至下當知 此中意説。即五識中亦有分別所起貪等。由意分別貪等引故。不爾瑜伽分別貪等。云何與苦受相應。非許意有苦。是決定義故。由五識有分別起貪等決定故。五十九作此定説。不爾如分別慢等。彼不言苦倶故。」
(「述して曰く。難を逐(お)って釈すなり。且く欲界に於て五・六識の中には憂・苦と倶なるが故に。謂く財を失する等なり。
瞋は此に翻じて説く。怨の死なるを見るなり。一切は知るべし。
<この一段はきついですね。私たちは死者を見た時は、悲しい気持ちが働き、安らかにというでしょう、しかし、怨みをもっている人が死んだ時などは、瞋は喜受や楽受と相応すると説いているんです。つまりですね、憎い相手が亡くなった時は、嬉しいと云う感情がこみあげてくると云うのですね。楽を感じ喜びさえ感じるのである、と。>
然るに此の五趣(地獄・餓鬼・傍生・人・天)を分別することは下に至って知るべし。
此の中の意の説く、即ち五識の中にも亦分別所起の貪等有り。意の分別の貪等に引かるるに由るが故に。
爾らずんば、瑜伽に分別の貪等を、云何ぞ苦受と相応せん。
意に苦ありと許すに非ず、是れ決定の義なるが故に。五識には分別起の貪等ありということ、決定せるに由るが故に。五十九に、此の定説を作す。
爾らずんば、分別の慢等の如き、彼も苦と倶なりと言はざるが故に。」)
参考 『瑜伽論』巻第五十八より
「貪とは謂く能く躭著(タンジャク・執着、愛着すること)する心所を性と為す。此に四種有り、謂く諸見と欲(界)と色(界)と無色(界)に著するなり。
恚とは謂く能く損害する心所を性と為す。此に復た四種有り、謂く己を損する他の見と、他の有情の所とに於ける、及び愛する所を饒益(ニョウヤク・利益を与えること)せざる所に於ける、愛せざる所に饒益を作す所に於ける所有の瞋恚なり。
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又、十煩悩の七(貪・瞋・癡を除く)は、唯だ意地(意識のこと。意識は他の五識にない特別の働きがあることから別に立てて意地という。)なり、貪・恚・無明は亦五識に通ず、又欲界に於ける四見(五見の中、邪見を除く他の四見のこと)及び慢は喜・捨と相応し、貪は楽・喜・捨と相応し、恚は苦・憂・捨と相応し、邪見は喜・憂・捨と相応し、疑は憂・捨と相応し、無明は一切の五受根と相応す。此は多分の相応の道理に拠る。その余の深細なるは後に(第五十九巻)まさに広く説くべし。」
部派における受の解釈は、例えば、貪という心所における受は楽と喜と捨受であると述べている。これは巻第五十八巻の所論の通りですね。しかし第五十九に至って「我今まさに説くべし。」と、大乗の所説を述べてきます。瞋恚は、喜受と楽受とも相応することを述べています。
『瑜伽論』巻第五十九の所論
「貪は一時に於て楽・喜と相応し、或は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に於て捨と相応すと。
問。何等の如きぞ。
答。一(ヒトツ)あるが如き、或は楽受に於て、会遇(エグウ・遭遇すること)の愛、不乖離(フケリ・乖離していない)の愛を起こすに、而も現在前に遂に楽受に於て、会遇せざれば会遇に非ず、若し乖離(ケリ)すれば和合に非ず、或は苦受に於て不会(フエ)の愛、若しくは乖離の愛を起こすに、而も現在前に遂に苦受に於て合会すれば不合会に非ず、乖離せざれば乖離に非ず。是の因縁に由りて貪は一時に於て憂・苦と相応し、此れと相違するは喜・楽と相応す。若し不苦・不楽の位に於て味著(ミジャク・貪りを執着すること)を生ずれば、當に知るべし、此の貪は捨根と相応すと。
恚は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に喜・楽と相応することあり。
問。何等の如きぞ。
答。一(ヒトツ)あるが如き、自然に苦の為に身心を逼切(ヒッセツ・圧迫すること。苦しめること)せられ、遂に内の苦に於て作意し思惟し、恚恨の心を發し、或は非愛なる諸行、有情、及び諸法の所に於て作意し思惟し、恚恨の心を發す、是れに由るが故に恚は憂・苦と相応す。
問。恚と喜・楽と相応するは何等の如きぞ。
答。一(ヒトツ)あるが如き、怨家等の非愛なる有情に於て、恚悩(イノウ)の心を起こし、作意し思惟し、彼れ苦に没し、没し已るも済(スク)はず、或は楽を得ず、得已って還って気を失うことを願い、若し所願を遂ぐれば便ち喜・楽を生ず、是れに由るが故に恚は喜・楽と相応す。・・・」
本科段である、貪と瞋についての『瑜伽論』巻第五十九の所論を記載しました。驚くような記述が記載されています。心の領域において、複雑に揺れ動くさまが表現されていますが、まさに私の心の中を見透すかしたように、貪の違縁と瞋の順境における憂受・苦受。そして喜受・楽受ですね。このようなこころが働いていることは否定できないですね。自分の身近なところで、ないとはいえない怖さを感じます。
瞋恚に関してですが、喜受と楽受とも相応する、ということですね、もともとは、瞋恚は、憂受と苦受と相応するものなのですが、瞋恚は怒りですから、怒りは憂いと苦を招くものなのですが、喜と楽をもたらすものでもあるというのですね。『瑜伽論』の所説からですね、自分が怨む者など、或は自分が愛していない有情に対し、怒りや悩む心を起こし、作意し思惟し、彼が苦に沈み、沈んでいても救わず、或は彼が楽を得ることとなく、たとえ得ることがあっても、それを失うことを願い、その願いが自分の思い通りになれば、喜受や楽受を感受するものである。このようなことから、瞋恚は喜受と楽受と相応することがある、と説かれるのである、と。
どうでしょう、否定できますか。大変恐ろしいことが記されているわけですが、僕には、このような心の情景というものはよくわかります。僕のことを言い当てられていますからね。「あんな奴、地獄に堕ちたらいいんや、金輪際這い上がってくるな」というようなね、こんな恐ろしい心を持ち合わせているんです。このようなところから、貪・瞋・癡にはすべて五受が相応すると説かれているのですね。他人事ではないと云うことですね。
(つづく)