唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (44) 五受相応門 (8)

2014-08-22 23:45:19 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 「然も彼)(カシコ)には悪趣を引く業をば造らず、要ず分別起を以て能く彼をば發すが故にと云う。」(『論』第六・十八左)

 彼は、地獄を指しています。純苦処です。純苦処では、悪趣を引く業(総報業)を造らない。何故ならば、純苦処には分別起は存在しないという大前提があります。よって悪趣の業を造るのは分別起を以て起こすと説かれていることからですね、総報は造らないということになります。

 「論。然彼不造至能發彼故 述曰。所以者何。五十九説要分別煩惱發惡趣業故。此據總報多分爲論。其別報者修道亦發。故五十九分別慢等不言與苦相應。下疑等准此應知。故知前師彼趣有分別煩惱。前生勢力故。即造惡趣業也。與對法第七。五十五違。此文皆如貪等會。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)

 『述記』には「所以者何」(所以は何ん)と、「地獄では、悪趣を引く業を造らない」という理由を述べていますが、教証として『瑜伽論』巻第五十九を挙げています。

 (述して曰く。所以は何ん。五十九に要ず分別の煩悩が悪趣の業を發すと説くが故に。此は総報に拠って多分を以て論を為せり。(「悪趣を引く業」とは、悪趣の総報を引き起こす發業は分別起の煩悩である。)その別報とは、修道も亦た發すが故に。五十九に分別の慢等は苦と相応すと言わず、下の疑等も此に准じて知るべし。故に知る。前師は彼の趣に分別の煩悩の前生の勢力あるが故に、即ち悪趣の業を造るなり。対法の第七、五十九と違す。此の文は皆貪等の如く計すべし。」)

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 『阿毘達磨雑集論』巻第七・決択分諦品第一の二に

 「又十煩悩は、皆滅(滅諦)と道(道諦)とに迷い、諸の邪行を起す。此に由りて、能く彼の怖畏(フイ)を生ずるが故なり。

 所以は何ん。煩悩の力に由りて(倶生起の我執)生死に楽著し、清浄の法い於て懸崖(ケンガイ)の想を起して大怖畏を生ず。又諸の外道は滅諦と道諦とに於て、妄りに種々の顚倒分別を起す。此の故に十惑(十の煩悩)は、皆滅と道とに迷い諸の邪行を起す。」

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 私たちが生きるのには、必ず所依をもっています。それは二つしかないんです。一つは煩悩(根本我執)。もう一つは清浄の法です。そして根本我執の勢力が非常に強いのですね。ですから、我執の赴くままが、人として安らぎの場と錯覚を起こしてしまうのです。それが、「妄りに種々の顚倒分別を起す」と説かれているのです。