自類相応門 まとめ
『安田理深選集』第三巻より抜粋引用
「五蘊は経験の範疇であるから、五蘊では我というものは解けない。六識の我執は、五蘊の我執である。六識の我執は、五蘊で解きうるのである。しかし六識には間断がある。そこに、末那、阿頼耶の問題があるのである。六識しか説かぬ小乗阿毘達磨では解けないものがある。そこに初めて我執という問題が、瑜伽によって基礎づけられたのでる。ノエマ・阿頼耶、ノエシス・末那を見いだしてきた。ここで初めて我執が基礎づけられた。
末那の我執は、経験をまって起こった分別起の我執でなく、経験の基底としての倶生起の我執である。存在規定としての我執である。それで倶生起といわれるのである。むろん、六識の我執には倶生・分別があるが、末那は倶生起に限るのである。
六師記には倶生と分別がある。第六意識に相応する我執は、倶生起であっても間断する我執である。末那は倶生の我執である。
煩悩といっても、分別と倶生という観点に照らして初めて、煩悩の存在規定としての性格が明瞭となるのである。末那の貪も、六識の貪も、概念は同じなのであるが、ものは別なのである。
その次に、心・心所法は作用である。作用の法であるから、相応して起こる方である。単独の作用でなく、無数の作用が呼応の関係で相応する。打てば響く。一つの作用が起れば、他の作用が応えて起こる。意識の世界は、あるかないかということでなく、相応するか、しないかが問題である。その相応のしかたが規則的である。混乱がない。それで、心理学も成り立つのである。心と心所の相応関係。心所にも色々なものがあり、それらの相応関係などが吟味される。まず、十種の煩悩の相応関係がある。 (中略) 最後の痴は、九種の煩悩と相応する。痴は無明でるが、無明の特色は、無明の作用というものは、諸法の事理に迷うことである。諸法の相に迷うことであるから、無明は一切の煩悩の所依であるところにその特色があるのである。故に十二縁起でも最初に置かれている。
見は慧でるが、見が正見となるか悪見になるかは、無明によるのである。見は解釈である。解釈が正見の反対になることが悪見である。見が正見・悪見に分かれるのは無明によるのである。諸法無我の理に迷うから、我でないものを我とし、有でないものを有とするのである。如何なる場合でも、無明が煩悩の所依となっているのである。こういう解釈によって、煩悩の厳密な理解ができるのである。」(『選集』第三巻p399~404)
第三は、諸識相応門が説かれます。識というものとの相応関係を明らかにしようとされます。
「此の十の煩悩は、何れの識とか相応する。」(『論』第六・十七左)
前科段までに述べてきた十の根本煩悩はどの識と相応して働くのであろうか?
先ず、問いだ出されます。識の視点から煩悩を分析し説明する科段ですね。大雑把な答は、煩悩が存在しない識もあり、また相応する煩悩が四つであったり、十のすべてであったりと限られているということもあり、必ずしもすべての煩悩が全ての識で相応するとは限らないということを明らかにしています。
随煩悩の前に煩悩ですね、「此の十煩悩に於いて誰は幾ばくとか相応する」と問いを出されて、最後に諸々の煩悩は「癡は九種と皆定めて相応す。諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」といっています。癡は無明ですね。無明は私たちには認識できないものです。意識される煩悩は認識することはできますが無明煩悩は仏陀の自内証ですから私にはわからないことです。わからないけれども仏陀の自内証ということで教えられているのです。癡は迷いの根源といわれているのです。仏道を障げるものです。無明が仏道に歩む姿勢を障害するのですね。しかし迷いの中からですね。どうしても止むにやまれない欲求が湧いてくることがあります。「本当のことを知りたい・真実とは何か」という欲求です。自身の内から湧出してくる「本当の自分に出遇いたい」という願いが聞法に突き動かすのでしょう。そうしましたら聞法は何を聞くのか、といいましたら「無明」を聞くのですね。「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。無明を聞くのは無碍の光明に遇うということですね。無明煩悩を白日の下に晒すのは光明です。大悲の願船ですね。「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」といわれるわけです。ですから私たちは煩悩と戦う必要はないのです。煩悩が縁となり一歩前へ歩みを進めることができるのです。煩悩が輝くのですね。煩悩がなかったらどれほど楽かという思いがありますが、それでは「本当の自己」に出遇える縁を閉ざしてしまうのです。生きることの意味も、生まれてきたことの意味も、娑婆の縁つきなば彼の土へはまいるべきなりという、彼の土の意味もわからなくなり、ただ生殖本能だけの無味乾燥の生きる屍となってしまうのではないでしょうか。ですからね。煩悩は煩わしいことに違いないのですが有り難いご縁をいただけることにもつながってくるのですね。
「此の十煩悩は何れの識とか相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂わく貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に」
蔵、阿頼耶識です。この識には煩悩は全く無いといわれています。 「十の根本煩悩はどのような識と伴うのか」というところで、阿頼耶識には煩悩は無く、末那識(意)には四有りといわれているところを考えているところです。また煩悩にはですね。生まれつき持っている倶生起の煩悩と、生まれてからいろいろな経験を積んできて起こる分別起の煩悩があるといわれています。『摂論』第一章では阿頼耶識の名と本質について考察がなされていますがその中に汚染されて識と共に考察が進められているのです。それを世親菩薩は『唯識三十頌』において初能変は阿頼耶識の考察、第二能変は末那識(汚染された識)の考察として識の分別をされたのです。その意は私には図り知ることはできませんが、大胆に考えますと「命の尊厳」において別々にされたのではないだろうかと思うのです。「蔵識には全に無し」といわれることにおいて、命そのものには煩悩は働かないということ、命の主体は何ものにも覆われていない無覆無記であることをはっきりされたのだと思います。世親のもう一つの論書『浄土論』の帰敬序は「世尊我一心」ではじまります。この「我」ですが、煩悩に穢されていない「我」でしょう。我という命の主体は阿頼耶識ですね。このことにおいて我が透明性をもつのでしょう。私が生きているということは本来、透明性を持っているものです。私が単独に生まれ、単独に生きているのではありませんね。内因外縁といいますが、父母を縁とし環境を縁とし自らの意思をもって此の世に生を享受したわけです。これは無始無終の命の連綿としたつながりです。そして私にまで届いたのですね。私にまでなった命なのでしょう。公明正大なことですし、私利私欲ではないということです。私は私がと言って命を貪っていますが命の働きは純粋無垢だということを教えられているのですね。命そのものには迷いがないということ、迷っていないから私と共に流転出来るのであると思うのです。これが末那識だとそういうわけにはいかないでしょうね。末那識が主体だとしたら我執が主体ということになり私と共に流転はできないでしょう。内部分裂を起こしますよ。我執は我愛を満足させるために何が何でも利用しますからね。そして命の歴史にですね、私の命にまでになって伝えられてきた歴史です。その重みは何ものにも変えることができない尊厳をもっているのではないでしょうか。