唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (45) 五受相応門 (9)

2014-08-23 12:18:56 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 今日は午後七時半より大坂坊主バーにスタッフとして勤めさせていただきます。皆さまのご来店よろしくお願いいたします。

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 慢についてまとめてみますと、慢という心所は、

 

 『論』に、「己を恃(タノ)み他に於て高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え、苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)という心所であると説かれています。

 

 詳細につきましては、2014年3月22日~3月27日の投稿を参照してください。今回は本科段に於ける『樞要』の所論を聞いてみます。

 「 慢有二種。一高擧。二卑下。高擧有三。一稱量。二解了。三利養。以卑下慢與憂相應。高擧不爾。故前所説不與身・耶一分倶。此與憂倶。據卑下説亦不相違 正義若地獄無分別煩惱。應無因力斷善者死時續等。解云。勢力不生。非因邪見 五十九云。於利養等他引猶預疑與憂相應。於惡趣等他引猶預喜根相應。邪見先作妙行憂根相應。先作惡行喜根相應。二取隨境故四受倶。五十九中但依欲界疑・邪見等説。此通一切地。故與樂相應。」(『樞要』巻下・四十左。大正43・644a)

 (「慢に二種有り。一に高擧(コウコ)、二に卑下(ヒゲ)なり。高擧に三有り。一に称量(ショウリョウ)・二に解了(ゲリョウ)・三に利養(リヨウ)なり。卑下慢は憂と相応するを以て、高擧は爾らず。故に前に説く所の身と邪との一分と倶にあらず。此に憂と倶に卑下に據って説く。亦相違にあらず。正義は若し地獄は分別の煩悩無しと云はば、まさに因力を以て善を断ずるは死の時に続く等無かるべし。解して云く、勢力を以て生ぜずとは邪見に因るに非ず。五十九に云く、利養等に於て他に引いて猶預する疑と憂と相応す。悪趣等に於て他に引いて猶預するは喜根と相応す。邪見は先に妙行を作すとならば憂根と相応す。先ず悪行を作すならば喜根と相応す。二取(見取・戒禁取)は境に随うが故に四受と倶なり。五十九の中には、但だ欲界に依って疑と邪見等とに説く。此は一切地に通ずと云う。故に楽と相応す。」)

 貪と慢との関係(倶起)

  貪は、他を愛するから起こる。 - 慢は他を凌蔑するから起こる。
     自を愛するから起こる。 - 自を高挙するから起こる。

 瞋と慢との関係(不倶起)

  瞋は、憎しみの対象に対して起こるに対し、慢はそうではない。

 慢と他の煩悩との関係(不倶起でもあり、倶起でもある)

  疑とは不倶起。疑は不決定の境に対し、慢は自に対するものである。
  我見の内、苦しい自己の場合は慢とは不倶起であるが、楽しい自己の場合は倶起する。
  邪見の内、苦の因果撥無の時は倶起せず、楽の因果撥無の時は倶起する。
  辺見の内、断見とは倶起せず、常見とは倶起する。見取見と戒禁取見とは倶起する。

 慢と五受との関係

 第一師 - 慢は苦受を除いた四受と相応すると説く。
 第二師(護法正義) - 慢と五受は相応すると説く(五受相応説)。倶生起の慢が苦受と相応するのであると説き、分別起の慢と五受との相応については、地獄には、そもそも分別起の煩悩が存在しないために、地獄には分別起の慢は存在しないという。ただ、地獄を除いた処では慢と五受とは相応すると説かれるのである。厳密には、倶生起の慢は五受と相応し、分別起の慢は苦受を除いた四受と相応するということになります。

  •  称量 - 「自と他との徳類の差別を称量(推し量って)して、心自ら挙恃(コジ・自らを勝れた者として誇ること)し、他を凌蔑するが故に名づけて慢と為す。
  •  解了 - 理解すること。知るべき対象において思考をすること。自と他を比較して、自が勝れていると理解する。)
  •  利養 - 利益。利益を得ること。執着する対象。自に執着を起こし、他を蔑むこと。