第三は、慢と他の煩悩との相応について説かれます。初に、慢と疑との相応について説かれ、後に、慢と(五)見の相応について説かれます。
前科段までに、貪と慢・瞋と慢の相応については説き已ったので、本科段では、慢と疑の相応につき、慢と五見の相応について説き明かされます。
「慢は境の於に定めたり、疑は則ち然るにはあらず、故に慢は疑と相応する義無し。」(『論』第六・十七左)
慢(恃己の慢・陵他の慢)は対象が何であるのかを定めて起こるものである。しかし疑はそうではない、その為に慢は疑と相応しないのである。
「 論。慢於境定至無相應義 述曰。下第三慢爲首。與貪・瞋説已。與疑定不倶。三論皆説故。境定不定故。不陵不定境。若疑彼勝負必不敢慢。慢若起者必自高故。境乃定也。」(『述記』第六末・三十六右。大正43・451a)
(「述して曰く。下は第三に慢を首と為す。貪・瞋とは説き已る。疑とは定んで倶ならずこと三論に皆説くが故に。境、定と不定となるが故に。不定の境を陵せず、若し、彼の勝負を疑うには必ず敢て慢ならず。慢若し起こらば必ず自高するが故に境乃ち定なり。」)
- 陵(リョウ) - 「自を挙して他を陵す」。あなどること。
- 自高(ジコウ) - 自高拳(ジコウコ)のこと。驕りたかぶること。他人と比べて自己が勝れていると思う、勝他のこと。
慢が生起する必然性は、対象が何であるのかが明白であって、疑いようのないものなのですが、疑は対象を猶予し疑う心所でなのですね。従って、慢は疑と相応することはないわけです。対象が明白でなく、猶予し疑う心所である疑にたいして、慢は起こらないのである、と。
前科段に於てもなかなか解りにくいところもあるわけですが、平面的に思考をするとなにがなんだかわかりませんね。慢と疑は相応しないということは、非常に厳密に煩悩の複雑さを説いているんだろうと思います。後に「癡は九種と皆定んで相応す、諸の煩悩生ずるは必ず癡に依るが故に」(『論』第六・十七左)と結論されていますが、平面的に考えますと、慢と疑は相応しているように思えるんですね。またそれに対して疑をもっていませんが、それが疑なんですね。そして慢と疑は相応しているように思えることを通して、実は慢と疑は相応しているように思えるのは癡に由るということを明らかにしているんです。相応無明といい、根本無明と押さえられているんでしょう。私は私のことの一番の理解者であるという妄想を打ち破ってくるんだろうと思いますね。ですから、私が私を頼りに生きていくということは、無明と共に歩むということと同一なんでしょう。
道元禅師は、『正法眼蔵』の中で、「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」と教えておいでになりますが、「万法に証せらるるなり」とは私たちは縁的存在であるということですね。業縁存在であると。親鸞聖人は、『歎異抄』第十三条には「しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。・・・さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と、自己存在を客観的に「汝」として開示し「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」と教えられているわけですね。「自力のこころをひるがえして」という、我執に依らず、我執を所依とせず、本願他力の宗旨を旨とせよと教えられているんだろうと思います。
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