唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (40) 五受相応門 (4)

2014-08-17 21:08:43 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段で説かれていることは、煩悩は我執を帯びた時に生れてくるものですね、本来は無我ですから、煩悩は無いわけです。ですから阿頼耶識には全く無しと説かれていたのですね。我執とは、我に非ざるものを我とするということですから固定化します、本来流動的なものを人為的に縛り付けるのですね、そこからの歪が煩悩なんですね。

 

 困った人を見れば助けてあげたい、憎い人をみれば怒りが込み上げてくると云う感情も、我執の影なんですね。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という苦は、外からやって来た苦ではないということです。自分が自分で作ってきた苦である、そこに深い求道の歴史があるんですね。命がけで煩悩の正体を見破ってきたのです。ストレスにしても、自閉症にしても、精神疾患にしてもですね、或は、心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder)ですね、もっと言えば、あらゆるコンプレックスもですね。内観の道でしか解けないものだと思いますね。対症療法や環境を変えるといった外境の変革においては、一時的な安らぎを与えることは出来るかもしれませんが、根本的な解決には程遠いものだと思います。

      問題は、  - 我執 -  なんですね。

 我でないものを我とし、その我に執着を起こして、貪・瞋・癡の根本煩悩を引き起こし、癡から他の三見(七つの煩悩)及び根本煩悩に付随した形で随煩悩が生起してくるのですね。いうなれば、無我を我であると錯誤をおこして、錯誤された我を、実の我とし、その我を脅かすものが外なる環境であり、対象であるとして煩悩を引き起こしてくるのでしょう。対象もですね、我によって造られたものなんですね。造られたものにも執着を起こすんです。我と我所に於いてですね、我執・我所執と。「我有り」とは自我の目覚めであるかもしれませんが、執着された我という眼差しが必要でしょうね。

 もっと深く言えばですね、我執は第六意識相応なんですね、そしてその第六意識相応の我執を成り立たしめているのが、深層意識である、第七末那識なんです。それを根本我執と。その根本我執と云う所に、閉じられた心の解放されるヒントが隠されているように思いますね。

 ですから、煩悩の分析は、私が(我)という、執われた心の分析、我執の深さを抉り出してくる作業なんだと思います。

 そしてそれらのすべてを取捨選択することなく平等に受け入れている心の働きが、お一人お一人の中に働きとして動いている、それが阿頼耶識と表現されているわけですね。阿頼耶識は純粋であるためにですね、すべての経験を引き受ける働きを持ち、引き受けた過去の経験を捨てることなく、人格形成の上に大いなる役割をはたしつつ、純粋であるが為に、我によって執着され、白いものが赤に染まり、或は青に染まり、あるいは紫に染まり、或は黄に染まってしまうのですね。染めたものは我執です。阿頼耶識は執着されるところでもあるのです。わたしが、わたしが(我)といって、私の中に働いている純粋意識を染汚しているんです。自分で自分を汚しているんですね、それによって苦しんでいる。こういうところの心の構造を知ると言う言も非常に大切なことであろうかと思います。

 今日は前に進むことは出来ませんでしたが、私たちは何か大切なことを見失っているのではないかなと思うわけです。