一部ダウンロードできないということもありまして、編集した「受倶門」を再録させていただきます。幾分ページ数が多くなりますがお許しください。A4150ページになります。
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第三能変 三段九義中、第二段、第六・受倶門を解釈する。第二段は、五、心所相応門と六、受倶門で、本頌では第九頌から第十四頌が相当します。
「此の六転識は、易脱(やくだつ)し、不定なり、故に皆三受と相応す容し、皆順と違と非ニとの相を領するが故に」。(『論』第五・二十一左)
(この六転識は、易脱し、不定である。その為に、すべて三受(苦・楽・捨)と相応すると知るべきである。何故なら、すべて順と違と非二との相を領納するからである。)
? 易脱(やくだつ) - 間断し転変すること。六識は、末那識や阿頼耶識のように間断がないものではなく、間断し転変するものであるという。
? 順 - かなうこと。
? 違 - かなわないこと。あるいは背くこと。
? 非ニ - 順と違のいずれでもないもののこと。
? 領納 - 感覚・知覚すること。心に受け入れること。
? 受 - 五遍行の一つ。感受する心の働き、作用、感情のこと。三受は苦受・楽受・捨受をいう。六識がいずれの受と相応するのかという意味が説かれています。
? 不定 - 前六識は苦・楽・捨の感受作用が、それぞれ互いに起こるために不定という。六識は苦・楽・捨のすべてを受け入れることから感受作用が互いに起こり得るのである。
「論。此六轉識至非二相故 述曰。於中有二。初解因位受倶。後解果位受倶 因位中有二。初解本頌。後別分別 然此六識非如七・八。體皆易脱。恒不定故。易脱是間斷轉變義。不定是欣・慼捨行互起故。皆通三受所以如文。」(『述記』第五末・七十九右。大正43・423a)
(「述して曰く。中に於いてニ有り。初めに因位の受倶を解し、後に果位の受倶を解す。因位の中にニ有り。初めに本頌を解し、後に別に分別す。然るに此の六識は七・八の如くには非ず。体皆易脱し恒に不定なるが故に。易脱というは是れ間断し転変する義なり。不定というは、是れ欣と感と捨との行互に起こるが故なり。皆三受に通ず。所以は文の如し。」)
心所相応門が解釈され、受倶門が解釈されます。受倶門とは、六転識が、どの受と倶に相応し、相応しないのかということを論じている箇所になります。受とは、五遍行の中の、一つの心所であり、心の作用(感受する心の働き、感情)を述べるところです。特に「受」を取り出して解釈されるところに「受」のもっていることの大切さを思います。
三受について
「順の境の相を領して身心を適悦(じゃくえつ)するを、説いて楽受と名づく。違の境の相を領して身心を逼迫するを、説いて苦受と名づく。中容の境を領して、身に於いても心に於いても、逼(ひつ)にも非ず悦(えつ)にも非ざるを、不苦楽受と名づく。(『論』第五・二十一左)
? 順の境の相を受け入れて、身心を喜ばしめることを楽受という。(適はかなう・悦はよろこび)
? 違の境の相を受け入れて、身心を圧迫せしむることを苦受という。
? 中容の境を受け入れて、身においても、心においても圧迫するにも非ず、喜ばしめるでもないものを不苦楽受という。
「領納して己に属するを受と名づくるが故に通ぜり。順と違との境相を領ずるに倶に身(根)を適して心を悦すると、倶に身を逼し心を迫すると別なり。故に三の受を成ず。或いは身と及び心とに倶に通じて適悦し倶に逼迫するなり」。(『述記』)
「三受の中に、何が故に但だ苦楽を説いて名と為して、憂喜と標せざるや。苦をもって楽に対し、倶に三性に通ず。憂を以って喜に対する理則ち然らず。寛を以って狭を摂し、但だ苦楽と名づく。又苦と楽と行相猛利なり。」(『樞要』)
受とは領納の義で。すなわち、(境を)受け入れて(領して)自分に属させること。境は対象ですから、対象を自分の中に受け入れて、そこから発生する感情、感受のことです。それに三受あるといわれ、また五受ともいわれます。
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「論に、順境の相を領してというより不苦不楽というに至るは、問う。身識は一時に順違の境を領す。何れの受と相応するや。答う。伝にニ釈有り。一に云く、一時に能くニ境を領すること無きが故に随って一と倶なり。ニに云く、即ち一時の中に能くニ境を領す。境倶に至るが故に其の勝境に随って但一受と倶なり。五倶の意の何んの境の勝たるに随って受と倶なるが如し。故に此れ亦爾るべし。問う。受も五受有り。何んの意をもってこれを合す。答う。喜楽と憂苦と歓威と相以せり。故に合して三と為す。若し爾らば何んぞ喜憂捨と言わざるや。答う。軽を以って重に従え狭を以って寛に従う。楽苦は多地の識に通ずるが故に。(『演秘』)
『述記』の説明では適悦の適は身に対していい、悦は心に対していっています。心身に適い、楽しいことが適悦という意味だといっています。その反対に逼迫とは心身を圧迫するという意味をもちます。
順境の時は身心は適悦する。このことを楽受といい、違境の時、即ち逆境の時には身心は逼迫される。このことを苦受というわけです。このいずれでもない中容を捨受というのです。しかし心得ておかなければならないことは、私の身心の外に順・違・中容があるわけではありません。私の身心に適う事が楽受であり、適わなく疎外することが苦受であるわけです。また私には何の関係も持たないと思われることに対しては苦楽を感ずることはありませんので捨受ということになります。しかし私の関心事にたいしては苦楽を感じますから三受相応することになるのです。
『了義燈』の問い
「問。何が故にか憂・喜・捨の三を苦・楽に摂すと言はざる」に答えて、
「①憂・捨は有異熟なれども、体是れ異熟には非ず。苦・楽は有異熟にして、又体は是れ異熟なり。又②苦・楽は三性に通ず。憂は染無記(有覆無記)に非ず。又③憂は離欲するときは捨す。余は離欲するときは捨するに非ず。苦・楽は体寛きを以て、挙げて憂・喜を摂す。」
(「 問何故不言憂・喜・捨三以攝苦・樂 答憂・喜有異熟。體非是異熟。苦・樂有異熟。又體是異熟。又苦・樂通三性。憂非染・無記。又憂離欲捨。餘非離欲捨。苦・樂體寛。擧攝憂・喜。」 『了義燈』第五本・二十八右。大正43・752a)
「受」とは、「領納」ということ。境の相を受け入れて己に属させること。感受することですね。対象を心に受け入れる、受け入れる、感受するから、そこに感情が起こるのです。受け入れなければ感受も感情も起こりません。対象と自己が関係するところに感情が起こるのです。対象と自己が関係するというのは、自己が作り出したものを自己が見るという、私の感情になるわけです。貴方の感情ではありません。違うんです。自己に領納するところに、人人唯識なのです。領納するところに、「触」が介在するのです。『倶舎論』に「受は随触を領納す」と説かれていますが、感受は、対象が触れた対象を受け入れることなのです。例えば苦境が触れると苦触が生じ、苦触を受け入れると苦受が生じ、苦を感じる感情が起こってくるのですね。(但、唯識では、境は自分がつくりだしたもので、能変が所変に変化したものと捉えています。)
「是の如き三の受をば、或いは各々二つに分かつ、五識と相応するをば説いて身受と名づく。別に身に依るが故に、意識と相応するをば説いて心受と名づく。唯心のみに依るが故に」。(『論』第五・二十一左)
(このような三の受(苦・楽・捨の三受)を各々二つに分けると、五識と相応するものを身受という。何故なれば、別に身に依るものだからである。二つには、意識と相応するものを心受という。何故ならば、ただ心のみに依っているからである。)
「論。如是三受至唯依心故 述曰。五識通依色・心二依。意唯依心。五識依心非不共依。色是別依。故言別依。其意唯心。其理可解 又解對法第一。云集色所依集無色所依。色根相異言別依身。如彼疏解稍有異同」(『述記』第五末・七十九左。大正43・422a)
(「述して曰く。五識は通じて色と心とのニの依に依り、意は唯心に依る。五識が心に依るは不共依に非ず。色は是れ不共とは別の依なり。故に別に依ると言う。其の意には唯心のみあり。其の現解すべし。又解す。『対法』第一に集色の所依集無色の所依と云えり。色根の相異なり。各別に身に依ると言う。彼の疏(『対法抄』巻第三)に解するが如し。」)
『対法』第一にというところは、『演秘』によりますと、「彼の論(『雑集論』巻第一)を案ずるに云わく。色の所依を集めて身受を建立し、無色の所依を集めて心受を建立すと。釈して曰く、身心皆積集を以って義と為すが故に色と無色とを皆集と云うなり。ニの所依に従って身心の称を得。
問。第六は七に依る、七を何んぞ心と名づくるや。集の義無きが故に。
答。刹那相続して前後衆多なり、積集と名づくることを得。或いは本識に拠り、或いは意根の中に七と八との識に通ずるを以って、故に集心と名づく」。
「別に身に依るが故に」は五根を指します。「五識は通じて色と心とのニ依に依る」と言われますように、五識は色法(物質的存在、空間的占有性のあるもの、即ち五官によってとらえられる対象。色は形あるもの。質礙(ぜつげー同時に同一箇所を占有できない性質)の意。)を依り所として存在する識です。このことから色法を所依として存在する識の受ということになり、この前五識の三受は身受といわれるのです。そして第六意識は心法を所依として存在する識でありますので、第六意識の三受は心受というのです。「意は唯心に依る」。しかし五識も色法のみならず心法も所依として存在しています。此の事に関しては「五識は心に依るは不共依に非ず、色は是れ別の依なり」と説明されています。前五識の不共依は五根なのです。前五識と相応する受を、前五識の所依である不共依である五根によって身受といわれるのです。これは前五識の独自性ですね。第六意識にはありません。心法は前五識も第六意識にも共通の所依なのです。共依ですね。不共の識ということで、身受というのです。身と心との受について何故に五識と倶なるを身受と名づけるのか、また、第六意識と倶なるを心受と名でけるのか、という問いもなされています。身というのは積聚の義だと。積聚(しゃくじゅ)というのは、種々の要素が集まって一つのものを形成していることです。いわゆる五種の色根は皆、積聚であると。五識は眼・耳・鼻・舌・身の五根が集まって形成されているということです。「彼の五根に依って皆、身と名づける」。そしてもう一つの説明がなされます。身というのは唯、身根に属する。その他の四は身に依るので相従って身というのである。であるので、身受というのである。
前に憂受・喜受ということがでていました。苦・楽・捨の三受を開くと五受になるのですが、身受と心受のニ受に摂められるのです。身受としての三受(苦受・楽受・捨受)と心受としての三受(憂受・喜受・捨受)がいわれます。
? 苦受 - 苦なる身受と憂受としての苦なる心受
? 楽受 - 楽なる身受と喜受としての楽なる心受
? 捨受 - 苦でもなく楽でもない身受と心受
ここは何を伝えているのかといいますと、身体的な感受と心の面の感受ですね。身体的苦痛を苦受といい、精神的苦痛を憂受であるといい現わしているのです。
三受と有漏と無漏との関係について
「又 三つながら皆、有漏と無漏とに通ず、苦受も亦無漏に由って起こるが故に」。(『論』第五・二十二右)
(また三受とも有漏と無漏に通じて存在し、苦受もまた無漏に由って起こることがあるからである。)
すこし煩雑になりますが、この前の文よりの表記を『述記』の説明によりますと下記のようになります。身受と心受についての所論です。
「下は別に分別するが中に三有り。初めに増減を以って分列し、次に例して余の門に摂し、後に三の受の倶なる義を弁ず。増減門の中にニより五に至るまでに、ニのニと両の三とニの四と一の五と有り」。(『述記』第五末・七十九左)
? 二より五に至るまでの、二のニとは「身受と心受」・「有漏と無漏」のニ組
? 両の三とは三断と三学の両をいい、ここでいわれる三学は有学・無学・非ニのことで、戒・定・慧の三学を指すのではありません。
? ニの四とは三受と善・悪・有覆無記・無覆無記の四を指し、二とは総論を一・個別説明を一としてのニになります。
? 一の五とは五受についての説明になります。一とは五受一つということです。
「述して曰く、一に云く、若し憂根も皆能く無漏を引き、無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯だ後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。(『述記』第五末・八十左)
『演秘』はこの「受寛根狭者」を釈して、
「受は寛く根は狭し」とは、三受門の如し。苦楽二受に憂喜を含せるが故に。しかるに根と言うときは、即ち是の如くならず、二十二根は喜楽憂苦を各別に立つるが故に、故に寛狭異なり。」(『演秘』第五本・四左)
『瑜伽論』巻五十七に二十二根についての記述があります。「云何が二十二根を建立するや」という問いが立てられ、細にわたって説かれています。二十二根の中に五根(憂・喜・苦・楽・捨)は五受根であると説かれ、この五受根等は有漏・無漏に通じるといわれています。従って三受もまた有漏・無漏に通じる、と説かれているのです。
「苦受は無漏に通ずとのみ説けり」というのは、大悲無倦ということです。無漏を得た菩薩が、その境地に留まることなく後得智を得て利他教化のために深広無涯底の闇に身を投じて衆生の為に抜苦与楽を与えようとする働きをもつのです。無漏を得たからこそ衆生に代わって苦を受ける(大悲代受苦)ことができるのでしょう。法蔵菩薩とはこのような存在ではないでしょうか。
身受と心受についての『了義燈』の解釈。
「又身心受。何故五倶名爲身受。第六識倶名爲心受答有二解。一云身者積聚義。五種色根皆積聚。依彼五根皆名身 二云身者唯屬身根。餘四依身相從名身。故能依受得名身受 難五識別依根。相應之受得身名。第六別依意。相應之受標意稱 答五根皆積聚受。從所依得名身。對色辨於心。第六相應非意受 問色心以相對六不同。五名身受。身・眼兩相望。眼不齊身立身受答身・眼倶色並得名身。對色・心殊六名心受 又受依於身即名身受。受依於意應名意受 且質答云。六受依於意。依意名意受。五受依眼等。應名眼等受。據門明別。身・心相對名身心受。不可齊責。」(『了義燈』第五本・二十四左。大正43・751a20~751b05)
(「身と心と受」に於て、何が故か、五と倶なるを名づけて身受と為す。第六識と倶なるを名づけて心受と為るや。答う、二の解有り。一に云く、身と云うは積聚(しゃくじゅ)の義なり。五種の色根は皆積聚なり。(「積聚の義は是れ蘊の義なり」)彼の五根に依って皆身と名づく。二に云く、身と云うは唯、身根のみに属す。余の四は身に依るを以て相従して身と名づく。故に、能依の受を身受と名づくることを得。
難ずらく、五識は別に根に依る。相応の受は身の名を得ば、第六と別に意に依る。相応の受は意の称を標すべし。
答う、五根は皆、積聚せり。受を所依に従えて身と名づくることを得る。色(身受)に対して心を弁ず。第六と相応するは意受に非ず。
問、色と心と相対して六不同を以て、五は身受と名づく。身と眼と兩つ相望して眼をば身に斉しくせず。身受とは立てず。
答、身と眼とは倶に色なるを以て、並びに身と名づくることを得る。
色と心と対するに殊なるを以て、六を心受と名づく。
又、受が身に依るを即ち身受と名づけば、受が意に依るを以て意受と名づくべし。
且く質答して云く、六の受は意に依る。意に依るを意受と名づけば、五の受は眼等に依る、眼等の受と名づくべし。門を明すこと別なるに拠って身心相対して身心の受と名づく、斉しく責むべからず。」)。
「論。又三皆通至無漏引故 述曰。一云若憂根・苦根皆能引無漏。無漏所引皆通無漏。受寛根狹。故論説苦受通無漏 一云五根中。唯以苦根於學・無學身中。無漏第六意引生故。或唯後得智中。方起五識精進等故。有苦根假名無漏。然五十七説是無漏。何以知者。彼漏・無漏門作是説故。此苦雖然憂非無漏。雖亦能爲無漏加行。仍爲未知欲知根性。非無漏引生。不倶起故。非無漏攝。」(『述記』第五末・八十左)
(「述して曰く、一に云く、若し憂根・苦根、皆能く無漏を引く。無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。)
「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」(『了義燈』)と。
二十二根について
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、男・女・命の三根と、喜・苦・楽・憂・捨の五受根と、信・勤・念・定・慧の五善根と、未知当知・已知・具知の三無漏根を指します。「云何が二十二根を建立するや。(第一義)謂く能く境を取り増上する義なるが故に六根を建立し、家族(けぞく)を安立し、相続して断ぜず増上する義成るが故に二根を建立し、性命(しょうみょう)を活するが為の事業(じごう)方便増上するが義なるが故に一根を建立し、業果を受用(じゅゆう)し増上する義なるが故に五根を建立し、世間の清浄増上する義なるが故に五根を建立し、出世の清浄増上する義なるが故に三根を建立す」。(『瑜伽論』巻の五十七)
? 六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意根
? 二根とは男根・女根
? 一根とは命根
? 最初の五根は喜・苦・楽・憂・捨の五受根
? 次の五根は信・勤・念・定・慧の五善根
? 三根は未知当知・已知・具知の三無漏根
(第ニ義)・(第三義)・(第四義)・(第五義)・(第六義)・(第七義)・(第八義)まで説かれ、それに対し結釈を取り、第四門に於いて根を分別し、問答がおかれています。
? (問い) 是の如き諸根は幾ばくか是れ実有にして、幾ばくか実有に非ざるや。
? (答え) 十六(眼等の六根と五受根と信等の五根の十六)は実有なり、余は実有に非ず。
? (問い) 幾ばくか色の所摂なるや。
? (答え) 一(の意根)と三(無漏根)の少分(意)なり。
? (問い) 幾ばくか心(所)法の所摂なるや。
? (答え) 十(信等の五根と五受根)と三(無漏根)の少分(心所)なり。
? (問い) 幾ばくか心所不相応行の所摂なるや。
? (答え) (命根)の一なり。
? (問い) 幾ばくか有為の所摂なるや。
? (答え) 一切是れ有為なり。根有ること無きは是れ無為なり。
・・・
? (問い) 幾ばくか有漏にして有漏を義と為すや。
? (答え) 唯、七なり。(眼等の五根と男・女二根)最後の二(根)及び苦憂根(くうこん)を除いて、余は(信等の五根、意根、命根、楽喜捨の三根、未知根)有漏無漏にして有漏無漏を以って義となす。当に知るべし、苦根は有漏無漏にして有漏をもって義と為し、憂根は有漏にして有漏無漏を以って義と為し、未知欲知根の若しくは沙門果に遠き世間行の所摂は是れ有漏なり。若しくは沙門果に近き出世行の所摂は是れ無漏なりと。・・・」(『瑜伽論』より)
この『瑜伽論』の記述に依り『論』には「又三皆通有漏無漏。苦受亦由無漏起故」といわれるのです。
両の三 三断(見所断・修所断・非所断)と三学(有学・無学・非二)との関係について
「或いは各々三に分かつ、謂く、見所断と修所断と非所断とぞ」。(『論』第五・二十二右)
その一 (三受と三断との関係について)- 或いは三受各々を三つに分ける。つまり見所断と修所断と非所断とである。三受は、また、三断にも通じるという。
『瑜伽論』巻第五十七に
? 問。 幾ばくか見所断にして見所断を義と為す是れ等の如きぞや。
? 答。 十四(眼等の五根と男女の二根と命根と五受根と意根を指す)の一分は見所断なり、一分は修所断なり。十二(五受根と意根と信等の五根と及び未知根)の一分は修所断なり、一分は非所断なり。謂く即ち十四の中の六及び余の六なり。余の二(已知倶知の二根)は非所断なり。此の中有色の諸根は見修の所断を義と為し、無色の諸根は三種を義と為す。謂く見・修の所断、非所断なり。
「論。或各分三至非所斷故 述曰。此准前説五受・三受作論可然。五十七説十四一分見所斷。一分修所斷。謂除信等五・及三無漏。其七色・及命由約不生斷故通見斷。其餘可然。信等善法。依斷縁縛故不説見斷。若互相顯。隨其所應。十二一分修所斷。一分通不斷。謂前六及後六。前六一分非所斷攝。即是已前見道斷中六。謂五受・意根。憂・苦二根亦非斷故。隨順趣向不斷法故假名非斷。體非不斷。以此義准趣向無漏應名無漏。無漏不引論不説之。不可説六中是命根無學身有故。五根亦應爾故不可也。信等五・及初無漏。有漏修斷。無漏是不斷。」(『述記』第五末・八十左。大正43・423b)
(「述して曰く。此れは前説に准ぜば、五受・三受において論を作すこと然るべし。五十七に十四の一分は見所断、一分は修所断なりと説けり。謂く信等の五と及び三無漏とを除く。其の七(眼等の五根と男女の二根)の色と及び命とは不生断に約するに由って、故に見断に通ずという。其の余の受根・意根は見・修断に通ず、然るべし。信等の善法は縁縛を断ずるに依るが故に見断とは説かず。若し互いに相顕はすことは其の所応に随うという。十二は一分は修所断なり一分は不断に通ず。謂く前の六(五受根と意根)と及び後の六(信等の五根と未知根)ぞといえり。前の六が一分は非所断に摂す。即ち是れ已前の見道断の中の六なり。謂く五受と意根とぞ。憂・苦の二根も亦非断なるが故に不断法(無漏法)に随順し起向するが故に、仮に非断と名づくれども体断にあらざるには非ず。此の義を以って準ぜば無漏に趣向するをもって応に無漏と名づくべけれども、無漏に引かれざるをもって論に之を説かず。六の中に是れ命根あり無学の身に有るが故にと説くべからず。五根も亦応にしかるべし。故に不可なり。信等五と及び初の無漏とは、有漏ならば修断なり、無漏ならば不断なり」)
三無漏根について
? 未知当知根(みちとうちこん)はまだ知らないことを知ろうとする根。四諦の理を観じて迷理の惑を断ずる見道位の無漏智。
? 已知根(いちこん)は三無漏根・二十二根の一つ。すでに四諦の理を知了して修道位において発する意根・楽根・喜根・捨根・信根・勤根・念根・定根・慧根の九根をいう。無漏の智であり、事に迷う惑を断ずる。
? 具知根(ぐちこん)は一切煩悩を断じ尽くして所作已弁という境地における無漏智のこと。一切のなすべきことをすでになし遂げ、断ずべき煩悩もなく、修めるべき道もないと知って発する、意・楽・喜・捨・信・勤・念・定・慧という九の根をいう。
『了義燈』第五本・二十四左より
「三断を明かす中に有解に云く。苦受の中には不断を求むるが故に、亦非断なり。離欲のときには捨するが故に。已に断ぜるを以って非所断と説く。要集断じて云く、有解を勝と為す。今此の釈を為て不断を求むるが故に。亦非断なりと云ふは即ち本疏の解に随順す。不断の法に趣向故に。仮に不断と名づくなりといふ。」
? 不生断 ー ものが再び生じないように、ものの生ずる縁を断じ尽くしおわること。因である煩悩を断ずることにより、その果である業が生じないことをあらわす。
?不断 - 断たれるという働きが無いこと。
?非断 - 断絶するのではないこと。
?所断 - 見道位においても修道位においても断ぜられないから。
?見所断 - 見道所断の略。四諦の理を見通すことによって断たれるべきこと。見道位によって断ぜれれるべき煩悩の意。見道位は無漏道をはじめて見つけて、聖者の仲間に入った位で、見諦道ともいう。大乗仏教では初地の菩薩を指す。また初期仏教では預流向をいう。唯識では五位の第三である通達位を見道位という。
「見道と申は初めて無漏の智起こって麁障を断ずる時なり」。(『法相二巻抄』
? 修所断(しゅしょだん) - 修道位によって断ぜられるべきこと。修道とは見道の後で、さらに具体的な事象に対処して、いくども反復して修習する段階で、修所断の煩悩を断ち切る過程をいう。
? 非所断 - 見道位においても修道位においても断ぜられないことをいう。
「又は学と無学と非二とを三と為す。」(『論』第五・二十二右)
(又は、有学と無学と有学でもなく、無学でもない非二を三とする。)
三受は有学と無学と非二のいずれをも備える。『瑜伽論』(巻第五十七)には、三受は無学に通じて摂められると説かれる。その説は無学人の根性に随い、無学人に随順せるものであって、憂・苦根は併せて有学である。苦根は亦無学にも通じる、と説明されている。
? 問 - 幾ばくか学にして学を義と為す是れ等の如きぞや。
? 答 - 信等の五根、喜・楽・捨の三根と命根の九は学、無学、非学非無学にして三種を以って義と為し、眼等の五根と男女二根の七は非学、非無学にして即ち此れを以って義と為し、苦根は三種に通じ、非学非無学を義と為し、憂根は学、非学非無学にして三種を以って義と為し、未知根と已知根は学にして三種を以って義と為し、具知根は無学にして三種をもって義と為す。
(学は有学のこと。まだ学ぶことのあるもので、阿羅漢果までに至っていない聖者を指す。四果の内の前三果をいう。修行をしているのだけれども、未だ完全には煩悩を断じていないために、さらに修行が必要な段階です。無学はすでに学を究め、もはや学ぶべきことがない境地を指します。阿羅漢果のこと。非学非無学は一般にいう学問のないことを指しますが、生死解脱を求めない人と解していいのではないかと思います。)
苦根は五識相応の故に、学無学を以って定義とはなさない。三受は三に通ずる。
学法とは何か、という問いに対して「謂く或いは預流(よる)・一来(いちらい)、或いは不還(ふげん)の有学の補特伽羅(ふとがらー凡夫)の若しは出世の有為法、若しくは世間の善法、是を学法と名づく。」といわれ、何故ならば、学法に依止し、時時の中に於いて精進し、増上戒学・増上慧学を修学するからである。
無学法とは何か、という問いに対して「謂く阿羅漢にして諸漏已に尽きたるもの、若しくは出世の有為法、若しくは世間の善法、これを無学法と名づける。無学身の中の世間の法を何のいわれがあって無漏というのか、という問題がのこりますが、「煩悩無きが故に」と説かれ、「三有に堕する故に有の所摂と名づけ、諸漏の随眠を永に解脱するが故に説いて無漏と名づく」と。
非学非無学とは、学・無学法を除くその余の預流乃至阿羅漢の若しくは一切の異生(いしょうー凡夫)に堕して相続し、若しくは彼の増上なるあらゆる諸法をいう。
「論。又學無學非二爲三 述曰。非二。謂非學・無學。五十七説三受可通無學所攝。彼説隨彼所有根性。隨順彼者即是彼故。憂・苦根並是學。苦根亦無學。一一如彼文。又六十六有諸門。分別學・斷等稍勝勘會。此等諸門雖名同小。法體全別。」(『述記』第五末・八十一右。大正43・423b)
(述して曰く。非二と云うは、謂く学無学に非ずと云う。五十七に説けり。三受は無学に通じて摂する所なるべし。彼の説は彼(無学人)の有する所の根性に随って、彼に随順する者即ち是れ彼(十無学法)なるが故に。
憂苦根は並びに是れ学なり、苦根は亦、無学にもあり。一々彼の文の如し。又六十六に諸門有って学と断との等しきを分別せり。稍々勝れたり勘へ会すべし。此れ等の諸門は名は小に同なりと雖も法体は善に別なり。)
? 十無学法 - 無学(阿羅漢)の有する十のありよう。無学の八正道と正解脱・正智をいう。
『了義燈』の釈
「三學分別。集論第二・雜集第四倶説。從求解脱者等。身中所有有爲善法。名學無學。即簡不爲求解脱者。雖有善法不名學無學法。瑜伽六十六云。謂預流等補特伽羅出世有爲法。若世間善法。是名爲學。瑜伽第十説預流等皆有一分十二有支。是非學非無學者。據未趣求解脱之時所造善業。非學無學。若資糧・加行爲有支者。可是學法。故説一分。不爾應言所有有支皆非學法。何云一分。言資糧等非有支者。據無漏者説 又解或雖有漏。厭背有故。非有支攝。言一分者。據預流七返有及一來等有。名爲一分。非學無學。餘如理思。」(『了義燈』第五本・二十五左。大正43・751b)
(「三学分別するに、集論の第二、雑集の第四に倶に説く。解脱を求めるに從へる者の等きが身中に、有らゆる有為の善法をば学無学と名づく。即ち解脱を求むることを為さざる者を簡ぶ。善法有りと雖も学無学と名づけず。
生死解脱を求める求道心(往生極楽の道を問う)を以て行う有為の善法は学無学と名づけられるが、求道心のない世間の善法(慈善事業等)は、仮に善法として成り立っていても、それは学無学とはいわない、ということですね。大切なことを教えています。
瑜伽の六十六に云く、謂く預流等の補特伽羅の、出世の有為の法と、若し世間の善法とをば是れを名づけて学と為す。瑜伽の第十に、預流等に皆、一分の十二支有りと説く。是れ非学と非無学とは、未だ解脱を趣求せざるの時に造する所の善業に拠って学無学に非ずという。若し資糧・加行の有支と為るならば、是れ学法なるべし。故に一分と説く。
(問) 爾らずんば有らゆる有支は皆、非学法とも言うべし。何ぞ一分と云う。
(答) 資糧等は有支に非ずと言うは法爾無漏種の者に拠って説く。
又解す(正義)。或は有漏と雖も有を厭背するが故に有支に摂むるに非ず。一分と言うは預流の七返有と及び一来の等有に拠って名づけて一分為り。学無学には非ず。余は理の如く思へ。」)
? 七返有(しちへんう) - 詳しくは、極七返有補特伽羅(ごくしちへんうふとがら)という。欲界の修惑をすべて断ずることなく見道に入って、第十六心の修道の位に住する預流の聖者のなか、人と天との間を七度も極めて多く往返する聖者をいう。
? 有支(うし) - 十二支のこと、生存の有り様を構成する十二の契機。 唯識は、過去は非存在であるとするが、過去の有り様は阿頼耶識に熏じられた種子として現在に存在し(異熟因)、その種子が未来に果(異熟果)を生じると説く。
第三門(二の四) 三受と善・不善・有覆無記・無覆無記との関係について
その(1) 性を四性に分けることを述べる。
「或いは総じて四に分かつ、謂く、善と不善と有覆・無覆の二の無記との受ぞ」(『論』第五・二十二右)
四つとは、善と不善と有覆無記と無覆無記の四性に分けることを説く。この説は、難陀(長徒)の説とされています。
「論。或總分四至二無記受 述曰。此長徒義。文易可知。言總分四故無異説。」(『述記』第五末・八十一左。大正43・423b)
(「述して曰く。此れは長徒の義なり。文易くして知るべし。総て四に分かつとのみ言う。故に異に説くことは無し」)
他に異説はないと述べています。
その(2) 三受と四性の関係について述べる。(護法正義)
「有義は、三の受を各々四に分かつ容し。五識と倶起する任運の貪と癡と、純苦趣の中の任運の煩悩との発業にあらざる者は是れ無記なるが故に」(『論』第五・二十二右)
護法正義は三受を各々四性に分けるのである。即ち三受各々に、四性があると説いているのです。五識とともに起こり、自然に働く貪と癡と、そして純苦趣(五趣)の中の自然に働く煩悩との未だ業を起していないものは有覆無記である、と説く。
「論。有義三受至是無記故 述曰。此説有四。一標宗。二指法。三引證。四總結。此初二也 五識皆通有此四性。且爲理者。五識倶貪・癡任運起者。嗔不善故此中除之。及第六意識在純苦趣中不發業煩惱。六十七・八等論云謂不發業煩惱。即貪等三。謂癡・慢・愛。修道煩惱一分。及身・邊二見全是無記。」(『述記』第五末・八十一左。大正43・423c)
(「述して曰く、此の説に四有り。(1