唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (39) 五受相応門 (3)

2014-08-16 16:23:31 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日の坊主バーは、早くから京都(某)大学四回生の女子五人組グループがお見えになり、また多くの方のご来店もあって、仏教談義の中、有意義な一日を過ごさせていただきました。有難うございました。お盆の期間中ということもあり、『盂蘭盆会経』(偽経)から、目連尊者のお話をさせていただきました。

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 部派では認めていない、貪が憂受や苦受と相応すると云う問題点を会通します。

 「貪は違縁(イエン)に会えるときには、憂苦(ウク)と倶(ク)なるが故に、瞋は順の境に遇えるときには、喜(キ)と楽(ラク)と倶なるが故に。」(『論』第六・十八右)

 貪は違縁(心に違う縁)に会う時には、憂受や苦受と相応するからである。
 瞋は順の境(心にかなう対象)に遇う時には、喜受と楽受と相応するからである。

 貪欲は対象を貪り執着する心所ですね。対象を貪るということは、対象をみて貪着を起こすことを喜ぶ心所でもあるわけです。それに違う縁に会うことは、対象を貪ることが出来なくなるわけですから、憂受・苦受を必然として招来するということなのですね。

 貪りの対象の代表は、名聞・利養・勝他ですね。これが失われることは耐え難いものなんですね。執着する対象がなくなることは、貪りが否定されることになりますからね。

 これもですね、深い問題を抱えています。正法に遇うことが無い限りですね、私は貪・瞋・癡を依り所をして生計を立てています。ですから、喜怒哀楽という感情(感受)の元は、貪・瞋・癡であるわけです。順境に遇える時は、喜び楽しいわけですが、ひとたび逆境(違縁)に遭遇しますと、一変します。心は暗く、憂い、悲しみ、そして苦痛を感じてきます。

 どうでしょうかね、我が身に引き当てて考えてみますと(?ここにはもっと深い煩悩が働いているわけですが)ああ、その通りやな、とは思うわけです。その思うのが、思量なんですね。ですから、本当は、貪・瞋・癡は見えていないのです。

 厄介なんです。納得するのも貪の働きなんですね。納得するということが一つの順境になって、納得したことを貪り、執着するという複雑さをもっています。

 『述記』・『樞要』・『了義燈』から、各々の所論を聞いてみますと、

 

 『述記』(第六末・三十九右。大正43・451b)より、

 

 「論。貪會違縁至喜樂倶故 述曰。逐難釋也。且於欲界。五・六識中憂・苦倶故。謂失財等。瞋翻此説。見怨死等。一切應知。然此五趣分別至下當知 此中意説。即五識中亦有分別所起貪等。由意分別貪等引故。不爾瑜伽分別貪等。云何與苦受相應。非許意有苦。是決定義故。由五識有分別起貪等決定故。五十九作此定説。不爾如分別慢等。彼不言苦倶故。」 

 

 (「述して曰く。難を逐(お)って釈すなり。且く欲界に於て五・六識の中には憂・苦と倶なるが故に。謂く財を失する等なり。
 瞋は此に翻じて説く。怨の死なるを見るなり。一切は知るべし。

 

 <この一段はきついですね。私たちは死者を見た時は、悲しい気持ちが働き、安らかにというでしょう、しかし、怨みをもっている人が死んだ時などは、瞋は喜受や楽受と相応すると説いているんです。つまりですね、憎い相手が亡くなった時は、嬉しいと云う感情がこみあげてくると云うのですね。楽を感じ喜びさえ感じるのである、と。>

 然るに此の五趣(地獄・餓鬼・傍生・人・天)を分別することは下に至って知るべし。
 此の中の意の説く、即ち五識の中にも亦分別所起の貪等有り。意の分別の貪等に引かるるに由るが故に。
 爾らずんば、
瑜伽に分別の貪等を、云何ぞ苦受と相応せん。
 意に苦ありと許すに非ず、是れ決定の義なるが故に。五識には分別起の貪等ありということ、決定せるに由るが故に。五十九に、此の定説を作す。
 爾らずんば、分別の慢等の如き、彼も苦と倶なりと言はざるが故に。」)

 参考 『瑜伽論』巻第五十八より

 「貪とは謂く能く躭著(タンジャク・執着、愛着すること)する心所を性と為す。此に四種有り、謂く諸見と欲(界)と色(界)と無色(界)に著するなり。
 恚とは謂く能く損害する心所を性と為す。此に復た四種有り、謂く己を損する他の見と、他の有情の所とに於ける、及び愛する所を饒益(ニョウヤク・利益を与えること)せざる所に於ける、愛せざる所に饒益を作す所に於ける所有の瞋恚なり。

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 又、十煩悩の七(貪・瞋・癡を除く)は、唯だ意地(意識のこと。意識は他の五識にない特別の働きがあることから別に立てて意地という。)なり、貪・恚・無明は亦五識に通ず、又欲界に於ける四見(五見の中、邪見を除く他の四見のこと)及び慢は喜・捨と相応し、貪は楽・喜・捨と相応し、恚は苦・憂・捨と相応し、邪見は喜・憂・捨と相応し、疑は憂・捨と相応し、無明は一切の五受根と相応す。此は多分の相応の道理に拠る。その余の深細なるは後に(第五十九巻)まさに広く説くべし。」

 部派における受の解釈は、例えば、貪という心所における受は楽と喜と捨受であると述べている。これは巻第五十八巻の所論の通りですね。しかし第五十九に至って「我今まさに説くべし。」と、大乗の所説を述べてきます。瞋恚は、喜受と楽受とも相応することを述べています。

 『瑜伽論』巻第五十九の所論

 「貪は一時に於て楽・喜と相応し、或は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に於て捨と相応すと。
 問。何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、或は楽受に於て、会遇(エグウ・遭遇すること)の愛、不乖離(フケリ・乖離していない)の愛を起こすに、而も現在前に遂に楽受に於て、会遇せざれば会遇に非ず、若し乖離(ケリ)すれば和合に非ず、或は苦受に於て不会(フエ)の愛、若しくは乖離の愛を起こすに、而も現在前に遂に苦受に於て合会すれば不合会に非ず、乖離せざれば乖離に非ず。是の因縁に由りて貪は一時に於て憂・苦と相応し、此れと相違するは喜・楽と相応す。若し不苦・不楽の位に於て味著(ミジャク・貪りを執着すること)を生ずれば、當に知るべし、此の貪は捨根と相応すと。

 恚は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に喜・楽と相応することあり。
 問。何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、自然に苦の為に身心を逼切(ヒッセツ・圧迫すること。苦しめること)せられ、遂に内の苦に於て作意し思惟し、恚恨の心を發し、或は非愛なる諸行、有情、及び諸法の所に於て作意し思惟し、恚恨の心を發す、是れに由るが故に恚は憂・苦と相応す。 
 問。恚と喜・楽と相応するは何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、怨家等の非愛なる有情に於て、恚悩(イノウ)の心を起こし、作意し思惟し、彼れ苦に没し、没し已るも済(スク)はず、或は楽を得ず、得已って還って気を失うことを願い、若し所願を遂ぐれば便ち喜・楽を生ず、是れに由るが故に恚は喜・楽と相応す。・・・」

 本科段である、貪と瞋についての『瑜伽論』巻第五十九の所論を記載しました。驚くような記述が記載されています。心の領域において、複雑に揺れ動くさまが表現されていますが、まさに私の心の中を見透すかしたように、貪の違縁と瞋の順境における憂受・苦受。そして喜受・楽受ですね。このようなこころが働いていることは否定できないですね。自分の身近なところで、ないとはいえない怖さを感じます。

 瞋恚に関してですが、喜受と楽受とも相応する、ということですね、もともとは、瞋恚は、憂受と苦受と相応するものなのですが、瞋恚は怒りですから、怒りは憂いと苦を招くものなのですが、喜と楽をもたらすものでもあるというのですね。『瑜伽論』の所説からですね、自分が怨む者など、或は自分が愛していない有情に対し、怒りや悩む心を起こし、作意し思惟し、彼が苦に沈み、沈んでいても救わず、或は彼が楽を得ることとなく、たとえ得ることがあっても、それを失うことを願い、その願いが自分の思い通りになれば、喜受や楽受を感受するものである。このようなことから、瞋恚は喜受と楽受と相応することがある、と説かれるのである、と。

 どうでしょう、否定できますか。大変恐ろしいことが記されているわけですが、僕には、このような心の情景というものはよくわかります。僕のことを言い当てられていますからね。「あんな奴、地獄に堕ちたらいいんや、金輪際這い上がってくるな」というようなね、こんな恐ろしい心を持ち合わせているんです。このようなところから、貪・瞋・癡にはすべて五受が相応すると説かれているのですね。他人事ではないと云うことですね。

                    (つづく)

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (38) 五受相応門 (2)

2014-08-15 11:11:53 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 答。

 「貪・瞋・癡の三は、倶生にもあれ分別にもあれ、一切五受と相応す容し。」(『論』第六・十八右)

 貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩は、倶生起のものであれ、分別起のものであれ、すべて五受と相応するものである。

 ここに至ってですね。なぜ十の煩悩のなかで、特に貪・瞋・癡の三が根本煩悩と呼ばれ、三毒の煩悩として呼ばれているのかがはっきりしてきます。つまり、倶生起・分別起において、すべて五受と相応するものが貪・瞋・癡なんですね。恒審思量ですね。生まれ持ったものとして、種子ですね。「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別」として、「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」。後天的な教えや躾によることなく、任運に生起する煩悩が貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしてくるわけです。

 大乗と小乗部派との説の相違がありますが、その辺の事情は『述記』に詳細が説かれています。

 「論。此十煩惱何受相應 述曰。第四諸受相應門。此問起 論。貪瞋癡三至五受相應 述曰。下文有二。初實義。後麁相。實義中有四。一明貪・瞋・癡。二明慢。三疑・及三身。四身・邊見。今初也。此之三根倶生・分別。一切容與五受倶起。對法第七・大論五十五。貪唯喜・樂・捨者。五十*五云。此據多分相應道理。隨轉門説諸煩惱。今據究竟。應准此會。此與五十九同。彼云貪等通六識。倶生者與一切受相應故。分別貪等。彼一一自作法出行相。然今此中總解二種貪等行相 下逐難解之。與憂・苦倶。謂別小乘故。」(『述記』第六末・三十八左。大正43・451b) 

 初(はじめに)、実義門によって、五受との相応について説明される。
  (1) 明貪・瞋・癡(貪・瞋・癡と五受の相応について)
  (2) 明慢(慢と五受との相応について)
  (3) 疑及三見。(疑と邪見・見取見・戒禁取見の三見と五受の相応について)
  (4) 身・辺見(薩迦耶見と辺執見と五受との相応について)

 後(後半は)、麤相門により説明される。

 本科段は初である。「此の三根は倶生にもあれ、分別にもあれ一切は五受と倶起す。対法の第七、大論の五十八に、貪はただ喜・楽・捨のみなりとは、五十八に云く、此は多分に相応する道理・随転理門に據って、諸の煩悩を説く。今は究竟するに據る。此に准じて会すべし。此(『論』)は五十九と同なり。彼に云く、貪等は六識に通じ倶生のものならば、一切の受と相応するが故に、分別の貪等を彼に一々に自ら作法して行相を出せり。然るに今此の中には総じて二種の貪等の行相を解す。下は難に逐って之を解す。憂苦と倶なるは、謂く小乗に別なるが故に。」

  •   作法(サホウ) - 三支作法の作法。宗(主張命題)を述べること。

 「憂苦と別なるが故に」ということが問題となるわけです。大乗では五受相応とするということなのですが、小乗部派では、貪が憂受や苦受と相応するとは認めていないのですね。この問題点を次科段から会通してくるのです。例えば、「貪は違縁に会う時には、憂受や苦受と倶にあるからである」と。

 『演秘』(第五末・八左。大正43・922a)の所論は、

 「論。貪嗔癡三至五受倶者。五十九中。分別貪等樂等相應別別作法。即此論云貪會違縁嗔遇順境略已攝彼。餘准可尋。故不引也。」

 (「論に、貪・瞋・癡の三はと云うより五受倶というに至は、五十九(大正30・627c)の中に、分別の貪等の楽等と相応することを別々に作法せり。即ち此の論(『瑜伽論』)に云く、貪は違縁と会えるときと、瞋は順境に遇えるときと、略して已に彼を摂めたり。余は准じて尋ぬべし、故に引かざるなり。」)

 本科段に入る前に、十の煩悩をみてきました。そしていろんな角度から十の煩悩がどのように作用していくのかを諸門分別として整理されているわけです。その第一番目が

 「是の如き総と別との十の煩悩の中に。六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に」

 と。ここに十の根本煩悩が、倶生と分別起に分けられていました。先ず、煩悩に倶生起と分別起の二つがあるということです。倶生起は身と倶である、身と倶に煩悩を生まれもって持っている。分別起は後天的な煩悩であるということですね。ですから「さるべき業縁のもよおせば」というのは任運にということで、倶生起であるということになりましょうね。それに対してですね、唯円の「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」という親鸞聖人に対しての返答は分別起に由るわけでしょう。そして分別起が破られてくる。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」と、倶生起の煩悩を見据えておいでになりますね。それではその頂いた煩悩をどうするのかという問題が出てきますが、倶生起の煩悩が本願によって見破られたということが先ずあります。「ただ念仏」において煩悩が破られてくるということが起ってくるんですね。聖道においてはこの倶生起の煩悩を修道において断ずることが大きな課題になるわけでしょう、しかし真宗も同じなんですよ。真宗における修道は聞法です。聞法において倶生起が破られてくるのか、どうかが大きな課題になりますね。破られた時、それが「念仏もうさんとおもいたったとき」ですね。即ち摂取不捨の利益にあずかる、ということになりましょう。転悪成徳正智をいただく、いただくということは、倶生起の煩悩を背負って生きることに他ならんのでしょう、そこにですね、自分の居場所がある、それが地の問題になると思うんですね。

 ここでは、分別起の煩悩は十の煩悩全部ですが、倶生起の煩悩は貪・瞋・癡・慢。それから我見と辺執見、これらは倶生起の場合もある、ということです。

 そして次の科段にですね、

 「此の十の煩悩は何れの識と相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂く貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に。」

 蔵識と倶に働く煩悩は無いということ。末那識と倶に働く煩悩は四つ。第六意識と倶に働く煩悩は全部。五識と倶に働く煩悩は貪瞋癡の三つであることが明らかにされたのですね。五識は無色透明、純なるものですから阿頼耶識と同じですね。この五識に色をつけるのが第六意識なんですね。それが貪瞋癡の三つであるというのですね。五倶の意識と云っていますが、五識がはたらいているのは、いつでも第六意識の影響下にあるということになります。

 大事な所は、蔵識には全無し、というところですね。深層意識の根本である阿頼耶識に煩悩は無いということが説かれているわけですが、ここも大事なことを教えていますね。

 そして本科段になります。「この十の煩悩は何れの受と相応するや」。貪瞋癡の三は倶生・分別に通じて五受すべてに相応すると、明らかにされたのです。

 倶生・分別に通じ、五受と相応するのは貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしたわけです。これが三毒の煩悩であるということの所以になりましょうかね。

 次科段は、小乗部派が説くことのなかった、貪が憂受・苦受と相応することにおける問題点を説明していきます。


第三能変 三段九義中、第二段六の受倶門を述べる。

2014-08-14 16:54:21 | 諸門分別、五受相応門に入る前に

一部ダウンロードできないということもありまして、編集した「受倶門」を再録させていただきます。幾分ページ数が多くなりますがお許しください。A4150ページになります。

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 第三能変 三段九義中、第二段、第六・受倶門を解釈する。第二段は、五、心所相応門と六、受倶門で、本頌では第九頌から第十四頌が相当します。

 「此の六転識は、易脱(やくだつ)し、不定なり、故に皆三受と相応す容し、皆順と違と非ニとの相を領するが故に」。(『論』第五・二十一左)

 (この六転識は、易脱し、不定である。その為に、すべて三受(苦・楽・捨)と相応すると知るべきである。何故なら、すべて順と違と非二との相を領納するからである。)
 

 ? 易脱(やくだつ) - 間断し転変すること。六識は、末那識や阿頼耶識のように間断がないものではなく、間断し転変するものであるという。
 ? 順 - かなうこと。
 ? 違 - かなわないこと。あるいは背くこと。
 ? 非ニ - 順と違のいずれでもないもののこと。
 ? 領納 - 感覚・知覚すること。心に受け入れること。
 ? 受 - 五遍行の一つ。感受する心の働き、作用、感情のこと。三受は苦受・楽受・捨受をいう。六識がいずれの受と相応するのかという意味が説かれています。
 ? 不定 - 前六識は苦・楽・捨の感受作用が、それぞれ互いに起こるために不定という。六識は苦・楽・捨のすべてを受け入れることから感受作用が互いに起こり得るのである。

  「論。此六轉識至非二相故 述曰。於中有二。初解因位受倶。後解果位受倶 因位中有二。初解本頌。後別分別 然此六識非如七・八。體皆易脱。恒不定故。易脱是間斷轉變義。不定是欣・慼捨行互起故。皆通三受所以如文。」(『述記』第五末・七十九右。大正43・423a)
 

 (「述して曰く。中に於いてニ有り。初めに因位の受倶を解し、後に果位の受倶を解す。因位の中にニ有り。初めに本頌を解し、後に別に分別す。然るに此の六識は七・八の如くには非ず。体皆易脱し恒に不定なるが故に。易脱というは是れ間断し転変する義なり。不定というは、是れ欣と感と捨との行互に起こるが故なり。皆三受に通ず。所以は文の如し。」)

 心所相応門が解釈され、受倶門が解釈されます。受倶門とは、六転識が、どの受と倶に相応し、相応しないのかということを論じている箇所になります。受とは、五遍行の中の、一つの心所であり、心の作用(感受する心の働き、感情)を述べるところです。特に「受」を取り出して解釈されるところに「受」のもっていることの大切さを思います。

 三受について

 「順の境の相を領して身心を適悦(じゃくえつ)するを、説いて楽受と名づく。違の境の相を領して身心を逼迫するを、説いて苦受と名づく。中容の境を領して、身に於いても心に於いても、逼(ひつ)にも非ず悦(えつ)にも非ざるを、不苦楽受と名づく。(『論』第五・二十一左)
 

 ? 順の境の相を受け入れて、身心を喜ばしめることを楽受という。(適はかなう・悦はよろこび)
 ? 違の境の相を受け入れて、身心を圧迫せしむることを苦受という。
 ? 中容の境を受け入れて、身においても、心においても圧迫するにも非ず、喜ばしめるでもないものを不苦楽受という。

 「領納して己に属するを受と名づくるが故に通ぜり。順と違との境相を領ずるに倶に身(根)を適して心を悦すると、倶に身を逼し心を迫すると別なり。故に三の受を成ず。或いは身と及び心とに倶に通じて適悦し倶に逼迫するなり」。(『述記』)

 「三受の中に、何が故に但だ苦楽を説いて名と為して、憂喜と標せざるや。苦をもって楽に対し、倶に三性に通ず。憂を以って喜に対する理則ち然らず。寛を以って狭を摂し、但だ苦楽と名づく。又苦と楽と行相猛利なり。」(『樞要』)

 受とは領納の義で。すなわち、(境を)受け入れて(領して)自分に属させること。境は対象ですから、対象を自分の中に受け入れて、そこから発生する感情、感受のことです。それに三受あるといわれ、また五受ともいわれます。

               ―      ・     ― 

 「論に、順境の相を領してというより不苦不楽というに至るは、問う。身識は一時に順違の境を領す。何れの受と相応するや。答う。伝にニ釈有り。一に云く、一時に能くニ境を領すること無きが故に随って一と倶なり。ニに云く、即ち一時の中に能くニ境を領す。境倶に至るが故に其の勝境に随って但一受と倶なり。五倶の意の何んの境の勝たるに随って受と倶なるが如し。故に此れ亦爾るべし。問う。受も五受有り。何んの意をもってこれを合す。答う。喜楽と憂苦と歓威と相以せり。故に合して三と為す。若し爾らば何んぞ喜憂捨と言わざるや。答う。軽を以って重に従え狭を以って寛に従う。楽苦は多地の識に通ずるが故に。(『演秘』)  

 『述記』の説明では適悦の適は身に対していい、悦は心に対していっています。心身に適い、楽しいことが適悦という意味だといっています。その反対に逼迫とは心身を圧迫するという意味をもちます。
順境の時は身心は適悦する。このことを楽受といい、違境の時、即ち逆境の時には身心は逼迫される。このことを苦受というわけです。このいずれでもない中容を捨受というのです。しかし心得ておかなければならないことは、私の身心の外に順・違・中容があるわけではありません。私の身心に適う事が楽受であり、適わなく疎外することが苦受であるわけです。また私には何の関係も持たないと思われることに対しては苦楽を感ずることはありませんので捨受ということになります。しかし私の関心事にたいしては苦楽を感じますから三受相応することになるのです。
 

 『了義燈』の問い
 

 「問。何が故にか憂・喜・捨の三を苦・楽に摂すと言はざる」に答えて、
 「①憂・捨は有異熟なれども、体是れ異熟には非ず。苦・楽は有異熟にして、又体は是れ異熟なり。又②苦・楽は三性に通ず。憂は染無記(有覆無記)に非ず。又③憂は離欲するときは捨す。余は離欲するときは捨するに非ず。苦・楽は体寛きを以て、挙げて憂・喜を摂す。」
 

 (「 問何故不言憂・喜・捨三以攝苦・樂 答憂・喜有異熟。體非是異熟。苦・樂有異熟。又體是異熟。又苦・樂通三性。憂非染・無記。又憂離欲捨。餘非離欲捨。苦・樂體寛。擧攝憂・喜。」 『了義燈』第五本・二十八右。大正43・752a)

 「受」とは、「領納」ということ。境の相を受け入れて己に属させること。感受することですね。対象を心に受け入れる、受け入れる、感受するから、そこに感情が起こるのです。受け入れなければ感受も感情も起こりません。対象と自己が関係するところに感情が起こるのです。対象と自己が関係するというのは、自己が作り出したものを自己が見るという、私の感情になるわけです。貴方の感情ではありません。違うんです。自己に領納するところに、人人唯識なのです。領納するところに、「触」が介在するのです。『倶舎論』に「受は随触を領納す」と説かれていますが、感受は、対象が触れた対象を受け入れることなのです。例えば苦境が触れると苦触が生じ、苦触を受け入れると苦受が生じ、苦を感じる感情が起こってくるのですね。(但、唯識では、境は自分がつくりだしたもので、能変が所変に変化したものと捉えています。)

 「是の如き三の受をば、或いは各々二つに分かつ、五識と相応するをば説いて身受と名づく。別に身に依るが故に、意識と相応するをば説いて心受と名づく。唯心のみに依るが故に」。(『論』第五・二十一左)
(このような三の受(苦・楽・捨の三受)を各々二つに分けると、五識と相応するものを身受という。何故なれば、別に身に依るものだからである。二つには、意識と相応するものを心受という。何故ならば、ただ心のみに依っているからである。)

 「論。如是三受至唯依心故 述曰。五識通依色・心二依。意唯依心。五識依心非不共依。色是別依。故言別依。其意唯心。其理可解 又解對法第一。云集色所依集無色所依。色根相異言別依身。如彼疏解稍有異同」(『述記』第五末・七十九左。大正43・422a)

 (「述して曰く。五識は通じて色と心とのニの依に依り、意は唯心に依る。五識が心に依るは不共依に非ず。色は是れ不共とは別の依なり。故に別に依ると言う。其の意には唯心のみあり。其の現解すべし。又解す。『対法』第一に集色の所依集無色の所依と云えり。色根の相異なり。各別に身に依ると言う。彼の疏(『対法抄』巻第三)に解するが如し。」)

 『対法』第一にというところは、『演秘』によりますと、「彼の論(『雑集論』巻第一)を案ずるに云わく。色の所依を集めて身受を建立し、無色の所依を集めて心受を建立すと。釈して曰く、身心皆積集を以って義と為すが故に色と無色とを皆集と云うなり。ニの所依に従って身心の称を得。
 問。第六は七に依る、七を何んぞ心と名づくるや。集の義無きが故に。 
 答。刹那相続して前後衆多なり、積集と名づくることを得。或いは本識に拠り、或いは意根の中に七と八との識に通ずるを以って、故に集心と名づく」。

「別に身に依るが故に」は五根を指します。「五識は通じて色と心とのニ依に依る」と言われますように、五識は色法(物質的存在、空間的占有性のあるもの、即ち五官によってとらえられる対象。色は形あるもの。質礙(ぜつげー同時に同一箇所を占有できない性質)の意。)を依り所として存在する識です。このことから色法を所依として存在する識の受ということになり、この前五識の三受は身受といわれるのです。そして第六意識は心法を所依として存在する識でありますので、第六意識の三受は心受というのです。「意は唯心に依る」。しかし五識も色法のみならず心法も所依として存在しています。此の事に関しては「五識は心に依るは不共依に非ず、色は是れ別の依なり」と説明されています。前五識の不共依は五根なのです。前五識と相応する受を、前五識の所依である不共依である五根によって身受といわれるのです。これは前五識の独自性ですね。第六意識にはありません。心法は前五識も第六意識にも共通の所依なのです。共依ですね。不共の識ということで、身受というのです。身と心との受について何故に五識と倶なるを身受と名づけるのか、また、第六意識と倶なるを心受と名でけるのか、という問いもなされています。身というのは積聚の義だと。積聚(しゃくじゅ)というのは、種々の要素が集まって一つのものを形成していることです。いわゆる五種の色根は皆、積聚であると。五識は眼・耳・鼻・舌・身の五根が集まって形成されているということです。「彼の五根に依って皆、身と名づける」。そしてもう一つの説明がなされます。身というのは唯、身根に属する。その他の四は身に依るので相従って身というのである。であるので、身受というのである。
 前に憂受・喜受ということがでていました。苦・楽・捨の三受を開くと五受になるのですが、身受と心受のニ受に摂められるのです。身受としての三受(苦受・楽受・捨受)と心受としての三受(憂受・喜受・捨受)がいわれます。
 

 ? 苦受 - 苦なる身受と憂受としての苦なる心受
 ? 楽受 - 楽なる身受と喜受としての楽なる心受
 ? 捨受 - 苦でもなく楽でもない身受と心受

 ここは何を伝えているのかといいますと、身体的な感受と心の面の感受ですね。身体的苦痛を苦受といい、精神的苦痛を憂受であるといい現わしているのです。
  
 

 三受と有漏と無漏との関係について

 「又 三つながら皆、有漏と無漏とに通ず、苦受も亦無漏に由って起こるが故に」。(『論』第五・二十二右)

 (また三受とも有漏と無漏に通じて存在し、苦受もまた無漏に由って起こることがあるからである。)

すこし煩雑になりますが、この前の文よりの表記を『述記』の説明によりますと下記のようになります。身受と心受についての所論です。

 「下は別に分別するが中に三有り。初めに増減を以って分列し、次に例して余の門に摂し、後に三の受の倶なる義を弁ず。増減門の中にニより五に至るまでに、ニのニと両の三とニの四と一の五と有り」。(『述記』第五末・七十九左)
 

 ? 二より五に至るまでの、二のニとは「身受と心受」・「有漏と無漏」のニ組
 ? 両の三とは三断と三学の両をいい、ここでいわれる三学は有学・無学・非ニのことで、戒・定・慧の三学を指すのではありません。
 ? ニの四とは三受と善・悪・有覆無記・無覆無記の四を指し、二とは総論を一・個別説明を一としてのニになります。
 ? 一の五とは五受についての説明になります。一とは五受一つということです。

 「述して曰く、一に云く、若し憂根も皆能く無漏を引き、無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯だ後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。(『述記』第五末・八十左)

 『演秘』はこの「受寛根狭者」を釈して、
 

 「受は寛く根は狭し」とは、三受門の如し。苦楽二受に憂喜を含せるが故に。しかるに根と言うときは、即ち是の如くならず、二十二根は喜楽憂苦を各別に立つるが故に、故に寛狭異なり。」(『演秘』第五本・四左)

 『瑜伽論』巻五十七に二十二根についての記述があります。「云何が二十二根を建立するや」という問いが立てられ、細にわたって説かれています。二十二根の中に五根(憂・喜・苦・楽・捨)は五受根であると説かれ、この五受根等は有漏・無漏に通じるといわれています。従って三受もまた有漏・無漏に通じる、と説かれているのです。

 「苦受は無漏に通ずとのみ説けり」というのは、大悲無倦ということです。無漏を得た菩薩が、その境地に留まることなく後得智を得て利他教化のために深広無涯底の闇に身を投じて衆生の為に抜苦与楽を与えようとする働きをもつのです。無漏を得たからこそ衆生に代わって苦を受ける(大悲代受苦)ことができるのでしょう。法蔵菩薩とはこのような存在ではないでしょうか。
 

 身受と心受についての『了義燈』の解釈。

 「又身心受。何故五倶名爲身受。第六識倶名爲心受答有二解。一云身者積聚義。五種色根皆積聚。依彼五根皆名身 二云身者唯屬身根。餘四依身相從名身。故能依受得名身受 難五識別依根。相應之受得身名。第六別依意。相應之受標意稱 答五根皆積聚受。從所依得名身。對色辨於心。第六相應非意受 問色心以相對六不同。五名身受。身・眼兩相望。眼不齊身立身受答身・眼倶色並得名身。對色・心殊六名心受 又受依於身即名身受。受依於意應名意受 且質答云。六受依於意。依意名意受。五受依眼等。應名眼等受。據門明別。身・心相對名身心受。不可齊責。」(『了義燈』第五本・二十四左。大正43・751a20~751b05)
 

 

 (「身と心と受」に於て、何が故か、五と倶なるを名づけて身受と為す。第六識と倶なるを名づけて心受と為るや。答う、二の解有り。一に云く、身と云うは積聚(しゃくじゅ)の義なり。五種の色根は皆積聚なり。(「積聚の義は是れ蘊の義なり」)彼の五根に依って皆身と名づく。二に云く、身と云うは唯、身根のみに属す。余の四は身に依るを以て相従して身と名づく。故に、能依の受を身受と名づくることを得。
 難ずらく、五識は別に根に依る。相応の受は身の名を得ば、第六と別に意に依る。相応の受は意の称を標すべし。
 答う、五根は皆、積聚せり。受を所依に従えて身と名づくることを得る。色(身受)に対して心を弁ず。第六と相応するは意受に非ず。
 問、色と心と相対して六不同を以て、五は身受と名づく。身と眼と兩つ相望して眼をば身に斉しくせず。身受とは立てず。
 答、身と眼とは倶に色なるを以て、並びに身と名づくることを得る。
 色と心と対するに殊なるを以て、六を心受と名づく。
 又、受が身に依るを即ち身受と名づけば、受が意に依るを以て意受と名づくべし。
 且く質答して云く、六の受は意に依る。意に依るを意受と名づけば、五の受は眼等に依る、眼等の受と名づくべし。門を明すこと別なるに拠って身心相対して身心の受と名づく、斉しく責むべからず。」)。

 「論。又三皆通至無漏引故 述曰。一云若憂根・苦根皆能引無漏。無漏所引皆通無漏。受寛根狹。故論説苦受通無漏 一云五根中。唯以苦根於學・無學身中。無漏第六意引生故。或唯後得智中。方起五識精進等故。有苦根假名無漏。然五十七説是無漏。何以知者。彼漏・無漏門作是説故。此苦雖然憂非無漏。雖亦能爲無漏加行。仍爲未知欲知根性。非無漏引生。不倶起故。非無漏攝。」(『述記』第五末・八十左)

 (「述して曰く、一に云く、若し憂根・苦根、皆能く無漏を引く。無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。)
「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」(『了義燈』)と。
 

 二十二根について

 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、男・女・命の三根と、喜・苦・楽・憂・捨の五受根と、信・勤・念・定・慧の五善根と、未知当知・已知・具知の三無漏根を指します。「云何が二十二根を建立するや。(第一義)謂く能く境を取り増上する義なるが故に六根を建立し、家族(けぞく)を安立し、相続して断ぜず増上する義成るが故に二根を建立し、性命(しょうみょう)を活するが為の事業(じごう)方便増上するが義なるが故に一根を建立し、業果を受用(じゅゆう)し増上する義なるが故に五根を建立し、世間の清浄増上する義なるが故に五根を建立し、出世の清浄増上する義なるが故に三根を建立す」。(『瑜伽論』巻の五十七)
 

 ? 六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意根
 ? 二根とは男根・女根
 ? 一根とは命根
 ? 最初の五根は喜・苦・楽・憂・捨の五受根
 ? 次の五根は信・勤・念・定・慧の五善根
 ? 三根は未知当知・已知・具知の三無漏根

 (第ニ義)・(第三義)・(第四義)・(第五義)・(第六義)・(第七義)・(第八義)まで説かれ、それに対し結釈を取り、第四門に於いて根を分別し、問答がおかれています。
 ? (問い) 是の如き諸根は幾ばくか是れ実有にして、幾ばくか実有に非ざるや。
 ? (答え) 十六(眼等の六根と五受根と信等の五根の十六)は実有なり、余は実有に非ず。
 ? (問い) 幾ばくか色の所摂なるや。
 ? (答え) 一(の意根)と三(無漏根)の少分(意)なり。
 ? (問い) 幾ばくか心(所)法の所摂なるや。
 ? (答え) 十(信等の五根と五受根)と三(無漏根)の少分(心所)なり。
 ? (問い) 幾ばくか心所不相応行の所摂なるや。
 ? (答え) (命根)の一なり。
 ? (問い) 幾ばくか有為の所摂なるや。
 ? (答え) 一切是れ有為なり。根有ること無きは是れ無為なり。 
・・・
 ? (問い) 幾ばくか有漏にして有漏を義と為すや。
 ? (答え) 唯、七なり。(眼等の五根と男・女二根)最後の二(根)及び苦憂根(くうこん)を除いて、余は(信等の五根、意根、命根、楽喜捨の三根、未知根)有漏無漏にして有漏無漏を以って義となす。当に知るべし、苦根は有漏無漏にして有漏をもって義と為し、憂根は有漏にして有漏無漏を以って義と為し、未知欲知根の若しくは沙門果に遠き世間行の所摂は是れ有漏なり。若しくは沙門果に近き出世行の所摂は是れ無漏なりと。・・・」(『瑜伽論』より)

 この『瑜伽論』の記述に依り『論』には「又三皆通有漏無漏。苦受亦由無漏起故」といわれるのです。
 

 両の三 三断(見所断・修所断・非所断)と三学(有学・無学・非二)との関係について

 「或いは各々三に分かつ、謂く、見所断と修所断と非所断とぞ」。(『論』第五・二十二右)

 その一 (三受と三断との関係について)- 或いは三受各々を三つに分ける。つまり見所断と修所断と非所断とである。三受は、また、三断にも通じるという。
『瑜伽論』巻第五十七に
 

 ? 問。 幾ばくか見所断にして見所断を義と為す是れ等の如きぞや。
 ? 答。 十四(眼等の五根と男女の二根と命根と五受根と意根を指す)の一分は見所断なり、一分は修所断なり。十二(五受根と意根と信等の五根と及び未知根)の一分は修所断なり、一分は非所断なり。謂く即ち十四の中の六及び余の六なり。余の二(已知倶知の二根)は非所断なり。此の中有色の諸根は見修の所断を義と為し、無色の諸根は三種を義と為す。謂く見・修の所断、非所断なり。

 「論。或各分三至非所斷故 述曰。此准前説五受・三受作論可然。五十七説十四一分見所斷。一分修所斷。謂除信等五・及三無漏。其七色・及命由約不生斷故通見斷。其餘可然。信等善法。依斷縁縛故不説見斷。若互相顯。隨其所應。十二一分修所斷。一分通不斷。謂前六及後六。前六一分非所斷攝。即是已前見道斷中六。謂五受・意根。憂・苦二根亦非斷故。隨順趣向不斷法故假名非斷。體非不斷。以此義准趣向無漏應名無漏。無漏不引論不説之。不可説六中是命根無學身有故。五根亦應爾故不可也。信等五・及初無漏。有漏修斷。無漏是不斷。」(『述記』第五末・八十左。大正43・423b)
 

 (「述して曰く。此れは前説に准ぜば、五受・三受において論を作すこと然るべし。五十七に十四の一分は見所断、一分は修所断なりと説けり。謂く信等の五と及び三無漏とを除く。其の七(眼等の五根と男女の二根)の色と及び命とは不生断に約するに由って、故に見断に通ずという。其の余の受根・意根は見・修断に通ず、然るべし。信等の善法は縁縛を断ずるに依るが故に見断とは説かず。若し互いに相顕はすことは其の所応に随うという。十二は一分は修所断なり一分は不断に通ず。謂く前の六(五受根と意根)と及び後の六(信等の五根と未知根)ぞといえり。前の六が一分は非所断に摂す。即ち是れ已前の見道断の中の六なり。謂く五受と意根とぞ。憂・苦の二根も亦非断なるが故に不断法(無漏法)に随順し起向するが故に、仮に非断と名づくれども体断にあらざるには非ず。此の義を以って準ぜば無漏に趣向するをもって応に無漏と名づくべけれども、無漏に引かれざるをもって論に之を説かず。六の中に是れ命根あり無学の身に有るが故にと説くべからず。五根も亦応にしかるべし。故に不可なり。信等五と及び初の無漏とは、有漏ならば修断なり、無漏ならば不断なり」)

 三無漏根について 

 ? 未知当知根(みちとうちこん)はまだ知らないことを知ろうとする根。四諦の理を観じて迷理の惑を断ずる見道位の無漏智。
 ? 已知根(いちこん)は三無漏根・二十二根の一つ。すでに四諦の理を知了して修道位において発する意根・楽根・喜根・捨根・信根・勤根・念根・定根・慧根の九根をいう。無漏の智であり、事に迷う惑を断ずる。
 ? 具知根(ぐちこん)は一切煩悩を断じ尽くして所作已弁という境地における無漏智のこと。一切のなすべきことをすでになし遂げ、断ずべき煩悩もなく、修めるべき道もないと知って発する、意・楽・喜・捨・信・勤・念・定・慧という九の根をいう。

 『了義燈』第五本・二十四左より

 「三断を明かす中に有解に云く。苦受の中には不断を求むるが故に、亦非断なり。離欲のときには捨するが故に。已に断ぜるを以って非所断と説く。要集断じて云く、有解を勝と為す。今此の釈を為て不断を求むるが故に。亦非断なりと云ふは即ち本疏の解に随順す。不断の法に趣向故に。仮に不断と名づくなりといふ。」
 

 ? 不生断 ー ものが再び生じないように、ものの生ずる縁を断じ尽くしおわること。因である煩悩を断ずることにより、その果である業が生じないことをあらわす。
 ?不断 - 断たれるという働きが無いこと。
 ?非断 - 断絶するのではないこと。
 ?所断 - 見道位においても修道位においても断ぜられないから。
 ?見所断 - 見道所断の略。四諦の理を見通すことによって断たれるべきこと。見道位によって断ぜれれるべき煩悩の意。見道位は無漏道をはじめて見つけて、聖者の仲間に入った位で、見諦道ともいう。大乗仏教では初地の菩薩を指す。また初期仏教では預流向をいう。唯識では五位の第三である通達位を見道位という。
 

 「見道と申は初めて無漏の智起こって麁障を断ずる時なり」。(『法相二巻抄』
 

 ? 修所断(しゅしょだん) - 修道位によって断ぜられるべきこと。修道とは見道の後で、さらに具体的な事象に対処して、いくども反復して修習する段階で、修所断の煩悩を断ち切る過程をいう。
 ? 非所断 - 見道位においても修道位においても断ぜられないことをいう。
 「又は学と無学と非二とを三と為す。」(『論』第五・二十二右)

 (又は、有学と無学と有学でもなく、無学でもない非二を三とする。)
三受は有学と無学と非二のいずれをも備える。『瑜伽論』(巻第五十七)には、三受は無学に通じて摂められると説かれる。その説は無学人の根性に随い、無学人に随順せるものであって、憂・苦根は併せて有学である。苦根は亦無学にも通じる、と説明されている。
 

 ? 問 - 幾ばくか学にして学を義と為す是れ等の如きぞや。
 ? 答 - 信等の五根、喜・楽・捨の三根と命根の九は学、無学、非学非無学にして三種を以って義と為し、眼等の五根と男女二根の七は非学、非無学にして即ち此れを以って義と為し、苦根は三種に通じ、非学非無学を義と為し、憂根は学、非学非無学にして三種を以って義と為し、未知根と已知根は学にして三種を以って義と為し、具知根は無学にして三種をもって義と為す。
 

 (学は有学のこと。まだ学ぶことのあるもので、阿羅漢果までに至っていない聖者を指す。四果の内の前三果をいう。修行をしているのだけれども、未だ完全には煩悩を断じていないために、さらに修行が必要な段階です。無学はすでに学を究め、もはや学ぶべきことがない境地を指します。阿羅漢果のこと。非学非無学は一般にいう学問のないことを指しますが、生死解脱を求めない人と解していいのではないかと思います。)
 苦根は五識相応の故に、学無学を以って定義とはなさない。三受は三に通ずる。
 学法とは何か、という問いに対して「謂く或いは預流(よる)・一来(いちらい)、或いは不還(ふげん)の有学の補特伽羅(ふとがらー凡夫)の若しは出世の有為法、若しくは世間の善法、是を学法と名づく。」といわれ、何故ならば、学法に依止し、時時の中に於いて精進し、増上戒学・増上慧学を修学するからである。
無学法とは何か、という問いに対して「謂く阿羅漢にして諸漏已に尽きたるもの、若しくは出世の有為法、若しくは世間の善法、これを無学法と名づける。無学身の中の世間の法を何のいわれがあって無漏というのか、という問題がのこりますが、「煩悩無きが故に」と説かれ、「三有に堕する故に有の所摂と名づけ、諸漏の随眠を永に解脱するが故に説いて無漏と名づく」と。
非学非無学とは、学・無学法を除くその余の預流乃至阿羅漢の若しくは一切の異生(いしょうー凡夫)に堕して相続し、若しくは彼の増上なるあらゆる諸法をいう。
 

 「論。又學無學非二爲三 述曰。非二。謂非學・無學。五十七説三受可通無學所攝。彼説隨彼所有根性。隨順彼者即是彼故。憂・苦根並是學。苦根亦無學。一一如彼文。又六十六有諸門。分別學・斷等稍勝勘會。此等諸門雖名同小。法體全別。」(『述記』第五末・八十一右。大正43・423b)
 

 (述して曰く。非二と云うは、謂く学無学に非ずと云う。五十七に説けり。三受は無学に通じて摂する所なるべし。彼の説は彼(無学人)の有する所の根性に随って、彼に随順する者即ち是れ彼(十無学法)なるが故に。
 憂苦根は並びに是れ学なり、苦根は亦、無学にもあり。一々彼の文の如し。又六十六に諸門有って学と断との等しきを分別せり。稍々勝れたり勘へ会すべし。此れ等の諸門は名は小に同なりと雖も法体は善に別なり。)
 ? 十無学法 - 無学(阿羅漢)の有する十のありよう。無学の八正道と正解脱・正智をいう。

 『了義燈』の釈

 「三學分別。集論第二・雜集第四倶説。從求解脱者等。身中所有有爲善法。名學無學。即簡不爲求解脱者。雖有善法不名學無學法。瑜伽六十六云。謂預流等補特伽羅出世有爲法。若世間善法。是名爲學。瑜伽第十説預流等皆有一分十二有支。是非學非無學者。據未趣求解脱之時所造善業。非學無學。若資糧・加行爲有支者。可是學法。故説一分。不爾應言所有有支皆非學法。何云一分。言資糧等非有支者。據無漏者説 又解或雖有漏。厭背有故。非有支攝。言一分者。據預流七返有及一來等有。名爲一分。非學無學。餘如理思。」(『了義燈』第五本・二十五左。大正43・751b)
 

 (「三学分別するに、集論の第二、雑集の第四に倶に説く。解脱を求めるに從へる者の等きが身中に、有らゆる有為の善法をば学無学と名づく。即ち解脱を求むることを為さざる者を簡ぶ。善法有りと雖も学無学と名づけず。
生死解脱を求める求道心(往生極楽の道を問う)を以て行う有為の善法は学無学と名づけられるが、求道心のない世間の善法(慈善事業等)は、仮に善法として成り立っていても、それは学無学とはいわない、ということですね。大切なことを教えています。

 瑜伽の六十六に云く、謂く預流等の補特伽羅の、出世の有為の法と、若し世間の善法とをば是れを名づけて学と為す。瑜伽の第十に、預流等に皆、一分の十二支有りと説く。是れ非学と非無学とは、未だ解脱を趣求せざるの時に造する所の善業に拠って学無学に非ずという。若し資糧・加行の有支と為るならば、是れ学法なるべし。故に一分と説く。
 (問) 爾らずんば有らゆる有支は皆、非学法とも言うべし。何ぞ一分と云う。
 (答) 資糧等は有支に非ずと言うは法爾無漏種の者に拠って説く。
 又解す(正義)。或は有漏と雖も有を厭背するが故に有支に摂むるに非ず。一分と言うは預流の七返有と及び一来の等有に拠って名づけて一分為り。学無学には非ず。余は理の如く思へ。」)

 ? 七返有(しちへんう) - 詳しくは、極七返有補特伽羅(ごくしちへんうふとがら)という。欲界の修惑をすべて断ずることなく見道に入って、第十六心の修道の位に住する預流の聖者のなか、人と天との間を七度も極めて多く往返する聖者をいう。
 ? 有支(うし) - 十二支のこと、生存の有り様を構成する十二の契機。 唯識は、過去は非存在であるとするが、過去の有り様は阿頼耶識に熏じられた種子として現在に存在し(異熟因)、その種子が未来に果(異熟果)を生じると説く。
  

 第三門(二の四) 三受と善・不善・有覆無記・無覆無記との関係について 

 その(1) 性を四性に分けることを述べる。
 「或いは総じて四に分かつ、謂く、善と不善と有覆・無覆の二の無記との受ぞ」(『論』第五・二十二右)
 
 
四つとは、善と不善と有覆無記と無覆無記の四性に分けることを説く。この説は、難陀(長徒)の説とされています。
 

 「論。或總分四至二無記受 述曰。此長徒義。文易可知。言總分四故無異説。」(『述記』第五末・八十一左。大正43・423b)
 

 (「述して曰く。此れは長徒の義なり。文易くして知るべし。総て四に分かつとのみ言う。故に異に説くことは無し」)
 他に異説はないと述べています。

その(2) 三受と四性の関係について述べる。(護法正義)

 「有義は、三の受を各々四に分かつ容し。五識と倶起する任運の貪と癡と、純苦趣の中の任運の煩悩との発業にあらざる者は是れ無記なるが故に」(『論』第五・二十二右)
 

 護法正義は三受を各々四性に分けるのである。即ち三受各々に、四性があると説いているのです。五識とともに起こり、自然に働く貪と癡と、そして純苦趣(五趣)の中の自然に働く煩悩との未だ業を起していないものは有覆無記である、と説く。

 「論。有義三受至是無記故 述曰。此説有四。一標宗。二指法。三引證。四總結。此初二也 五識皆通有此四性。且爲理者。五識倶貪・癡任運起者。嗔不善故此中除之。及第六意識在純苦趣中不發業煩惱。六十七・八等論云謂不發業煩惱。即貪等三。謂癡・慢・愛。修道煩惱一分。及身・邊二見全是無記。」(『述記』第五末・八十一左。大正43・423c) 
 

 (「述して曰く、此の説に四有り。(1


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (37) 五受相応門 (1)

2014-08-14 12:37:08 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

「seikannamo.docx」をダウンロード

 諸門分別の第四は、五受相応門について説かれます。

 「此の十の煩悩は何れの受と相応する。」(『論』第六・十八右)

 この十の煩悩は、どの受(苦受・憂受・楽受・喜受・捨受)と相応するのか?

 先ず問いが出されます。本科段は第三能変受倶門と密接な関係にありますので、復習の意味で受倶門をまとめました。上記のURLからダウンロードして学んでいただけたらと思います。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (36) 諸識相応門 (2)   

2014-08-13 10:36:30 | 第三能変 諸門分別 諸識相応門

 以前の投稿と重なりますが、「末那には四有り」といわれています。四とは我癡・我見・我慢・我愛。末那識は此の心所と共に働くのです。いわゆる我執です。自己執着心ですね。これが微細に働くといわれているのです。これが倶生起だと。そして第六意識と共に働く十の煩悩は荒々しく働く、これが分別起、此の十の煩悩がもう一度我執という根本煩悩に染汚されて、気づかれないように微細に恒にですね、寝ても覚めても間断なく働き続けるのです。第六意識は有間断です。寝ている時には働かないのですね。意識に上に働く煩悩はある程度は自覚できるのでしょうが、末那識相応の煩悩は自覚不能です。自覚したその足元に我執がはたらいていますからね。自覚もまた我執なのです。いわば「自己中だな」と思う心が自己中なのです。この心をはっきりと第二能変として独立させたのが世親の『唯識三十頌』なのですね。そして第七識であると位置づけたのが『成唯識論』であるわけです。「是の識をば聖教に別に末那と名く。恒に審らかに思量すること余の識に勝れたるが故に」といわれています。恒審思量がこの識の性であり相でもあるわけです。私には気づかない心の深いところで自己を思い続けるエゴイズム性、恒に(ぴんと張りつめてたるまない心)審らかに(細かいところまで明らかにする心)自分にとって何が利益になるのかを思い量っているのが末那識といわれるのです。後に詳しく考察していきたいと思っています。ここではこの末那識から煩悩が働くのであるということをいっています。「蔵識には全に無し」といわれますから、命の無記性の上に私たちは我執の心を働かせているのです。『法相ニ巻鈔」にこのような言葉が語られてありました。「今此の煩悩・随煩悩は其の性必ず染汚(ぜんま)也。染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆、穢らはしき心あるが故に染汚性の法と名づく」と。煩悩・随煩悩の性は「けがれ」ているということです。心を穢し濁すことであると。そしてその元にあるのが我執なのです。我執は無いにも拘わらず有ると思う思いが有る。有ると考えるから我執というのです。有ると思う想いを見というのですね。悪見です。何故このようになるのかと言いますと、私たちは無始以来本当の自己に出遇っていないのですね。真の自己を知らないから自己の思いを自己だと錯覚しているのです。これが我執であり我見なのでしょう。所依が我癡、自己に対しての無明ですね。こういうのを顛倒(てんどう)というのでしょう。

 

 親鸞聖人の罪の捉え方は徹底した罪の自覚です。「蛇蠍姧詐(じゃかつかんさ)の心にて」「悪性さらにやめがたし」「無慚無愧のこの身にて」と、無知を知ったらどうにかなるというような質ではなく、もうどうにもならないというような「無有出離之縁」という自覚ですね。

 

 この自覚が明るいんですね。暗さは微塵もありません。自覚の裏打ちが、康元二歳、親鸞聖人八十二歳の御時の二月九日夜の寅時夢告云の御和讃によく表れています。

 

          弥陀の本願信ずべし
            本願信ずるひとはみな
            摂取不捨の利益にて
            無上覚をばさとるなり

 

 その後の御歳八十八歳に書き記されました御和讃『正像末和讃』ですが、悲嘆と法悦のハーモニーが織りなす信心の世界が見事に表現されています。 

 

語註ー 蛇蠍姧詐(毒をもった蛇や蠍のようなもので、わるがしこく、いつわりだけの心しか持っていない自分であるという意)

 次科段は、第四に諸受相応門が説かれます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (35) 諸識相応門 (1)

2014-08-12 23:42:49 | 第三能変 諸門分別 諸識相応門

 答え

 「蔵識には全(スベテ)に無し、末那もは四有り、意識には十ながらを具す、五識には唯三のみあり、謂く貪と瞋と癡とぞ、分別無きが故に、称量するが等きに由って慢等を起こすが故に。」(『論』第六・十八右)

  •  称量(ショウリョウ) - 量り知ること。熟考することで慢の働きを示している。思惟・称量・観察という表現のなかで用いられること場合が多い。
  •  称量等 - 量り知ることの他に「猶予して簡択すること」(疑の働き)と「推求すること」(五見の働き)をも含めている。
  •  慢等 - 慢・疑・五見を指す。

 蔵識(阿頼耶識)には、この十煩悩はすべて存在しない。末那識には四つの煩悩が存在する。即ち、我癡・我見・我慢・我愛であり、これらの煩悩は倶生起のものである。意識には十の煩悩すべてが存在する。五識には、唯三のみが存在する、つまり貪欲・瞋恚・愚癡である。何故ならば、五識には分別する作用が無いからである。称量等という、慢・疑・五見は必ず分別(随念分別と計度分別)によって生起する煩悩である。つまり、分別する作用の無い五識には慢・疑・五見は存在しないということである。

 蔵識(阿頼耶識)には - 煩悩は存在しない。阿頼耶識に存在するのは五遍行のみである。但し、現行熏種子という、所蔵という意味に於いて煩悩の種子は蔵される。七転識によって蔵される、阿頼耶識そのものには蔵するという働きは有りません、阿頼耶識は無色透明なんですね。

 末那識には - 四煩悩が存在(相応)する。

 第六意識には - 十煩悩すべてが存在(相応)する。

 前五識には - 貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩のみが相応する。

 「 論。藏識全無至起慢等故 述曰。第七・八識如前已説。意識並有。五識但三。以無分別故無慢等。慢等必由有隨念・計度分別生故。又由慢於稱量門起方勝負故。疑猶豫簡擇門起。見推求門起。故非五識。故五識無此等行相。故對法第七。説稱量等門。即等猶豫門等也。」(『述記』第六末・三十八右。大正43・451b) 

 (「述して曰く。第七・八識は前に已に説くが如し。意識には並びに有り、五識には但三のみあり、無分別なるを以ての故に、慢等は無し。慢等は必ず随念と計度との分別有るに由って生ずるが故に。又慢は称量門に於て起ち、勝負を方するに由るが故に。疑は猶予して簡択する門に起るが故に。見は推求する門に起るが故に。五識に非ざるが故に。五識にはこれ等の行相無きが故に。対法の第七には称量等の門を説けり。即ち猶予門等と等ずるなり。」)

 阿頼耶識と前五識は無分別の識、末那と第六識は分別の識であるということですね。

 『安田理深選集』より(第三巻p405)

 「慢は称量というが、これは比較すること、他に対して自己をたかめる作用である。疑は広い意味では猶予である。猶予して簡択することから、疑は慧を体とするという論家もある。猶予とは、あれかこれか決まらぬことである。決定させるのが慧であるが、慧を決定させぬようにしているのが猶予である。疑と慧とは恒に深い関係がある。慧を決定せしめないようにしているのが疑である。であるから疑は必ずしも慧ではないというのである。いずれにしても、称量・猶予・推求というものは第六意識の世界にあることで無分別の世界では考えられない。こういうことから、無分別の五識に、これらは相応することはできないのである。」

 迷っているというのは決まらない。歩むべき道が定まらないということなのですが、これが疑の内実なのですね。猶予だというのです。猶予というのは疑っている、決まらんということですね。そこで問題となることは疑は慧を体とするということです。疑は不決定、慧は決定これは矛盾する概念ですが、ここに深い意味が有るんでしょうね。慧に迷っていると云うのかですね、慧を覆っているのが疑というわけでしょう。これが我執の正体なのでしょう。我執を依とする限りですね、疑は付き纏うということですね。道が定まらないということは、自分がわからない、迷っていることは、疑というレッテルを貼って歩いているようなものです。これでは自信がもてないでしょうね。どうあってもいいんですね、この道一つ、ただ念仏。でしょう。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (35) 自類相応門 (21) 

2014-08-11 22:38:29 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 自類相応門 まとめ

 『安田理深選集』第三巻より抜粋引用

 「五蘊は経験の範疇であるから、五蘊では我というものは解けない。六識の我執は、五蘊の我執である。六識の我執は、五蘊で解きうるのである。しかし六識には間断がある。そこに、末那、阿頼耶の問題があるのである。六識しか説かぬ小乗阿毘達磨では解けないものがある。そこに初めて我執という問題が、瑜伽によって基礎づけられたのでる。ノエマ・阿頼耶、ノエシス・末那を見いだしてきた。ここで初めて我執が基礎づけられた。

 末那の我執は、経験をまって起こった分別起の我執でなく、経験の基底としての倶生起の我執である。存在規定としての我執である。それで倶生起といわれるのである。むろん、六識の我執には倶生・分別があるが、末那は倶生起に限るのである。

 六師記には倶生と分別がある。第六意識に相応する我執は、倶生起であっても間断する我執である。末那は倶生の我執である。

 煩悩といっても、分別と倶生という観点に照らして初めて、煩悩の存在規定としての性格が明瞭となるのである。末那の貪も、六識の貪も、概念は同じなのであるが、ものは別なのである。

 その次に、心・心所法は作用である。作用の法であるから、相応して起こる方である。単独の作用でなく、無数の作用が呼応の関係で相応する。打てば響く。一つの作用が起れば、他の作用が応えて起こる。意識の世界は、あるかないかということでなく、相応するか、しないかが問題である。その相応のしかたが規則的である。混乱がない。それで、心理学も成り立つのである。心と心所の相応関係。心所にも色々なものがあり、それらの相応関係などが吟味される。まず、十種の煩悩の相応関係がある。 (中略) 最後の痴は、九種の煩悩と相応する。痴は無明でるが、無明の特色は、無明の作用というものは、諸法の事理に迷うことである。諸法の相に迷うことであるから、無明は一切の煩悩の所依であるところにその特色があるのである。故に十二縁起でも最初に置かれている。

 見は慧でるが、見が正見となるか悪見になるかは、無明によるのである。見は解釈である。解釈が正見の反対になることが悪見である。見が正見・悪見に分かれるのは無明によるのである。諸法無我の理に迷うから、我でないものを我とし、有でないものを有とするのである。如何なる場合でも、無明が煩悩の所依となっているのである。こういう解釈によって、煩悩の厳密な理解ができるのである。」(『選集』第三巻p399~404)

 第三は、諸識相応門が説かれます。識というものとの相応関係を明らかにしようとされます。

 「此の十の煩悩は、何れの識とか相応する。」(『論』第六・十七左)

 前科段までに述べてきた十の根本煩悩はどの識と相応して働くのであろうか?

 先ず、問いだ出されます。識の視点から煩悩を分析し説明する科段ですね。大雑把な答は、煩悩が存在しない識もあり、また相応する煩悩が四つであったり、十のすべてであったりと限られているということもあり、必ずしもすべての煩悩が全ての識で相応するとは限らないということを明らかにしています。 

 随煩悩の前に煩悩ですね、「此の十煩悩に於いて誰は幾ばくとか相応する」と問いを出されて、最後に諸々の煩悩は「癡は九種と皆定めて相応す。諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」といっています。癡は無明ですね。無明は私たちには認識できないものです。意識される煩悩は認識することはできますが無明煩悩は仏陀の自内証ですから私にはわからないことです。わからないけれども仏陀の自内証ということで教えられているのです。癡は迷いの根源といわれているのです。仏道を障げるものです。無明が仏道に歩む姿勢を障害するのですね。しかし迷いの中からですね。どうしても止むにやまれない欲求が湧いてくることがあります。「本当のことを知りたい・真実とは何か」という欲求です。自身の内から湧出してくる「本当の自分に出遇いたい」という願いが聞法に突き動かすのでしょう。そうしましたら聞法は何を聞くのか、といいましたら「無明」を聞くのですね。「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。無明を聞くのは無碍の光明に遇うということですね。無明煩悩を白日の下に晒すのは光明です。大悲の願船ですね。「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」といわれるわけです。ですから私たちは煩悩と戦う必要はないのです。煩悩が縁となり一歩前へ歩みを進めることができるのです。煩悩が輝くのですね。煩悩がなかったらどれほど楽かという思いがありますが、それでは「本当の自己」に出遇える縁を閉ざしてしまうのです。生きることの意味も、生まれてきたことの意味も、娑婆の縁つきなば彼の土へはまいるべきなりという、彼の土の意味もわからなくなり、ただ生殖本能だけの無味乾燥の生きる屍となってしまうのではないでしょうか。ですからね。煩悩は煩わしいことに違いないのですが有り難いご縁をいただけることにもつながってくるのですね。

 「此の十煩悩は何れの識とか相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂わく貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に」

 蔵、阿頼耶識です。この識には煩悩は全く無いといわれています。 「十の根本煩悩はどのような識と伴うのか」というところで、阿頼耶識には煩悩は無く、末那識(意)には四有りといわれているところを考えているところです。また煩悩にはですね。生まれつき持っている倶生起の煩悩と、生まれてからいろいろな経験を積んできて起こる分別起の煩悩があるといわれています。『摂論』第一章では阿頼耶識の名と本質について考察がなされていますがその中に汚染されて識と共に考察が進められているのです。それを世親菩薩は『唯識三十頌』において初能変は阿頼耶識の考察、第二能変は末那識(汚染された識)の考察として識の分別をされたのです。その意は私には図り知ることはできませんが、大胆に考えますと「命の尊厳」において別々にされたのではないだろうかと思うのです。「蔵識には全に無し」といわれることにおいて、命そのものには煩悩は働かないということ、命の主体は何ものにも覆われていない無覆無記であることをはっきりされたのだと思います。世親のもう一つの論書『浄土論』の帰敬序は「世尊我一心」ではじまります。この「我」ですが、煩悩に穢されていない「我」でしょう。我という命の主体は阿頼耶識ですね。このことにおいて我が透明性をもつのでしょう。私が生きているということは本来、透明性を持っているものです。私が単独に生まれ、単独に生きているのではありませんね。内因外縁といいますが、父母を縁とし環境を縁とし自らの意思をもって此の世に生を享受したわけです。これは無始無終の命の連綿としたつながりです。そして私にまで届いたのですね。私にまでなった命なのでしょう。公明正大なことですし、私利私欲ではないということです。私は私がと言って命を貪っていますが命の働きは純粋無垢だということを教えられているのですね。命そのものには迷いがないということ、迷っていないから私と共に流転出来るのであると思うのです。これが末那識だとそういうわけにはいかないでしょうね。末那識が主体だとしたら我執が主体ということになり私と共に流転はできないでしょう。内部分裂を起こしますよ。我執は我愛を満足させるために何が何でも利用しますからね。そして命の歴史にですね、私の命にまでになって伝えられてきた歴史です。その重みは何ものにも変えることができない尊厳をもっているのではないでしょうか。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (34) 自類相応門 (20) 

2014-08-10 16:13:16 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 第六は、癡について説明されます。癡はその他の九種の煩悩と必ず相応することを明らかにします。此の中で、癡は無明と云われているわけですが、相応無明と独行無明のあることが明かされます。

 「癡は九種と皆定んで相応す、諸の煩悩の生ずることは必ず癡に由るが故に。」(『論』第六・十七左)

 本科段は、相応無明について一切倶起であることを明らかにし、一切の惑(苦悩)の生起するのは必然として癡に由るのである、と。

 

           貪
           瞋
           慢
 相応無明 {  疑      }  すべての煩悩の生起は癡に由る。
           薩迦耶見
           辺執見
           邪見
           見取見
           戒禁取見

 独行無明(不共無明)は二種に分けられます。

 

          恒行不共無明(末那識と相応して働く無明)
 独行無明 {
          独行不共無明(意識と相応して働く無明)

 

 「論。癡與九種至必由癡故 述曰。下第六無明有二種。相應無明與一切倶起。一切惑生必由癡故。獨行不然。但與諸論相違。此中皆會訖。」(『述記』第六末・三十七左。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第六に無明に二種有り。相応無明は一切と倶起す、一切の惑の生ずることは必ず癡に由るが故に。独行は然ず。但だ諸の論と相違すること此の中に皆会し訖る。」)

 尚、『論』に、いままで述べてきました十煩悩について『論』第六・十六左に問いが設けられていました。この問いについて『演秘』は簡略にまとめていますので、『演秘』の所論に学びます。少し長文ですが最後まで読んでみてください。『演秘』には問いのすぐ後に釈文があるのですが、会本には自類相応門の結文として取り上げられ、第三の識相応門への問いにつながっていきます。

 「論。此十煩惱誰幾相應者。諸論辨此相應不同。今略引之。五十五云。無明與一切。疑都無所有。貪・嗔不相應。此或與慢・見。謂染愛時或高擧或推求。如染愛憎恚亦爾。慢之與見我更相應。謂高擧時邪復推構 五十八云。五見是惠性故互不相應。自性自性不相應故。貪・恚・慢疑更相違故互不相應。貪染令心卑下。憍慢令心高擧。是故貪・慢更互相違 對法第六云。貪不與嗔相應。一向相違法必不倶故。又貪不與疑相應。由惠於境不決定必無染著故。餘得相應。如貪嗔亦爾。謂嗔不與貪・慢・見相應。若於此事起憎恚。即不於此生於高擧及推求。與餘相應如理應知。慢不與嗔・疑相應。無明有二。相應・不共。不共不與嗔・疑相應。疑不與貪・慢・見相應。會如此論及疏。故不重云。」(『演秘』第五末・七右。大正43・921c)

 (「論に、此の十煩悩において誰は幾ばくとか相応するやとは、諸論に此の相応を弁ずること不同なり。今略してこれを引く、五十五(『瑜伽論』巻第五十五。大正30・603a)に、無明は一切と與なり。
 疑は都て所有無く、貪と瞋と相応せず、此れ或は慢・見と與なり。謂く染愛する時に、或は高挙し、推求す、染愛の如く憎恚も亦爾なり。慢と見とは我は更に相応す、謂うく高挙する時、邪に復推搆(スイコウ)すと云へり。五十八(大正30・623a)に、五見は是れ慧の性なるが故に互に相応せず、自性と自性は相応せざるが故に。貪と恚と慢と疑は更に相違するが故に互に相応せず。
 貪・染は心をして卑下ならしめ、憍慢は心をして高挙せしむ、是の故に貪と慢とは更互に相違すと云へり。
 対法第六(『雑集論』巻第六。大正31・723a)に、貪は瞋と相違せず、一向に相違の法にして必ず倶ならざるが故に。また貪は疑と相違せずとは慧が境に於て決定せずんば必ず染著すること無きに由るが故に。余は相応することを得、貪の如く瞋も亦爾なり。謂く瞋は貪・慢・見と相応せず。若し此の事に於て憎恚を起こさば、即ち此れに於いて高挙を生じ、及び推求して余と相違せず。理の如く応に知るべし。慢は瞋と疑と相応せず。
 無明に二有り、相応と不共となり。不共は瞋疑と相応せず、疑は貪と慢と見と相応せずと云へり。会することは此の論と及び疏との如し。故に重ねて云わず。」)

 貪と瞋。貪と慢。貪と疑。貪と見
 瞋と慢。瞋と疑。瞋と見
 慢と疑。慢と見。         } の倶起・不倶起について
 疑と見
 癡は九種と皆定んで相応す。

 以上が、自類相応門で学んできたことになります。各項目の倶起・不倶起については元にもどって幾度も研鑽されますことを念じます。

 次科段からは、第三に識相応門が説かれてきます。
 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (33) 自類相応門 (19) 

2014-08-08 21:42:45 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 第五は、五見同士の相応について

 「五見は展転して必ず相応せず、一心の中に多の慧有るものには非ざるが故に。」(『論』第六・十七左)

 五見は展転して相応しない。何故ならば、一つの心の中に多くの慧が同時に並起することはないからである。

 昨日も述べましたが、見の体は慧なのですね。五見同士の相応については、一つの心所の中に複数の慧が並起することはありませんから、五見同士は相応しないのですね。

 「論。五見展轉至有多慧故 述曰。下第五五見自亦爾。非一心中有多慧故。此據法體並起然前説第七識我見與別境慧倶者。約義別門説有名倶。非二體並起名倶也」(『述記』第六末・三十七右。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第五に五見は自亦爾なり。一心の中に多くの慧有るに非ざるが故に。此は法體並起に據る。然るに前に第七識の我見は別境の慧と倶なりと説くは、義別門に約して倶なりと名づくること有りと、二の体並起を倶なりと名づくるには非ず。」)

 第二能変に末那識の我見について論じられていましたが、そこに於いてもですね、一心の中に二つの慧が並起しないことから、末那識に我見のみが存在し、他の四見は存在しないことを述べているのです。

 末那識の説明の中に下記の所論が述べられています。

 「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四・二十九左)

 (我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)

  第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはあません。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。

 

「一心の中には二の慧有ること無きが故に」 というのは、「見」は慧の一種であるといわれます。智と対比される見です。五種の見の体は慧です。『述記』には「行相別なるが故に」と。五種の見は体は慧で作用は別であるということです。ですから同時に二つの慧の用きが起こるものではないといっているのです。我見が用くと、他の見は用かない。辺執見でいうと、断見が用いているときは、同時に常見は用かないということになるのですね。

 

 この項の詳細は、2011年9月の投稿を参照してください。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (32) 自類相応門 (18) 

2014-08-07 22:15:32 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 本科段(第四)は、疑と他の煩悩との相応について説明されます。

 前科段までに、疑と貪・疑と瞋・疑と慢との相応・不相応について説明されてきましたので、本科段では疑と見との相応・不相応について説明されます。

 「疑は審決(シンケツ)せず、見と相違す、故に疑は見と定んで倶起せず。」(『論』第六・十七左)

 疑は猶予と云われていましたが、それは審決しないということになります。つまり、対象が何であるのかをはっきり認知することがない、このような疑の行相は、審決する見の行相と相違する為に疑は見と相応しないと説かれているのです。

 「論。疑不審決至定不倶起 述曰。下第四疑。雖與慧倶與五見不倶起。見審決。疑猶豫。行相相返故定不倶。簡擇・猶豫可説慧倶。不審決故不與見並。」)(『述記』第六末・三十七右。大正43・451a)

 (「述して曰く。下は第四に疑は慧と倶なりと雖も、五見とは倶起せず。見は審決し疑は猶予す。行相相返するが故に定んで倶ならず、簡択し猶予すれば、慧と倶なりと説くべし。審決せざるが故に見と並ぶにあらず。」)

 「疑は慧と倶なりと雖も」と云われていますが、疑の体について「慧を決せざら令むるなり、即ち慧には非ざるが故に」と護法菩薩の主張を述べていました。疑は慧をして、決定をさせないものである、と。決定させないこと、即ち疑が慧でなはいからである、これが疑の自体であるわけです。しょして五見の体は慧なのですね。「諸の諦理の於に顛倒する染の慧を以て証と為す」と。五見は慧の分位仮立法であって、五見は染の慧であるということなのです。従って、疑と五見とは相応するはずであるのですが、疑と五見とは相応しないと説かれるのです。何故ならば、見は審決し疑は猶予するからであると説明されます。

 つまりですね、慧は審決する働きをもっているのですが、見もまた審決する働きをもっているのですね、そうしますと、見は慧という、染の慧を体とする働きを持つというわけです。しかし、疑は審決することが出来ない、審決することが出来ずに猶予する心所であるということになります。即ち審決することと、猶予することとは相返するわけですから相応しないということになるのですね。