唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (41) 五受相応門 (5)

2014-08-18 22:49:52 | 第三能変・善の心所・第三の七、五受相応門
 

 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)

 昨日の投稿からですね、上記の文章をどうのように読みこなすかですね。宿題は大きいですね。そして続いての文章が

 「かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。」

 機の深信・法の深信の織りなす世界ですね。ここに真宗のダイナミクスが述べられているのでしょうね。すごい世界観・人間観ですね。

 

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 其の二は、慢と五受の相応について説かれます。

 「有義は、倶生と分別起との慢は、苦には非ずして四の受と相応す容し、苦ある劣蘊を恃むときには、憂と相応するが故にと云う。」(『論』第六・十八右)

 有義(第一師)は、倶生起と分別起との慢は、苦受と相応するのではなく、楽受・喜受・憂受・捨受の四つの受と相応するのであると説く。何故ならば、地獄等に於て、苦のある劣蘊を恃む時は、苦受と相応するのではなく、憂受と相応するからである、と第一師は主張する。

 先ず、『述記』の所論を聞いてみましょう。

 「 論。有義倶生至憂相應故 述曰。第二明慢有二説。此初也。此二種慢五趣爲論。容四受倶。唯除苦受。由苦趣中亦恃己身有苦劣蘊。起慢之時與憂相應。此依實義慢與憂倶。前約相麁説慢不與身・邪見一分倶。不恃苦蘊故。此唯意識。故通分別。不同貪等苦得定説。」(『述記』第六末・三十九左。大正43・451c)

 (「述して曰く。第二に、慢を解す。二説あり。此は初なり。此の二種の慢(倶生起・分別起)は五趣に於て論を為す。四受と倶なるべし。唯、苦受を除く。苦趣の中にもまた己の身の苦ある劣蘊を恃んで慢を起こす時憂と相応するに由るなり。此は実義に依り慢は憂と倶なりという。前には相麤なるに約して、慢は、身と邪見との一分と倶にあらずと説く。苦蘊を恃まざる故に、此れ慢は唯だ意識にあり。故に分別に通ず。貪等の苦を定めて説くことを得るには同ならず。」)

 第一師の説 - 慢は、喜受・楽受・憂受・捨受の四受と相応すると説く。

 第二師(護法)の説 - 慢は五受すべてと相応すると説く。

 第一師の主張は、「五趣に於て論を為す」と、悪趣における第六意識には憂受のみあって苦受の存在は認めないとする立場です。慢は、第六意識と第七末那識に存在する煩悩ですね。そして、末那識は有覆無記で、捨受とのも相応しますから。慢は捨受と相応することがわかります。そして、第一師は「苦受を除く」と主張していますから、その他は有るということになります。問題は苦受ですが、「 苦趣の中にもまた己の身の苦ある劣蘊を恃んで慢を起こす時」ですが、地獄の中には逼迫受(苦受)しかないわけですが、その地獄の第六意識いさえ苦受は存在しないと主張しているわけですから、五趣に(悪趣)には苦受は当然存在しないという主張になります。そうすれば、地獄の中で慢と相応する第六意識は苦受とは相応せず、憂受と相応するのである、ということになります。

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 『安田理深選集』第三巻、p408~409

 「つまり状態によって、五蘊は苦・楽のみであるが、六識は喜・憂の他に、状態によって楽を起こしうるのである。ところがここで、意識に苦を許すか許さないかが大きな問題となってくるのである。ここの見解の相違がある。

 一に、意識に苦の相応を許さず、ただ憂のみという場合。

 二に、意識にも苦は起こるという場合。

 二の見解は、地獄というような状態から考える。

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 次に慢はどうか。これは、苦を除いた四受と相応が可能であるという。慢であるから、他と比較して喜や楽と相応することは、やはり当然のことである。その点は、改めて吟味するまでもない。そこで今度は、不幸な境遇をもった自分の身を考えた場合、苦の劣蘊である。地獄・餓鬼・畜生という不幸な境遇を考えるとき、身は苦の劣蘊である。その場合、苦の劣蘊をたのんでいるのである。慢であるから、その場合は、憂と相応しているのである。慢は、第六意識のみにしか起こらない煩悩である。他と比較するのであるから。第六意識であるから、苦がないのは当然だといえる。」

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 本科段の前提は、第三能変・受倶門において説かれてきたことです。第一師の主張の概略は、

 「意識と倶なるは、有義は唯だ憂という、心を逼迫するが故に、諸の聖教に、意地の慼受(しゃくじゅ)をば憂根と名づくと説けるが故に」(『論』)

 (意訳)第六意識と共なる逼迫受は有義(安慧の説)は、ただ憂受という。なぜなら心を逼迫するからである。そして諸の聖教(『対法論』巻第七)に第六意識の慼(うれい)受を憂根というと、説かれているからである。

 「此の意には唯憂のみ有り。唯分別なるが故に。緒の聖教に意識と相応して有る所の慼受をば、皆憂と名づくと説くが故に。これは長徒の義なり。若し地獄の意に苦有りと言うものならば、何が故にか説かぬという」(『述記』)

 これが第一師の説で、『述記』には長徒の義と述べ、具体的な論師の名を挙げていませんが、注釈等から安慧の説であるとされています。第六意識は分別意識であるので、これと相応する逼迫受は、憂受のみで、苦受はないという立場です「瑜伽論に説かく、地獄の中に生まれたる諸の有情類は、異生の無間に異熟の無間に異熟生の苦憂相続すること有りといえり」(『論』)

 (意訳) 『瑜伽論』巻第六十六に「此の受は一切処に於いて異熟の所摂なりと。余の苦楽受は応に知るべし、皆な是れ異熟の所生にして其の種子の如きは異熟の所摂なりと。即ち此の因、此の縁に随って因縁と為るが故に異熟生より那落迦(地獄)の諸の有情類を生じ、異熟の無間に異熟生あり、苦憂相続して那落迦に生ず。・・・」と語られてあります。「異熟の無間」というのは、初めに生じる心であり、阿頼耶識を指します。「異熟生」は前六識を指し、「異熟生の苦憂相続すること」というのは、六識中、前五識は苦が相続し、第六意識は憂が相続するということになります。このようなことから、地獄の逼迫受を受ける第六意識には憂受のみあって、苦受はないという証拠であるといっています。

 「異熟の無間というは、初生の心なり。是第八識なり。苦・憂相続というは、第八異熟心に次いで後に生ずるをもって、地獄中の意は唯苦のみあらば何が憂と言うや。此の師の意の説かく、(『瑜伽論』)五十七に地獄に八根を成ずることを言うは、定んで六識に約して論を作すという。客の受に依って説けり。五十一等に六識の中に受をば名づけて客受とすと説けり。謂はく五色根と意と命と或いは憂とは定んで成就するが故に。余は皆間断す。或いは復五識の苦を取る。・・・」(『述記』)

 「又説かく、地獄の尋伺(じんし)は憂と倶なり、一分の鬼趣と傍生とも又爾なりという」(『論』)

 「是の如く若くは一分の餓鬼及び傍生の中に生ずるもまさに知るべし亦爾なりと」(『瑜伽論』巻六十六)

 (意訳) 地獄の中の尋伺は、憂と倶である。尋伺はただ第六意識と相応するので、地獄の中の第六意識には、憂受のみあって、苦受はない証拠である。餓鬼と畜生もまた同様である。鬼趣は餓鬼のこと。傍生は畜生のことです。「一分の」というのは純苦処であることを意味します。

 「故に知る、意地の尤重(うじゅう)なる慼受(しゃくじゅ)すら尚名けて憂と為せり、況や余の軽なる者をや」(『論』)
 
 「此れは結ぶなり。意の重き処を以って余の軽き処に例す。重く遍する尚然り、況や余の軽く逼するをや。第一師の意なり」(『述記』)
 (意訳) 以上述べてきたことに依って、意識の尤も重い憂い(慼はうれえる・くよくよする意)でさえ憂受と名づけられる。ましてや他の軽いものであればなおさらのこと、憂受というべきである。
 第一師の説(安慧)は、第六意識と倶である逼迫受は憂受であり、苦受はないと主張しているのです。
 ここに『述記』には問答が設問されてあります。 「問う。第六識の中の捨受も既に亦不善の業に招かれる。何が故か、地獄に捨受無しというや。 答う。苦重きを以っての故なり。不善業の軽に即ち捨根有り、少しき静なるを以っての故に。然も総報(第八識の捨根)には同じからず、総報は相続するが故に、趣の体なるが故に、報の主なるが故に、若し是れ苦ならば善趣に違しめるが故に」。なぜ地獄には捨受はないのかという設問に、地獄は苦が重いから捨受はないのである。不善業のように軽いものには捨受はある、それは少しでも静をもっているからである、と。
 以上は受倶門において述べられてきた内容ですが、この所論を受けて本科段が説かれているわけです。

 

 


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