唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (17) 信の作用 (15)

2013-05-22 00:02:44 | 心の構造について

 護法の論破

 「若し印して順ずるならば、即ち勝解なるべきが故に。若し楽うて順ずるならば、即ち是れ欲なるべきが故に。」(『論』第六・二左)

 もし信が、印して順じるものであるならば、それは即ち勝解に他ならない。そして、信が楽って順ずるものならば、それは即ち欲に他ならないのであって、信ではない。

 前科段において、大衆部及び大乗の異師の説として、「信は随順することを以て自相とする」と主張していましたが、護法はこれを論破したことをうけて、更に反論をするという構成になっています。「その体は欲と勝解ではない」と。体は欲と勝解でなないという反論に対して護法は論破します。随順の体こそが勝解や欲に他ならない、と。

 随順に二種あるというのが護法の正義になります。一には印順は、つまり勝解である、信が印して対象に順じるものであるならば、それはつまり勝解に他ならないのである。二は、楽順(楽って順じるものであるならば)つまり、これは対象を楽うものであるから、欲の心所のことである。

 従って、「信の体は随順することをもって自相とする」という限り信は勝解と欲の心所と同じことなり、それは信ではないと論破します。

 「論。若印順者至即是欲故 述曰。論主難云。隨順有二種。一者印順即是勝解。印而順彼故。二者樂順即是欲數。樂於彼法即是欲故 若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(『述記』第六本下・七左。大正43・435a)

 「若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(若し彼救して二倶なるの順の体是れ信なり。即ち欲と解とに非ずと言わば)

 「二倶(勝解・欲を同時に備えたものが)なるものが随順の体なのであって、これが信である、随順の体は欲と勝解なのではない」というのであるならば、と大乗からの異師の再反論が提出されています。

 


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