大衆部の説を挙げ、次に論破する。
「有るが執すらく、信は随順するを以て相と為すという。」(『論』第六・二左)
大乗の異師、或は大衆部の論師は、法に随順することを信の自相とすると説く。
「論。有執信者隨順爲相 述曰。或大乘異師。或是大衆部。以隨順彼法是信相故。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a)
(「述して曰く。或は大乗の異師、或は大衆部なり。彼の法に随順す、是れ信の相なるを以ての故に。」)
「応に三性に通ずべし、即ち勝解と欲なるべし。」(『論』第六・二左)
大乗の異師等の主張であるならば、信はまさに、三性に通ずることになるであろう。即ち悪にも通じてしまう、信が三性に通じるのであれば信の体は、即ち勝解と欲とになるであろう。
しかし信の自相は勝解や欲ではないことはすでに述べた通りである。信の体は欲ではない、また勝解は三性に通じるが、善の心所である信が三性に通じたり、悪に通じるということにはならないのである。
「論。應通三性即勝解欲 述曰。境有三性故隨通三。若許爾者應勝解・欲 彼若救言雖言隨順體非解欲者。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a)
(「述して曰く。境に三性有り。故に随って三に通ずべし、若し爾なりと許さば、応に勝解と欲なるべし。彼若し救して随順すと言うと雖も、体は解と欲とに非ずと言わば、)
つづく
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