唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (18) 信の作用 (16)

2013-05-22 21:43:26 | 心の構造について

 護法、論破して言う。

 「彼の二の体に離れては順の相無きが故に。此に由って応に知るべし、心を浄ならしむるいい是れ信なり。」(『論』第六・二左)

 彼(欲・勝解)の二の体を離れては順(随順)の相(自相)は無いからである。即ち、随順の自相は欲と勝解の働きであって、信の働きではない。これによって知るべきである。心を浄らかにするのが信である、と。

 「論。離彼二體至心淨是信 述曰。論主難云。若離欲・解決非順相。非彼二故。如受・想等。故論但言離彼二體無順相故。由此應知心淨爲信。忍可及欲是信之具。正理論師以忍可爲信。即當此勝解也。」(『述記』第六本下・七左。大正43・ 435a)

 (「述して曰く。論主難じて云く。若し欲と解とを離れて決して順の相に非ず。彼の二に非ざるが故に。受想等の如し。故に論に但だ彼の二の体に離れて順の相無きが故に、此れに由って応に知るべし、心の浄なるを以て信と為す。忍可及び欲は是れ信の具なり。正理論師忍可を以て信と為すは即ち此の勝解に当たるなり。)

 忍可とは、勝解のことです。忍可と欲は信の具であると説明しています。具ですから、まあ材料ということになりますね。信そのものではなく、信の具材、信が備えていうものということになります。他の大乗の異師や大衆部の論師の主張は、信の因(忍可)と信の果(欲)を信の自相と錯誤しているのである、と論破します。正義は、信は心を浄らかにする働きである、と。

 


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