唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (120) 開導依 その(25) 安慧等の説 (20)

2011-07-02 16:13:51 | 心の構造について
 「悲願と相応する善心に依る」
 悲願と相応する善心とは、二智相応の善心ということ、即ち妙観察智と平等性智の二智相応の善心ですね。
 「菩薩の受生(じゅしょう)するならば、『対法』第五の如く、是の願力有るは、此れは要らず十地の大菩薩衆の有情を度せんがなめなり。若し分段にも若し変易にも亦二智の善心を縁と為るに由って第八起こることを得。此の説は初地に通ずという。或いは説いて八地に在りという。前の説を勝とす。」(『述記』第五本・九左)
 「今此の師(安慧)の所説の染の意は、或いは世親に同なり。或いは無性に同なり。或いは染意と云うは第七に依って説くべしと云う。相応する悲願と云う。即ち第六識なり。此れを以て証と為し、第八は第六・七を用いて開導依と為すと証誠す。因の大悲は第六に依るを以ての故に。染も復た第六ならば、第七をば証せざるべし。或いは此の師の意は、且く凡夫の一分に據って説けり。初受生する識は染汚意を以て方に受生することを得る。即ち中蘊の末心は転輪王を除きては必ず貪瞋を起こして方に受生することを得るを以て相応する悲願は即ち是れ二智なり。」(『了義燈』第四末・二十一右)
 意味は十地の大菩薩衆が分段生であれ、変易生であれ、有情を済度する為である。二智の善心により第八識を生起させるということであり、これに由って第六識と第七識は第八識の開導依となるということを示しているのです。
 「既に爾らば、必ず第八識は、亦六・七を以ても開導依と為すと許す応し。」(『論』第四・二十四右)
 (安慧等の説を結ぶ。すでにそうであるならば、必ず第八識は前念の自識の他に、また第六識と第七識をも開導依とすると許(こ - 許す・認める・承認する。)すべきである。)
 「述して曰く、既に三の証(『無性摂論』・『世親摂論』・『対法論』)有るが故に知る。第八は六・七を以て依と為るということを。前の八識は皆な過と証と有るに由って。」
 「此れに由って彼が言は、都て理を究めざるなり。」(『論』)
 (これに由って彼(難陀等)の主張はすべて理を究めていないことがわかるのである。)
 「第三に結んで云く、彼が所説の言は都て理を尽くせること無しと云う。」(『述記』)
 この科段までが安慧等による難陀等の諸識の開導依説を個別に論破してきました。以上で個別の破斥が終わり、次の科段から安慧等が自説を述べます。




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